「第7回 現代詩画展 小品展」で感性に水やり、しかし大失敗もしてしまった
今日は「木々に新緑が目立ち始め、夏の気配を感じる頃」とされる、二十四節季の一つ「立夏」だ。日差しがあまりきつくなく救われたが、立夏に相応しく昼間は暑さを感じるお天気だった。
そんな中で、今日はとても恥ずかしい行いをしてしまった。大失敗だ。深く反省するとともに、いささか忸怩たる思いでいる。
展覧会などに行く場合には、相当な時間的余裕を持っていくことを心がけている。その展覧会をゆっくりと鑑賞したいと思いが深い故だ。同時に、ていねいに準備された方々に、駆け足鑑賞では失礼とも思うからだ。
そんな思いでいるのだが、今日は本当に失礼なことをしてしまった。私のように田舎に暮らす人間にとっては、毎日毎日でかけるというわけにはいかず、所用が出来たら、その日にいくつかの用事も合わせてすますといった具合だ。
今日もいくつか回ることを計画して、その展覧会は、少しだけ時間的には余裕を持たせて行った。ところが、会場である「さん太ギヤラリー」に入る前の広場で、お世話になった方にお会いし、少しだけ「おかやま・歌舞伎・観る会」の今後についての話となり、結構な時間がかかったしまった。
そんなことで、現代時の壺阪輝代さん、日笠芙美子さん、そして画家の尾崎博志さんの三人展である「第7回 現代詩画展 小品展」(+[招待]書道家・曽我英丘)では、次の約束もありお誘いいただいたお茶すらお断りし、駆け足での鑑賞となってしまった。恥じ入るばかりだ。こうした失礼がないように、今後心したい。
ところで、この「現代詩画展」は、毎回楽しませてもらっている。尾崎さんが描かれた絵に、壺阪さんと日笠さんが詩を書き、それを合わせて展示するというものだ。「なるほど、この絵からこうしたことを連想しますか」と感心しつつ、会場を回る。いつもながら豊かな表現力に心が温まり、少しだけ感性に水やりできた気がする。ホント、心地よい空間だ。
それ故、今日の失礼な鑑賞が悔やまれてならない。壷阪さん、日笠さん、尾崎さん、本当にゴメンナサイ。
なお、「現代詩画展」は5月8日(日)まで、「さん太ギヤラリー」で開催されている。あなたも、鑑賞されてみては如何。
米沢富美子著『朗朗介護』を読んだ。介護を「朗らかに」語っていて感動した
GWは終わった。今年もGWには、何もしなかった。いや、今年は畑仕事をした。それ以外は、少しだけ本を読み、自堕落に過ごした。今日は、そんな読んだ本の中の一冊を紹介する。
介護は「介護者の生活を破壊する」ことで、「介護地獄」とも言われたりする。そんな介護について、『朗朗介護』(朝日新聞出版)の著者米沢富美子さんは、「介護という津波に押し流されそうになりながら、この五年間、溺れないように頑張ってきた。つらいとか苦しいとか思わないでおこう。介護する私や妹も『朗らかに』、介護される母も『朗らかに』。両方で『朗朗』でいられるようにしたい。どうせ一度しかない人生ならば、皆が楽しくなくては意味がない。それが、私の哲学である」と、その本の「はじめに」で書いている。
米沢富美子さんは、朗朗介護、老老介護の他に、労労介護(苦労が計り知れない)、牢牢介護(介護する側も牢につながれた囚人のように、時間的空間的に拘束される)、等々いろんな言葉で介護は語っている。また、介護貧乏という言葉も出てくる。それでも、それを乗り越えて明るく書いていて、時々笑いながら読める。
昨今、羊頭狗肉のものが多いが、この本はまさに「朗らかに」介護の実態を書いており、暗くならず、頑張っていこうという気にさせる。それでいて、内容はしっかり介護の本質をついている。さすが「物理学者」で、理路整然と批判すべきは批判しつつ、お母さんの介護を通して見えてきたこと普遍化して書いている。まさに好著だ。
「要介護状態にあっても、かけがえのない愛おしい命であることに変わりはない。衰え行く命を守るのは、科学ではなく、その命を慈しむ人間の愛情である。介護者は介護をとおして、愛することと生きることの原点に、否応なく日々向き合い、人生の意味を学ぶ。私は、多分、母の介護を経験しなかったときと比べて、少しだけ真っ当な人間になれたかもしれない」と、著者は書いている。この言葉は科学者が書いているだけに重い。
また、こうも書いている。「介護の必要な高齢者も、誰ひとりとして『草臥れた唯の年寄り』なんかでは断じてない。それぞれが、生きてきた長さだけの荘厳な歴史と、語りつくせぬ深い思いがある」。私も既に前期高齢者、いつ要介護者となるかも知れない。そんな不安な心を持ちながら、『朗朗介護』を読んだ。