「ヒトラー・ユーゲント」の誕生
●第一次世界大戦後、ドイツ国内では敗戦を潔しとしない右翼勢力と、更なる革命的政府の樹立を叫ぶ左翼勢力が対立していた。これらの勢力は将来のための若年層獲得にも余念がなく、その影響下に多くの「青少年組織」が乱立していた。
1920年に創設された「ナチ党」も、「青少年を掌握するものが未来を掌握する」ということを熟知していた。それゆえ、当初より党の宣伝は、青少年の獲得を目指して行なわれた。
1922年3月に「ナチ党青年部」が設立され、19歳のアドルフ・レンクが指導した。まさに「青年を指導するのは青年自身」であった。
●しかし、翌年、「ミュンヘン一揆」の失敗により、党活動が禁止され、青年部の活動は中断する。その後、ヒトラーが恩赦で釈放され、1925年に「ナチ党」が再結成されると、同年、「ナチ党青年部」に「ドイツ労働者青少年団」が結成され、この組織が1926年7月に「ヒトラー・ユーゲント(Hitler Jugend=HJ)」と呼ばれるようになった。
ちなみに、「ヒトラー・ユーゲント」という名称は、「総統(ヒトラー)の若者」という意味である。この時のメンバーは700人しかいなかった。
●1929年に、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1300人に増えた。
この当時のナチ党青年組織には、「ヒトラー・ユーゲント」の他に、「ナチ大学生団」や「国民社会主義学生同盟」があったが、それでも、ドイツ青少年運動全体の中では取るに足りない存在であった。
●1931年10月、ヒトラーは「全国青少年指導者」の地位を設け、その初代指導者に24歳という若さのバルドゥール・フォン・シーラッハを任命した。彼は翌年3月に、ヒトラーの専属写真家ホフマンの娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳でナチ党最年少の国会議員に当選した。そしてその後、シーラッハはヒトラーから「ヒトラー・ユーゲント」指導者に指名された。
このシーラッハの指導によって「ヒトラー・ユーゲント」は急激に成長していくことになる。
※ シーラッハは古い貴族将校の家系の出身で、アメリカ人を母に持ち、ドイツ語以上に英語が達者だった。彼は1927年にヒトラーのすすめでミュンヘン大学に入学した時、地政学者カール・ハウスホーファー教授の講義を聴いて感銘を受けたという。
●1933年、ヒトラーの政権獲得によって、「ヒトラー・ユーゲント」への加入者が激増したが、シーラッハは、ナチの「一元化」政策を踏まえて、様々な青少年組織を「ヒトラー・ユーゲント」に統合するようになる。
1934年6月には、カトリック系、同盟系、スポーツ系、職業系、軍事系の青年諸団体を、シーラッハの指導の下に統括し、その後、プロテスタント青年団や体操協会を「ヒトラー・ユーゲント」に編入した。
■■第3章:「ヒトラー・ユーゲント法」の制定(1936年)
●1936年12月、「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、それまでナチ党の「私的」な組織だった「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、「ヒトラー・ユーゲント」は、第三帝国の青少年組織の総称となった。
10歳になった少年少女を持つ親で、「ヒトラー・ユーゲント」への届け出を行なわず、これに違反した者は、150マルクの罰金もしくは拘束が科せられることとなった。
これは青少年組織のあり方の歴史における画期的な出来事だった。(青少年組織の歴史に前例のない出来事であった)。
●かくして、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1937年末には580万人、1938年末には700万人、1939年初めには770万人と増加の一途をたどることになる。
●「ヒトラー・ユーゲント法」によって、女子の場合は、10歳から14歳が「少女団(JM)」に、そして14歳から18歳までが「女子青少年団(BDM)」に、18歳から21歳までが「労働奉仕団」に所属するものとされた。
17歳以上の少女には看護衛生の授業を受けることが義務づけられ、応急手当の技術を持った「保健少女」が養成された。成績の良い者は保健部隊に編入された。
●ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っており、「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。
そのため、男子の場合は未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子の場合は単に未来の母親を育てることのみが強調された。ドイツの女性ユーゲントは、ナチ時代にまったく従属的だったかどうかは別として、組織的・政治的にはほとんど自立性を与えられてはいなかった。
●「ヒトラー・ユーゲント」の教育で重視されたのは、何よりもスポーツだった。
ヒトラーは詰め込み教育を有害なものとしており、知的活動の総ては統制されなければならないと主張し、「ドイツの男子青年は各自が戦士のような身体をつくること」を提唱していた。
同時に「ヒトラー・ユーゲント」の訓練で重視されたのは野外キャンプで、団員は3週間にわたるキャンプに参加することが義務づけられ、集団生活を通じてナチスの世界観や共同体精神をたたき込まれた。
●「ヒトラー・ユーゲント」の活動は、特に労働者階級の子どもたち、そして女性たちが、同じ「青少年」として活動に参加できるメリットがあった。低所得者層の子どもは、貧しさゆえに体験できなかったレジャーを大変気に入った。
また当時のドイツでは、大都市は別として、特に保守的な農村地帯において、女性は外に向かって解放されていなかったので、「ヒトラー・ユーゲント」に参加することで、「解放感」を味わう女性は少なくはなかった。
●しかし、もちろん、全く問題がないわけではなかった。
多様な青少年組織を強制的に「ヒトラー・ユーゲント」に一元化したため、様々な問題が生じていた。
例えば、飲食、喫煙、禁止された歌を歌う、不適切な、あるいはだらしない敬礼をする、門限を破る、ビリヤードやダンスホールで騒動を起こす、といった問題を起こす反抗少年たちが存在していた。(ハンブルクの「スウィング・キッズ」、ライプツィヒの「モイテン」、ミュンヘンの「ブラーゼン」など)。
●また、ルール工業地帯の「エーデルワイス海賊団」と呼ばれる不良グループは、「ヒトラー・ユーゲント」の歌や軍歌ではなく外国のヒット曲などを歌い、巡回してくる「ヒトラー・ユーゲント」のパトロール隊を襲う危険な存在であった。
そのため、ナチ指導部は彼らをつかまえては、裁判抜きの処刑や残酷な「少年強制収容所」送りにして取り締まった。
●こうした青少年の悲劇は、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、急速に拡大していく。
■■第4章:「ヒトラー・ユーゲント」の戦争動員(1940年~)
●1940年8月に、シーラッハに代わってアルトゥール・アクスマンが「全国青少年指導者」になると、「ヒトラー・ユーゲント」は軍隊化して戦火に巻き込まれるようになる。
これは「ヒトラー・ユーゲント」を大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハは「ヒトラー・ユーゲント」の戦時体制導入に大反対の立場だったが、後継者のアクスマンはシーラッハと違って、「ヒトラー・ユーゲント」の軍隊化を当然視していたのである。
●「ヒトラー・ユーゲント」には海軍部や航空部、通信部、自動車化部といった計9部門の特殊訓練機関があったが、国防軍と武装SSは、将来の将兵の確保という観点から、これらの訓練機関に装備、文官の両面で援助を惜しまなかった。
1940年以降、連合軍によるドイツ主要都市への爆撃が増加すると、多くの「ヒトラー・ユーゲント」が消化活動に駆り出された。そして1944年から、「ヒトラー・ユーゲント」は空爆に対する高射砲部隊や探照灯部隊に配置されることが多くなった。(戦争が長引くにつれ、徴兵される年齢が低下していった)。
団内には「軍事教練キャンプ」(通称WE)が設置され、ユーゲントたちは兵士としての訓練を施された。
●1943年6月、ヒトラーはアクスマンに「ヒトラー・ユーゲント」を名称した師団の創設を命じた。志願兵を募ることを託されたアクスマンは、17歳と18歳のユーゲントを選抜した。彼らは訓練を受けたのち、1944年初頭、ドイツ占領下のベルギー北部アントワープ南東に拠点を構えた。
彼らの部隊は、第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」と命名された。
