常套手段を
誤認起床が2日も3日も続いたりしてしまうと、やっぱり何処かしら心身に歪が出来てしまうので、そういう状態は出来うる限りは回避したいと、半覚醒の靄もやが霧散してゆくのを待って矯正視力1,0を確保してから慎重に老い耄れた(と、こんな表現は自分を貶める。桑原桑原)目覚まし時計の褪色したミドリの蛍光色を纏った長短針を丁度良い距離まで引き寄せてしっかりと視認する。
05:15を指し示している。間違いない。(22:55-05:15=05:20)何時ものように唯我独尊の数式に当て嵌めてみると、う~ん、まずまずの数値なのかな~?!と8割方の納得づく(人生に起る、或いは起こったもので、4分の3以上もの満足度が得られれば、大概は万々歳に違いないよね)で起床となった次第の長月24日、日曜日の午前5時26分に居る。
意識がどんどん明瞭になって来るのに伴って、書く意欲が当たり前のようにじわじわと湧いてくるのを感得。手近にある(何時でも使用可能になるように周囲に周到に準備してあるのだ)片面白紙(廃物利用の一環にも貢献する)の不必要になったコピー用紙を綴じ込んだA4のmemo用紙にこの散文を書き込んでいる。
書く事と撮ったものを明確に用意できなかった場合の緊急事態の打開策として、殆ど常套手段となっている方法で、朝のひと時を長々と吐露するだけの綴り方教室の宿題のような一篇の作文を認める。
健気にも覗いてくれた人は、こんなものではなかなか満足はしてくれないだろうと予測はできるのだが、そうしてそういう状況に陥ってしまう環境を自戒する身だが、ただ書く事の使命感(自分に対する箍みたいなもので、大仰な物言いになるのだが・・、そんなに肩ひじ張った物ではないので必然的に威厳や切迫感の伴わない)に急かされてペンを握り、書く場所が提供されると、まるで書くという行為そのものに奉仕することに重点を置いてしまうのだ。
むべなるかな。読者も筆者も。そう完結するよりない。
09/24 06:44 まんぼ