2月21日夜のTV番組「情熱大陸」で紹介された

2016年02月22日 11時40分07秒 | 医科・歯科・介護
フリーランス口腔外科医“岩田雅裕先生”とは?

40’Exchange Hack 2016年2月21日 投稿者: 角田 勲
http://40exchange.com/iwatamasahiro-380 より

岩田雅裕(歯科医)のカンボジアで情熱大陸! こんな人見たことない!
岩田雅裕先生は、1986年、岡山大学を卒業されてから、数多くの病院で勤務されています。
•岡山大学附属病院 口腔外科
•広島市民病院 口腔外科 (口腔外科部長)
•岡山赤十字病院 口腔外科
•琵琶湖大橋病院 口腔顎顔面外科
•岸和田徳洲会病院 顎顔面口腔外科(顎顔面外科部長)
•宇治徳洲会病院 口腔外科
などです。
岩田先生のHPを見てもらえればわかるんですが、とてつもない数の手術をされています。
•顔面骨骨折手術   2120件
•顔面、頸部消炎手術  660件
•良性腫瘍手術    2010件
•頭頸部がん手術   1430件
など、上げていけばきりがないくらいにやられています。
33歳で部長に抜擢されるくらいですから、然うとの腕前だったんではないでしょうか?
そして、2013年に退職されて、フリーランスの歯科医に。
そこには、深い理由があるんです。

■フリーランスになった理由?
フリーランスになった理由は、
カンボジアの人を助けたい
理由はこれだけだと思います。

2001年、友人に誘われてカンボジア旅行に行かれます。
その時、NPОが運営する小児病院を訪れます。
その後、何か月か過ぎた後、再び訪れた時に、手術の依頼が来てその場で執刀することになったそうです。
その時の手術の状態、病院自体の状態、カンボジアの国の医療に関する状態を見て、やらなければいけないという気持ちが湧いたそうです。

ふつう、日本では器具、検査機器、スタッフなどがすべてそろっていないと手術は難しいのですが、カンボジアではそんなことは言っていられないそうです。
何と言っても、お医者さんの数が圧倒的に足りないんですよね。
過去の独裁政権の時に、医療制度がメチャクチャに壊されてしまったんです。
ですから、お医者さんはいないし、お医者さんを育てていくような機関、先生などが全くない様なんですよね。

ある意味では、離島のお医者さんに共通するメンタルだと思います。
規模はメチャクチャ違いますが。
片方は、島ですが、もう一方は国ですからね。

お金も大切だと思いますが、教育ももっと大切だと思います。
日本も、そちらの方の支援もしっかりしていってもらいたいですね。

ただ、岩田先生は一人で戦っているわけではないんです。
となりには、奥さんがいるんです。

■岩田先生の奥さんとは?
岩田先生の奥さんは、1981年生まれの34歳。
だいぶ年齢が離れているんですが、奥さんも葉に関わる仕事をされています。
歯科衛生士です。
2007年にカンボジアに行かれた時に、岩田先生とお知り合いになられたそうです。
そして、岩田先生の仕事をサポートするために、非営利団体の一般社団法人ウィズアウトボーダーを設立して、岩田先生の活動を世間に知ってもらうような活動をされています。
2016年には、お二人で大山激励賞を受賞されています。
大山激励賞は、発展途上国で長年、医療協力に尽くしている方に贈られる賞なんです。
さらには、今回の『情熱大陸』みたいに、メディアに紹介されることによって、多くの支援が集まったり、同じような志の先生が現れてくると思います。
私も、なんでもいいので応援していきたいと思います。














健康は全ての活動源

2016年02月22日 10時28分27秒 | 社会・文化・政治・経済
★変わろう、成長しようと日々、努力する。
その過程で不動の自身が築かれる。
ぶれない「芯」があれば、試練に負けない人生を開いていける。
★勇気は挑戦を受けると大いに力をつける―セネカ
★「現証こそ宗教の生命」
★教育目的は「子どもの幸福の実現」
★芸術や文化を通して、人間の精神を豊かにし、「平和の心」を世界に広げていく。
★郷土を愛し、地域に尽くす心。
★健康は全ての活動源。
★「食事・睡眠・運動」の健康3原則。
生活習慣病の予防にもなるはず。
★聡明な生活で「使命の人生」を歩んでいく。