●その後、この「ヒトラー・ユーゲント」部隊はノルマンディーでの戦いで、圧倒的な兵力を持つ連合軍を相手に奮戦し、その戦闘能力の高さを証明した。この戦いで「ヒトラー・ユーゲント」は、子供とあなどれない恐るべき相手として勇名をはせることになったのである。
しかし、それ以降の戦闘においては将校の不足や補充員の質の低下などが災いし、二度と本来の実力を発揮することはなかった。(なお、「ヒトラー・ユーゲント」出身者は、第12SS装甲師団だけに入隊したわけではなく、その他の師団に入隊する者もいた)。
●最終的に戦争はヒトラーの「自殺」をもって終了するが、そのヒトラーのために「ヒトラー・ユーゲント」は、年寄りに銃を持たせた義勇兵団「国民突撃隊」とともに、廃墟と化したベルリンで最後まで戦い続けた。ほとんどの「ヒトラー・ユーゲント」は捕虜になる気などなかった。彼らは全滅するまで戦い続けたいと願っていた。降伏は問題外だった。
「ヒトラー・ユーゲント」に遭遇した連合軍の兵士たちは、敵のあまりの若さに唖然とした。
ナチス第三帝国が完全に崩壊した時、ベルリンは、むせ返るようなほこりと死臭、
そして最後まで戦い続けた「ヒトラー・ユーゲント」の死体が散乱していた。
●このように、ドイツの軍事的抵抗の最終局面で、絶望的な戦闘に従事したのは純真な少年兵たちだったのだ。
なんとも悲惨な話である……。
●戦後のニュルンベルク裁判で、「ヒトラー・ユーゲント」の初代総裁だったシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として「人道に対する罪」に問われた。そして、禁固20年の刑を宣告されたが、彼は法廷で、次のように自らの責任について陳述している。(彼は服役後、『私はヒトラーを信じた』という自伝を著した)。
「私はヒトラーを信頼してこの世代の青少年たちを教育しました。したがって、私の築き上げた青少年運動はヒトラーの名前を有しているのです。我が民族と若者たちを偉大に、かつ自由に、かつ幸福にして頂ける総統のためにお仕えしようと考えたのでした。
私とともに数百万の若者たちがそのことを信じ、国家社会主義の中にその理念を見い出したのです。多くの若者がそのために命を落としました。それは私の責任であり、神とドイツ民族、我が国家のために今後その責任を負っていくつもりです。」
以上の映像をCSテレビで観た。
●第一次世界大戦後、ドイツ国内では敗戦を潔しとしない右翼勢力と、更なる革命的政府の樹立を叫ぶ左翼勢力が対立していた。これらの勢力は将来のための若年層獲得にも余念がなく、その影響下に多くの「青少年組織」が乱立していた。
1920年に創設された「ナチ党」も、「青少年を掌握するものが未来を掌握する」ということを熟知していた。それゆえ、当初より党の宣伝は、青少年の獲得を目指して行なわれた。
1922年3月に「ナチ党青年部」が設立され、19歳のアドルフ・レンクが指導した。まさに「青年を指導するのは青年自身」であった。
●しかし、翌年、「ミュンヘン一揆」の失敗により、党活動が禁止され、青年部の活動は中断する。その後、ヒトラーが恩赦で釈放され、1925年に「ナチ党」が再結成されると、同年、「ナチ党青年部」に「ドイツ労働者青少年団」が結成され、この組織が1926年7月に「ヒトラー・ユーゲント(Hitler Jugend=HJ)」と呼ばれるようになった。
ちなみに、「ヒトラー・ユーゲント」という名称は、「総統(ヒトラー)の若者」という意味である。この時のメンバーは700人しかいなかった。
●1929年に、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1300人に増えた。
この当時のナチ党青年組織には、「ヒトラー・ユーゲント」の他に、「ナチ大学生団」や「国民社会主義学生同盟」があったが、それでも、ドイツ青少年運動全体の中では取るに足りない存在であった。
●1931年10月、ヒトラーは「全国青少年指導者」の地位を設け、その初代指導者に24歳という若さのバルドゥール・フォン・シーラッハを任命した。彼は翌年3月に、ヒトラーの専属写真家ホフマンの娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳でナチ党最年少の国会議員に当選した。そしてその後、シーラッハはヒトラーから「ヒトラー・ユーゲント」指導者に指名された。
このシーラッハの指導によって「ヒトラー・ユーゲント」は急激に成長していくことになる。
