孝明天皇は暗殺されたのですか。
ベストアンサーに選ばれた回答
osamuimonoさん
2007/10/1121:55:12
孝明天皇が暗殺されたという記載がされた史料はありません。
しかし、その前後の状況を考えた場合、暗殺されたと考えるほうが辻褄が合います。
つまり、物的証拠はないものの、状況証拠を積み上げると限りなく”クロ”に近いと言えます。
孝明天皇は公武合体派であり、倒幕には反対していました。
京都守護職であった松平容保を非常に信任してもいました。
倒幕派にとっては非常に邪魔な存在であったわけです。
孝明天皇崩御の後、明治天皇が即位するわけですが
倒幕の考えの強い明治天皇の即位によって倒幕が成功したと言えます。
別の言い方をすると、孝明天皇があのタイミングで崩御したからこそ
明治維新がなりえたと言えると思います。
孝明天皇の暗殺(あくまでも”説ですが)の犯人として一番疑われているのが
岩倉具視です。
岩倉具視は明治維新とともに新政権の頂上に上りつめました。
一番の権力者にとって不利な史料が(公式に)残るはずはありません。
しかも、倒幕派の一番の大義名分は”尊王”です。
その”尊王”の人間が王=天皇を暗殺したとしたら
彼らの行動に正当性はまったくなくなります。
ですから、史料に残っていないのは当然であり
孝明天皇の崩御で利益を得た人間が疑われます。
余談になりますが、
孝明天皇暗殺説とともに
明治天皇替え玉説というものも存在します。
flhiqvcさん
2007/10/1400:14:30
孝明天皇の死因は公式では天然痘(疱瘡)ですが、中山忠能(明治天皇の外祖父)の日記では天皇の最期が「御九穴より御脱血」という異様な様子であり、「此の度の御痘、全く実疱には在らせられず、悪瘡発生の毒を献じ候」という宮中で働く老女の手紙(天皇の死後、宮中でも毒殺の噂もあった)も紹介もされているため、後世、暗殺の疑いを持たれたようです。
1970年代になると孝明天皇の主治医であった伊良子光順の日記がその子孫伊良子光孝により一部公開されました。その日記の記述を根拠に「急性毒物中毒の症状」、つまり毒殺であると看做す学者もいる一方で、死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性痘瘡の両者をふくめた出血性痘瘡」であり、やはり公表どおり病死であると主張する学者もいます(原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」[『日本近代史の虚像と実像』1])。
他の方も回答されているように当時の天皇周辺の状況から暗殺も推測されるのですが、結論としては、現在、決定的な史料が発見されていないため暗殺とするのは妥当ではないと思います。
ggaatteennさん
2007/10/1108:37:18
岩倉具視の妹が孝明天皇の看護人の中にいました。
動機もあり、強く疑われる立場です。
岩倉具子という具視のお孫さんがいますが、この人は
加山雄三さんの母親です。加山さんは公爵家の血を
引いているんですねえ。
ritter_siteさん
2007/10/1022:25:49
史実では『病死』です。
しかし、考明天皇が崩御した事で、明らかに状況が好転した立場の人間がいます。
天皇の存命中は、京都の北の寒村に蟄居させられていた岩倉具視ら、幕府対して対立を主張していた公家たちが、明治天皇の即位を機に朝廷に戻り、薩摩の西郷隆盛や大久保利通らの後ろ盾で、親幕府派の中川宮、京都守護職の松平容保らを劣勢に追いやった事で、岩倉が暗殺の黒幕とされた、という説があります。
ベストアンサーに選ばれた回答
osamuimonoさん
2007/10/1121:55:12
孝明天皇が暗殺されたという記載がされた史料はありません。
しかし、その前後の状況を考えた場合、暗殺されたと考えるほうが辻褄が合います。
つまり、物的証拠はないものの、状況証拠を積み上げると限りなく”クロ”に近いと言えます。
孝明天皇は公武合体派であり、倒幕には反対していました。
京都守護職であった松平容保を非常に信任してもいました。
倒幕派にとっては非常に邪魔な存在であったわけです。
孝明天皇崩御の後、明治天皇が即位するわけですが
倒幕の考えの強い明治天皇の即位によって倒幕が成功したと言えます。
別の言い方をすると、孝明天皇があのタイミングで崩御したからこそ
明治維新がなりえたと言えると思います。
孝明天皇の暗殺(あくまでも”説ですが)の犯人として一番疑われているのが
岩倉具視です。
岩倉具視は明治維新とともに新政権の頂上に上りつめました。
一番の権力者にとって不利な史料が(公式に)残るはずはありません。
しかも、倒幕派の一番の大義名分は”尊王”です。
その”尊王”の人間が王=天皇を暗殺したとしたら
彼らの行動に正当性はまったくなくなります。
ですから、史料に残っていないのは当然であり
孝明天皇の崩御で利益を得た人間が疑われます。
余談になりますが、
孝明天皇暗殺説とともに
明治天皇替え玉説というものも存在します。
flhiqvcさん
2007/10/1400:14:30
孝明天皇の死因は公式では天然痘(疱瘡)ですが、中山忠能(明治天皇の外祖父)の日記では天皇の最期が「御九穴より御脱血」という異様な様子であり、「此の度の御痘、全く実疱には在らせられず、悪瘡発生の毒を献じ候」という宮中で働く老女の手紙(天皇の死後、宮中でも毒殺の噂もあった)も紹介もされているため、後世、暗殺の疑いを持たれたようです。
1970年代になると孝明天皇の主治医であった伊良子光順の日記がその子孫伊良子光孝により一部公開されました。その日記の記述を根拠に「急性毒物中毒の症状」、つまり毒殺であると看做す学者もいる一方で、死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性痘瘡の両者をふくめた出血性痘瘡」であり、やはり公表どおり病死であると主張する学者もいます(原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」[『日本近代史の虚像と実像』1])。
他の方も回答されているように当時の天皇周辺の状況から暗殺も推測されるのですが、結論としては、現在、決定的な史料が発見されていないため暗殺とするのは妥当ではないと思います。
ggaatteennさん
2007/10/1108:37:18
岩倉具視の妹が孝明天皇の看護人の中にいました。
動機もあり、強く疑われる立場です。
岩倉具子という具視のお孫さんがいますが、この人は
加山雄三さんの母親です。加山さんは公爵家の血を
引いているんですねえ。
ritter_siteさん
2007/10/1022:25:49
史実では『病死』です。
しかし、考明天皇が崩御した事で、明らかに状況が好転した立場の人間がいます。
天皇の存命中は、京都の北の寒村に蟄居させられていた岩倉具視ら、幕府対して対立を主張していた公家たちが、明治天皇の即位を機に朝廷に戻り、薩摩の西郷隆盛や大久保利通らの後ろ盾で、親幕府派の中川宮、京都守護職の松平容保らを劣勢に追いやった事で、岩倉が暗殺の黒幕とされた、という説があります。