書棚を整理していて、出てきたのが、一世を風靡したニッポンの経営コンサルタントが書いた書籍。
「心に革命を起こせ」 田辺昇一著
「経営コンサルタント入門」 田辺昇一著
「船井幸雄の五輪の書」 船井幸雄著
「運を創る 運を開く」 船井幸雄著
「船井流101の経営法則」 船井幸雄監修
「企業参謀」 大前研一著
「続企業参謀」 大前研一著
「ストラテジックマインド」 大前研一著
戦後から昭和の高度成長期を駆け抜けた経営コンサルタントの著作。
(大前さんは、少し若いですが・・・)
いけいけ・どんどんの心意気を感じる書籍です。
ふと、気がついたのが、3人とも理科系の学校を出ているということ。
田辺さんは東北大学工学部で航空機を専攻、
船井さんは京大農学部で農林経済学を専攻、
そして、大前さんは早稲田大学理工学部で原子力を専攻。
皆さん、理工系を専攻されています。
経営コンサルティングが、もともと、管理技術としての、IE、QC、VEからスタートしたことを考えると、
やはり理工系の土台、素養が必須のように思います。
日本の経営コンサルタントの歴史を振り返ってみても、その多くは、理工系出身です。
20世紀初頭、経営コンサルタントが「能率技師」と呼ばれていた時代も、
やはり理工系出身者がメインストリームの仕事をしていました。
20世紀初頭、日本における能率運動において、
官僚の山下興家、
軍人の伍堂卓雄、
民間人の上野陽一は、「日本能率界の3先達」と呼ばれています。
山下興家(1881~1960)
1906年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、南満州鉄道に就職。
1916年に鉄道院の技師となり、大井工場長、大宮工場長、工作局長として働き、1933年に退官。
日本機械学会の会長をつとめたのち、戦後の人事院設立とともに初代の人事官に任ぜられ、上野陽一とともに公務員制度の確立に尽力。
また、カナモジカイの理事をつとめ、上野とともに国語国字問題の研究を続けました。
伍堂卓雄(1877~1956)
海軍軍人として呉海軍工廠における重工業分野での生産能率で大きな功績を残しました。
伍堂は、東京帝国大学工科を卒業後、海軍に入る。後にリミット・ゲージ・システムと呼ばれる能率的分業体制を確立。
伍堂は、呉海軍工廠においてタイムスタティ、管理組織の研究を続け、国際的な軍縮の流れの中で、日本連合艦隊の機能強化に尽力しました。
世界最大級の戦艦大和の建造でも使用されたブロック工法もこの時考案されたもの。
戦後は日本能率協会の会長をつとめました。
上野陽一(1883~1957)。
明治38年に、小林商店(現ライオン株式会社)の歯磨き粉工場で、日本ではじめて経営コンサルティングを実施。テーラー、ギルブレスの流れをくむ科学的管理法(サイエンティフィックマネジメント)で工程改善。
大きな成果をあげました。
上野陽一は、東京帝大文学部哲学科卒業。
ただし、専攻は、当時の最新学問だった心理学。
心理実験で各種の測定機器を用いた研究を続けていたという意味では、理科系に近い人物だったように思います。
上野陽一は、1925年に日本産業能率研究所を設立、1942年には日本能率学校を創設。
それが、戦後、産業能率大学に発展していきます。
「能率の父」と呼ばれています。
さらに、上野陽一とともに民間の能率技師と活躍した荒木東一郎も忘れるわけにはいきません。
荒木も理科系出身の能率技師(経営コンサルタント)です。
荒木東一郎(1985~1966)
技術畑出身のエンジニア。
米国アクロン大学で工学修士を取得。
荒木と上野は、上野が日本産業能率研究所の所長を務めた時期に嘱託として参画。
能率理論の啓蒙を重視した心理畑出身の上野に対して、
荒木は能率の実践指導を優先する技術畑、「考えるより行動、知識ではなく知恵」を主張。
荒木は、能率指導によって企業等が得られた利益に連動して報酬を受け取るという成果報酬の仕組みを日本で初めて採用した異色の経営コンサルタントです。
著作や教育活動の多かった上野に対し、あくまで荒木は企業経営に密着したとのことです。
上野陽一とともに、中小企業診断士制度の礎を造ったと言われています。
一時期、MBAホルダーを中心とした文科系の経営コンサルタントも出てきましたが、
やはり主流は理科系出身の経営コンサルタントだと思います。
AI、ビッグデータ、IoT、統計学・・・理科系の時代、理科系人材の隆盛が再び始まりそうです。