大正ロマン

2016年02月22日 09時51分09秒 | 創作欄
「大正ロマンて、好いわね」と鳳鈴子が言った。
小峰徹はその彼女言葉を深く胸に留めた。大正ロマンのような、恋をしてみないか?」と徹が言うと、彼女は寂しそうな微笑みを浮かべた。
彼女はすでに妻子ある男を同棲していて、妊娠3か月であったのだ。
徹は後でそれを知り、「何て自分は鈍かったのか」と唇を噛んだのだ。
徹は拘りんがらも成田闘争を傍観した日々でもあった。
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大正ロマンは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉である。しばしば大正浪漫とも表記されるが、「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされる。

19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受け、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮にかぶせて、このように呼ばれるようになった。


大正デモクラシーと新しい教育思想もあった。
大正時代に入ると、大正デモクラシーの風潮の中で、デューイなどの新しい児童観・教育方法観にもとづいて学校改革のこころみが行なわれた。このこころみを新教育運動という。
わが国でも、新教育理論にもとづいて、各地の師範学校附属小学校や私立小学校でさまざまな教育改革の実践が行なわれた。
いずれも児童や生徒の自発性、個性を尊重した自由主義的な教育を行なった。
このような新教育運動の実践は師範学校付属小学校や私立学校に限定されてはいたが、それらの学校は公立小学校の教師たちをひきつけ、全国的に影響を与えた。
教育目的も政府の許容する枠からはみ出ることは困難であったが、学校教育以外にもさまざまな分野に影響を与えている。
たとえば、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』は、明らかに児童中心主義的教育論に立脚するものであり、子どもたちにすぐれた作品を提供しただけでなく、子どもたちの投稿を奨励し、創作意欲を促して新しい児童文芸運動をおこすきっかけともなった。
また、美術教育の分野でも自由画教育運動が提唱され、大きな反響を呼んだ。
しかし、このような大正期の新教育運動は長くは続かなかった。1925年には治安維持法が制定され、しだいに自由主義的な潮流が弾圧されるようになった。昭和に入ると、日本は国際関係における緊張と国内における諸矛盾の激化を、軍国主義・ファシズム体制を志向することによって解決の道を求めるようになっていった。1931年には満州事変を、1937年には日中戦争を引き起こし、1945年の終戦まで軍国主義体制は続いた。大正期の新教育運動もしだいに弾圧されはじめ、大正期に新教育運動の旗手として活躍した多くのリーダーたちは軍国主義教育の忠実な担い手となっていった。このような状況の中でも、軍国主義教育に抵抗して、児童中心主義を実践しようとする試みもいくつか行なわれ、たとえば「児童の村」運動などが上げられる。
また、プロレタリア教育運動も行なわれた。
しかし、このような動きも、1928年の治安維持法改悪などによる弾圧が強化されるにつれて衰退を余儀なくされるようになっていった。
さらに、日本の帝国主義戦争が泥沼化していくにつれ、軍国主義教育もさらに進められていく。
日本政府は大東亜共栄圏の実現を旗印に、全国民に常在戦場の精神を要求し、勤労を強要するようになり、自由主義・個人主義のひとかけらも許されなくなり、思想・言論の自由に対する厳しい弾圧が行なわれた。
また、1941年に小学校も国民学校に再編され、これまでの小学校教育から皇国民育成が重視されるようになった。
国民学校での教科や活動のすべてにわたり、「教育勅語」にもとづいて「皇国ノ道ヲ修練」する使命を背負わされ、「万邦無比の神国観念」を身に付け日常の生活を律することが強要されていった。
また、中等・高等教育機関における教育でも国家至上主義の方針が貫徹され、生徒の自由な思考や活動は圧殺された。1943年には人文科学系・社会科学系の学生に対し、徴兵猶予の措置が停止され、多数の学生が学業半ばで兵役に服し戦場に送り込まれていった。1945年5月22には勅令「戦時教育令」により国民学校初等科を除き学校における授業はすべて停止され、中等・高等教育機関は事実上壊滅し、ついに国民全体が侵略戦争に加担させられていき、このような状況のなかで終戦を迎えることとなったのである。

