競輪の奥深い魅力を伝える言葉
究極の頭脳スポーツ「ケイリン」
競輪学校のナンバーワンが必ずしも栄光をつかむわけではない。
運も左右する。
人間臭さもある。
選手たちには、走り方に「拘り」も。
それが興味深いのである。
「競輪選手は好きであるが、尊敬できない。お判りだろう」
同時の日本将棋連盟棋士芹沢博文八段(昭和58年)記している。
過去には、集団的な不正競争などが表ざらになったり、また、“八百長”とい言葉が生まれるなど、競輪のイメージが下がる一方となった。
追い打ちをかけるように、当時の後楽園競輪が休止。
利根輪太郎は、「競馬が良くて、競輪がダメの烙印」に反発して競輪ファンとなった。
言わば、ファンとであるより競輪応援団の一人を任じているのである。
------------------------------------
1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で、日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル(後楽園競輪場・京王閣競輪場・大井競馬場・大井オートレース場・江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた。
後楽園競輪場は東京ドームの前身で、1949年(昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する文京区という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ日本選手権競輪(前身名は全国争覇競輪)が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年(昭和35年)11月3日に行われた全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内に観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、1961年(昭和36年)の同大会の開催が決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決定せず、1963年(昭和38年)3月に一宮競輪場で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で1968年(昭和43年)まで毎年、日本選手権競輪が開催された。
一方で後楽園競輪の売上は1960年代に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものだったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」(注1)と訴え、当時毎年のように売上を増加させていた背景があったにもかかわらず、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。
1969年(昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月に開催を休止、翌1973年(昭和48年)3月をもって全面休止された。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。
その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場が引き継ぎ、1976年(昭和51年)10月6日に開場した(注2)。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続している。結局、後楽園競輪場だけは代替地も用意されず消滅した。





究極の頭脳スポーツ「ケイリン」
競輪学校のナンバーワンが必ずしも栄光をつかむわけではない。
運も左右する。
人間臭さもある。
選手たちには、走り方に「拘り」も。
それが興味深いのである。
「競輪選手は好きであるが、尊敬できない。お判りだろう」
同時の日本将棋連盟棋士芹沢博文八段(昭和58年)記している。
過去には、集団的な不正競争などが表ざらになったり、また、“八百長”とい言葉が生まれるなど、競輪のイメージが下がる一方となった。
追い打ちをかけるように、当時の後楽園競輪が休止。
利根輪太郎は、「競馬が良くて、競輪がダメの烙印」に反発して競輪ファンとなった。
言わば、ファンとであるより競輪応援団の一人を任じているのである。
------------------------------------
1967年(昭和42年)4月15日に行われた東京都知事選挙で、日本社会党・日本共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、史上初の革新系都知事が誕生した。美濃部は東京都が主催していた各公営ギャンブル(後楽園競輪場・京王閣競輪場・大井競馬場・大井オートレース場・江戸川競艇場)の廃止を公約に掲げていた。
後楽園競輪場は東京ドームの前身で、1949年(昭和24年)11月に誕生。東京の都心部に位置する文京区という抜群の立地条件も手伝い、開催すれば常時スタンドは満員、とりわけ日本選手権競輪(前身名は全国争覇競輪)が開催されればスタンドに入りきれない観客で溢れ返り、車券も満足に買えない状態が恒常化していた。そして、1960年(昭和35年)11月3日に行われた全国争覇競輪決勝戦の開催日は推定約8万人の観客で溢れかえり、スタンド内でもすし詰めとなった約1500名の観客が走路内へなだれこみ、決勝戦は走路内に観客を入れてレースを行うという異例の事態となった。このため警備不能を理由に、1961年(昭和36年)の同大会の開催が決定していたにもかかわらず、東京都が開催を返上したばかりか代替地も決定せず、1963年(昭和38年)3月に一宮競輪場で再開されるまで、全国争覇競輪の開催が行われなくなってしまった。つまり、後楽園以外に全国争覇競輪の開催はできない、ということが、当時の競輪界の「常識」となっていたのである。実際のところ、一宮で行われた後、再び後楽園で1968年(昭和43年)まで毎年、日本選手権競輪が開催された。
一方で後楽園競輪の売上は1960年代に競輪総売上の10%近くを占めるほど大きなものだったため、後楽園は「競輪のメッカ」と標榜された。だが美濃部は「競輪などの公営ギャンブルの売り上げで学校などが建設されるということについて、果たして子供たちは望んでいることなのだろうか」(注1)と訴え、当時毎年のように売上を増加させていた背景があったにもかかわらず、都営ギャンブル廃止を公約に掲げた。また上述の通り、大阪府などの自治体が既に公営ギャンブル廃止を実現させていたことも追い風となっていた。
1969年(昭和44年)1月、美濃部は正式に都営ギャンブル廃止を表明し、同年11月に開催が予定されていた日本選手権競輪の開催を返上した。さらに美濃部は、1972年度限りで後楽園における都営開催を終了することを表明。これにより後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月に開催を休止、翌1973年(昭和48年)3月をもって全面休止された。その後同地ではバンク内に水が注入され、スイミングプールとしての役割を果たした後に解体され、1988年に日本初の屋根つき野球場「東京ドーム」として再建された。
その他の旧都営公営競技場は、まず大井オートレース場が後楽園競輪場と同様に1973年3月で閉場したが、代替場として伊勢崎オートレース場が引き継ぎ、1976年(昭和51年)10月6日に開場した(注2)。また京王閣競輪・大井競馬・江戸川競艇はその後、主催者を変更させて現在も存続している。結局、後楽園競輪場だけは代替地も用意されず消滅した。