※ シーラッハは古い貴族将校の家系の出身で、アメリカ人を母に持ち、ドイツ語以上に英語が達者だった。彼は1927年にヒトラーのすすめでミュンヘン大学に入学した時、地政学者カール・ハウスホーファー教授の講義を聴いて感銘を受けたという。
●1933年、ヒトラーの政権獲得によって、「ヒトラー・ユーゲント」への加入者が激増したが、シーラッハは、ナチの「一元化」政策を踏まえて、様々な青少年組織を「ヒトラー・ユーゲント」に統合するようになる。
1934年6月には、カトリック系、同盟系、スポーツ系、職業系、軍事系の青年諸団体を、シーラッハの指導の下に統括し、その後、プロテスタント青年団や体操協会を「ヒトラー・ユーゲント」に編入した。
■■第3章:「ヒトラー・ユーゲント法」の制定(1936年)
●1936年12月、「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、それまでナチ党の「私的」な組織だった「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、「ヒトラー・ユーゲント」は、第三帝国の青少年組織の総称となった。
10歳になった少年少女を持つ親で、「ヒトラー・ユーゲント」への届け出を行なわず、これに違反した者は、150マルクの罰金もしくは拘束が科せられることとなった。
これは青少年組織のあり方の歴史における画期的な出来事だった。(青少年組織の歴史に前例のない出来事であった)。
●かくして、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1937年末には580万人、1938年末には700万人、1939年初めには770万人と増加の一途をたどることになる。
●「ヒトラー・ユーゲント法」によって、女子の場合は、10歳から14歳が「少女団(JM)」に、そして14歳から18歳までが「女子青少年団(BDM)」に、18歳から21歳までが「労働奉仕団」に所属するものとされた。
17歳以上の少女には看護衛生の授業を受けることが義務づけられ、応急手当の技術を持った「保健少女」が養成された。成績の良い者は保健部隊に編入された。
●ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っており、「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。
そのため、男子の場合は未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子の場合は単に未来の母親を育てることのみが強調された。ドイツの女性ユーゲントは、ナチ時代にまったく従属的だったかどうかは別として、組織的・政治的にはほとんど自立性を与えられてはいなかった。
●「ヒトラー・ユーゲント」の教育で重視されたのは、何よりもスポーツだった。
ヒトラーは詰め込み教育を有害なものとしており、知的活動の総ては統制されなければならないと主張し、「ドイツの男子青年は各自が戦士のような身体をつくること」を提唱していた。
同時に「ヒトラー・ユーゲント」の訓練で重視されたのは野外キャンプで、団員は3週間にわたるキャンプに参加することが義務づけられ、集団生活を通じてナチスの世界観や共同体精神をたたき込まれた。
●「ヒトラー・ユーゲント」の活動は、特に労働者階級の子どもたち、そして女性たちが、同じ「青少年」として活動に参加できるメリットがあった。低所得者層の子どもは、貧しさゆえに体験できなかったレジャーを大変気に入った。
また当時のドイツでは、大都市は別として、特に保守的な農村地帯において、女性は外に向かって解放されていなかったので、「ヒトラー・ユーゲント」に参加することで、「解放感」を味わう女性は少なくはなかった。
●しかし、もちろん、全く問題がないわけではなかった。
多様な青少年組織を強制的に「ヒトラー・ユーゲント」に一元化したため、様々な問題が生じていた。
例えば、飲食、喫煙、禁止された歌を歌う、不適切な、あるいはだらしない敬礼をする、門限を破る、ビリヤードやダンスホールで騒動を起こす、といった問題を起こす反抗少年たちが存在していた。(ハンブルクの「スウィング・キッズ」、ライプツィヒの「モイテン」、ミュンヘンの「ブラーゼン」など)。
●また、ルール工業地帯の「エーデルワイス海賊団」と呼ばれる不良グループは、「ヒトラー・ユーゲント」の歌や軍歌ではなく外国のヒット曲などを歌い、巡回してくる「ヒトラー・ユーゲント」のパトロール隊を襲う危険な存在であった。
