佐藤優氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」を読む
佐藤氏は、米川・原の両先行訳と比較して亀山訳を絶賛しているが、比較するのならなぜ引用文のすぐ後にどんな文が続いているのかを問題にしないのだろうか。この場合は、それをも見なければ、先行訳と亀山訳のどちらが日本文としてすぐれているか、判別できないことは文脈上明らかだと思う。よって、佐藤氏が上記で引用している亀山・米川・原の三氏の訳文に続く文を加えた上で、佐藤氏の見解が妥当かどうかを検討してみたい。
亀山訳
「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。
で、これらの異端者たちは、奇蹟を冒瀆的に否定しはじめた。ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」
米川訳
「しかし、悪魔も昼寝をしてはいなかったから、これらの奇跡の真実さを疑うものが、人類の中に現われ始めた。ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。これらの邪教が罰あたりな言葉で奇跡を否定しにかかった。しかし信仰を保っている人は、なおさら熱烈に信じつづけた。」
原訳
「しかし、悪魔も居眠りをしちゃいないないから、人類の間にはすでにそうした奇蹟の真実性に対する疑惑が起り始めていた。北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。この異教は冒瀆的に奇跡を否定しはじめた。だが、依然として信仰を持ちつづけた人々は、そのことによっていっそう熱烈に信ずるようになった。」
日本文として読むかぎり、米川・原訳のほうが亀山訳よりはるかにすっきり意味が通ると思う。亀山訳のように「星」を「教会のこと」と確定してしまえば、その後に続く「これらの異端者たち」は前文からぷつんと繋がりが切れてしまい、文脈上「これら」とは何のことか分からなくなるではないか。また、亀山訳では「星」の象徴性が消え失せてしまうと感じる。
私の感覚では原訳が一番いいと思うし、次に米川訳をあげたい。残念ながら亀山訳は評価できない。佐藤氏は「米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。」と述べているが、この見解は、私にはそれこそ意味がまったく分からない。
佐藤氏は、「米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。」とも述べているが、辞書によると、「邪教」の含意はまず「社会の害悪となる宗教」なのだから、「邪教」でも何ら誤りではないと思う。
佐藤氏は、『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書2008年)においても奇妙な発言をしている。「亀山訳は、(略)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」などと述べているのだが、でもこれは完全にでたらめである。「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがち」などということはまったくなく、当然のことだと思うが、米川・江川・原の各氏をはじめ、小沼文彦氏の訳でも「大審問官」の舞台を「16世紀」と誤解の余地なく明記している。では他に、亀山訳が「これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」という箇所がどこかにあるのだろうか? あると言うのなら、それはどの場面なのだろうか? 錚々たる過去の翻訳者たちに対し、何一つまともな理由も根拠も示さずに「誤訳」云々と好き勝手にしゃべり散らすのは、非礼と不遜にすぎるのではないだろうか。
日本文学史上、ドストエフスキー作品の読解と解釈に欠くことのできない深い意味と豊かな稔りをもたらしたと思われる作家の埴谷雄高は、晩年「嘗ての私達は、米川ドストエフスキイを読んで、ひたすら米川さんの恩恵に浴している」「第二次大戦以前は、小林秀雄も私も、米川ドストエフスキイによってひたすら考察し、……」(「謎とき『大審問官』」福武書店1990年)と、米川正夫氏のドストエフスキー翻訳からうけた文恩について率直な言葉で語っている。何も埴谷雄高のような文学者やロシア語の専門家にかぎらない。数多くの一般読者がそれぞれに深い思いをいだいていたはずなのだ。
江川訳、原訳に対してもそうだが、先行訳について異論や反論を述べたいのなら、最低限の知的誠実さの証として、せめて基本的な事実関係くらいは正確に把握した後にしてほしいものだ。佐藤氏のような姿勢では、翻訳者のみならず、原作者であるドストエフスキー自身への関心の程度さえ疑われても仕方ないだろうと思う。