  

 以上のように、多くの方面に多大な影響を残した大正期の新教育運動も、日本が軍国主義に傾斜していくなかで、しだいに弾圧され、その担い手の多くは軍国主義教育の走狗となっていった。
その理由として弾圧の強化が挙げられるだろうが、大正デモクラシー期の、比較的言論や思想の自由に対する規制が緩やかだった時代に、軍国主義への傾斜を拒否する思潮はあまり見られなかったのであろうか。
このような時期に軍国主義を強く戒めるような教育が行なわれていたならば、その後の日本は違った道を辿ったであろう。
すでに1931年ごろには軍国主義・政治教育が小学生に教え込まれており、それに抗うすべはもはやなかったのであろうが、大正デモクラシー期においては可能であったとするならば、のちに日本がおこした戦争犯罪に対する責任の一端は、国民と教育者にもあったといわざるを得ない。
人がまだ幼いころに教え込まれた考えは時を経てもなかなか変えることはできない。

現場に足を運び続ける以外にあるまい

2016年02月22日 09時36分09秒 | 日記・断片
★新聞記者に限らず、およそ、もの書きなどという職につく輩(やから)は、事象が複雑多様であればあるほど、
これを強引に均質化、非個性化して一定の秩序下にまとめようとする衝動が強いのかもしれない。
文芸史家などという人々の努力は(作家の生涯)をローラーにかけて引きのばし、テニスでもできそうな、一見坦々たつコートに仕立て上げるだけに集中している。
「他人を理解するということは、少なくとも他人にふれようとすること」である以上、ともかく現場に足を運び続ける以外にあるまい。
「おこがましくも他人を語ろうというのであれば、その程度のことは心得でおくべき」
江藤淳
なるほど、自戒すべき指摘である。
「私の歯科人生」では記憶違いもあった。
「事実と違う」との指摘も受けた。
名誉棄損に相当する記載もあったことは否めなかったのだ。
日記・断片類、ノート、原稿、メモなどの全てを家人に捨てられ、記憶の中で記してきたのだ。
書くなら、再取材も必要であっただろう。
特に、亡くなられた方もおり、反論もできない状況下で「私の歯科人生」を記してきた。
他人を理解することは並大抵なことではなかったのだ。

災いは転じて福ともなる

2016年02月22日 00時36分07秒 | 社会・文化・政治・経済
思わぬリストラ、失業、病気、事故(アクシデント)色々な災い、苦難があるから人生は深まるのだ。
自身の使命を見失うこともあるだろう。
だが、災いは転じて福ともなるはず。
何かあればあるほど、「好機到来!」と前向きに生きたいものだ。
「縁した人々と良好な関係を築くことが人生の充実に直結する」
「自分が変われば、地域も変わり社会も世界も変わるだろう」
「一人の可能性は無限である」
「中途半端ではいけない、何かに徹すつことだ」

歴史、足跡を残さずして何の人生か

2016年02月22日 00時13分34秒 | 医科・歯科・介護
★限界を決めるのは、自分の弱い心だ。
例えば、読書時間は30分で十分だと思っているが、1時間、2時間、3時間、時には5時間も読んでいる人もいるかもしれない。
★それでいて、パソコンの将棋を1日、2時間、3時間もやっている。
あるいは、CSテレビの囲碁・将棋チャンネルや洋画を3時間ほど観ているのだ。
★読むべき3つの新聞は放置される。
まとめて、2日分、3日分の新聞を読むことも。
★なるべく、人とも会わなければならない。
人の心は、他者との触れ合いという「縁」にとって大きく変わることができる。
★歴史、足跡を残さずして何の人生か。