そのため、ナチ指導部は彼らをつかまえては、裁判抜きの処刑や残酷な「少年強制収容所」送りにして取り締まった。
●こうした青少年の悲劇は、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、急速に拡大していく。
■■第4章:「ヒトラー・ユーゲント」の戦争動員(1940年~)
●1940年8月に、シーラッハに代わってアルトゥール・アクスマンが「全国青少年指導者」になると、「ヒトラー・ユーゲント」は軍隊化して戦火に巻き込まれるようになる。
これは「ヒトラー・ユーゲント」を大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハは「ヒトラー・ユーゲント」の戦時体制導入に大反対の立場だったが、後継者のアクスマンはシーラッハと違って、「ヒトラー・ユーゲント」の軍隊化を当然視していたのである。
●「ヒトラー・ユーゲント」には海軍部や航空部、通信部、自動車化部といった計9部門の特殊訓練機関があったが、国防軍と武装SSは、将来の将兵の確保という観点から、これらの訓練機関に装備、文官の両面で援助を惜しまなかった。
1940年以降、連合軍によるドイツ主要都市への爆撃が増加すると、多くの「ヒトラー・ユーゲント」が消化活動に駆り出された。そして1944年から、「ヒトラー・ユーゲント」は空爆に対する高射砲部隊や探照灯部隊に配置されることが多くなった。(戦争が長引くにつれ、徴兵される年齢が低下していった)。
団内には「軍事教練キャンプ」(通称WE)が設置され、ユーゲントたちは兵士としての訓練を施された。
●1943年6月、ヒトラーはアクスマンに「ヒトラー・ユーゲント」を名称した師団の創設を命じた。志願兵を募ることを託されたアクスマンは、17歳と18歳のユーゲントを選抜した。彼らは訓練を受けたのち、1944年初頭、ドイツ占領下のベルギー北部アントワープ南東に拠点を構えた。
彼らの部隊は、第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」と命名された。
●その後、この「ヒトラー・ユーゲント」部隊はノルマンディーでの戦いで、圧倒的な兵力を持つ連合軍を相手に奮戦し、その戦闘能力の高さを証明した。この戦いで「ヒトラー・ユーゲント」は、子供とあなどれない恐るべき相手として勇名をはせることになったのである。
しかし、それ以降の戦闘においては将校の不足や補充員の質の低下などが災いし、二度と本来の実力を発揮することはなかった。(なお、「ヒトラー・ユーゲント」出身者は、第12SS装甲師団だけに入隊したわけではなく、その他の師団に入隊する者もいた)。
●最終的に戦争はヒトラーの「自殺」をもって終了するが、そのヒトラーのために「ヒトラー・ユーゲント」は、年寄りに銃を持たせた義勇兵団「国民突撃隊」とともに、廃墟と化したベルリンで最後まで戦い続けた。ほとんどの「ヒトラー・ユーゲント」は捕虜になる気などなかった。彼らは全滅するまで戦い続けたいと願っていた。降伏は問題外だった。
「ヒトラー・ユーゲント」に遭遇した連合軍の兵士たちは、敵のあまりの若さに唖然とした。
ナチス第三帝国が完全に崩壊した時、ベルリンは、むせ返るようなほこりと死臭、
そして最後まで戦い続けた「ヒトラー・ユーゲント」の死体が散乱していた。
●このように、ドイツの軍事的抵抗の最終局面で、絶望的な戦闘に従事したのは純真な少年兵たちだったのだ。
なんとも悲惨な話である……。
●戦後のニュルンベルク裁判で、「ヒトラー・ユーゲント」の初代総裁だったシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として「人道に対する罪」に問われた。そして、禁固20年の刑を宣告されたが、彼は法廷で、次のように自らの責任について陳述している。(彼は服役後、『私はヒトラーを信じた』という自伝を著した)。
「私はヒトラーを信頼してこの世代の青少年たちを教育しました。したがって、私の築き上げた青少年運動はヒトラーの名前を有しているのです。我が民族と若者たちを偉大に、かつ自由に、かつ幸福にして頂ける総統のためにお仕えしようと考えたのでした。
私とともに数百万の若者たちがそのことを信じ、国家社会主義の中にその理念を見い出したのです。多くの若者がそのために命を落としました。それは私の責任であり、神とドイツ民族、我が国家のために今後その責任を負っていくつもりです。」
以上の映像をCSテレビで観た。