亀山郁夫氏の訳本についての感想も機会があったら記してみたい。
佐藤氏は、米川・原の両先行訳と比較して亀山訳を絶賛しているが、比較するのならなぜ引用文のすぐ後にどんな文が続いているのかを問題にしないのだろうか。この場合は、それをも見なければ、先行訳と亀山訳のどちらが日本文としてすぐれているか、判別できないことは文脈上明らかだと思う。よって、佐藤氏が上記で引用している亀山・米川・原の三氏の訳文に続く文を加えた上で、佐藤氏の見解が妥当かどうかを検討してみたい。
亀山訳
「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。
で、これらの異端者たちは、奇蹟を冒瀆的に否定しはじめた。ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」
米川訳
「しかし、悪魔も昼寝をしてはいなかったから、これらの奇跡の真実さを疑うものが、人類の中に現われ始めた。ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。これらの邪教が罰あたりな言葉で奇跡を否定しにかかった。しかし信仰を保っている人は、なおさら熱烈に信じつづけた。」
原訳
「しかし、悪魔も居眠りをしちゃいないないから、人類の間にはすでにそうした奇蹟の真実性に対する疑惑が起り始めていた。北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。この異教は冒瀆的に奇跡を否定しはじめた。だが、依然として信仰を持ちつづけた人々は、そのことによっていっそう熱烈に信ずるようになった。」
日本文として読むかぎり、米川・原訳のほうが亀山訳よりはるかにすっきり意味が通ると思う。亀山訳のように「星」を「教会のこと」と確定してしまえば、その後に続く「これらの異端者たち」は前文からぷつんと繋がりが切れてしまい、文脈上「これら」とは何のことか分からなくなるではないか。また、亀山訳では「星」の象徴性が消え失せてしまうと感じる。
私の感覚では原訳が一番いいと思うし、次に米川訳をあげたい。残念ながら亀山訳は評価できない。佐藤氏は「米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。」と述べているが、この見解は、私にはそれこそ意味がまったく分からない。
佐藤氏は、「米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。」とも述べているが、辞書によると、「邪教」の含意はまず「社会の害悪となる宗教」なのだから、「邪教」でも何ら誤りではないと思う。
佐藤氏は、『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書2008年)においても奇妙な発言をしている。「亀山訳は、(略)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」などと述べているのだが、でもこれは完全にでたらめである。「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがち」などということはまったくなく、当然のことだと思うが、米川・江川・原の各氏をはじめ、小沼文彦氏の訳でも「大審問官」の舞台を「16世紀」と誤解の余地なく明記している。では他に、亀山訳が「これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」という箇所がどこかにあるのだろうか? あると言うのなら、それはどの場面なのだろうか? 錚々たる過去の翻訳者たちに対し、何一つまともな理由も根拠も示さずに「誤訳」云々と好き勝手にしゃべり散らすのは、非礼と不遜にすぎるのではないだろうか。
日本文学史上、ドストエフスキー作品の読解と解釈に欠くことのできない深い意味と豊かな稔りをもたらしたと思われる作家の埴谷雄高は、晩年「嘗ての私達は、米川ドストエフスキイを読んで、ひたすら米川さんの恩恵に浴している」「第二次大戦以前は、小林秀雄も私も、米川ドストエフスキイによってひたすら考察し、……」(「謎とき『大審問官』」福武書店1990年)と、米川正夫氏のドストエフスキー翻訳からうけた文恩について率直な言葉で語っている。何も埴谷雄高のような文学者やロシア語の専門家にかぎらない。数多くの一般読者がそれぞれに深い思いをいだいていたはずなのだ。
江川訳、原訳に対してもそうだが、先行訳について異論や反論を述べたいのなら、最低限の知的誠実さの証として、せめて基本的な事実関係くらいは正確に把握した後にしてほしいものだ。佐藤氏のような姿勢では、翻訳者のみならず、原作者であるドストエフスキー自身への関心の程度さえ疑われても仕方ないだろうと思う。
亀山郁夫氏の訳本についての感想も機会があったら記してみたい。