

Thomas Mann (原著), トーマス マン (著), & 1 more
内容(「BOOK」データベースより)
同級生の男子ハンスや、金髪の少女インゲボルクに思い焦がれながらも、愛の炎には身を捧げられず、精神と言葉の世界に歩みだしたトニオ。だが大人になり小説家として成功してなお、彼の苦悩は燻っているのだった。若者の青春と新たな旅立ちを描いた、ノーベル賞作家の自伝的小説。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
マン,トーマス
1875‐1955。リューベックの富裕な商家に生まれ、生家の繁栄と衰退を題材に『ブデンブローク家の人々』を執筆、世に出る。第二次大戦中はアメリカに亡命、戦後アメリカに起こった反共の気運を嫌ってスイスに移住。半世紀を超える執筆活動の中でドイツとヨーロッパの運命を深く考察し、過去の文学遺産を幾重にも織り込んだ独自の物語の世界を展開した。1929年、ノーベル文学賞受賞
浅井/晶子
翻訳家。1973年生まれ。京都大学大学院博士課程単位認定退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1875‐1955。リューベックの富裕な商家に生まれ、生家の繁栄と衰退を題材に『ブデンブローク家の人々』を執筆、世に出る。第二次大戦中はアメリカに亡命、戦後アメリカに起こった反共の気運を嫌ってスイスに移住。半世紀を超える執筆活動の中でドイツとヨーロッパの運命を深く考察し、過去の文学遺産を幾重にも織り込んだ独自の物語の世界を展開した。1929年、ノーベル文学賞受賞
浅井/晶子
翻訳家。1973年生まれ。京都大学大学院博士課程単位認定退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『トニオ・クレーガー』は、高校生の時以来、ドイツ語原書も含めて何回読んだか数えきれないほど、私は好きな本である。
人を愛することが、これほど美しく、これほど切なく描かれた文学作品はそうはない。
今の若い人にはあまり受けないだろうが、新訳が出るということ自体が嬉しい。というわけで期待したのだが、残念ながら本訳は、日本語が説明的すぎて、<憧れ>の感情が伝わってこない。同じ個所を従来の訳と比べよう。
「こう考えた時、トニオ・クレエゲルの心臓は、痛いほど締め付けられた。玄妙な、軽快で沈鬱な力が己のうちに動くのを感じながら、しかも同時に、己のあこがれ寄る人々が、のどかな没交渉でその力に対立していることを知るのは、それは実に心を痛ましめるものである。・・・しかし彼は、それでもやはり幸福だった。なぜならこの当時彼の心臓は生きていたからである。暖かく悲しく、それは、インゲボルグ・ホルムよ、お前のために鼓動していたのだ。そして彼の魂は、お前の金髪の、明るい、誇らかにも尋常な、小さい人格を、恍惚たる自己否定のうちに抱いていたのだ。」(実吉捷郎訳、1952)
「こう思った瞬間、トーニオの胸はきりきりと痛んだ。自分の中に躍動している楽しげな、それでいて哀しみを帯びたすばらしい創造の力。だが、せっかくのその力も、自分が憧れてやまない人々にはあっけらかんと無視されてしまう・・・、でもトーニオはやはり幸せだった。なぜなら、このとき彼の心は生きていたからだ。温かく、そして悲しく、インゲボルク・ホルム、君のために鼓動していた。
「こう考えた時、トニオ・クレエゲルの心臓は、痛いほど締め付けられた。玄妙な、軽快で沈鬱な力が己のうちに動くのを感じながら、しかも同時に、己のあこがれ寄る人々が、のどかな没交渉でその力に対立していることを知るのは、それは実に心を痛ましめるものである。・・・しかし彼は、それでもやはり幸福だった。なぜならこの当時彼の心臓は生きていたからである。暖かく悲しく、それは、インゲボルグ・ホルムよ、お前のために鼓動していたのだ。そして彼の魂は、お前の金髪の、明るい、誇らかにも尋常な、小さい人格を、恍惚たる自己否定のうちに抱いていたのだ。」(実吉捷郎訳、1952)
「こう思った瞬間、トーニオの胸はきりきりと痛んだ。自分の中に躍動している楽しげな、それでいて哀しみを帯びたすばらしい創造の力。だが、せっかくのその力も、自分が憧れてやまない人々にはあっけらかんと無視されてしまう・・・、でもトーニオはやはり幸せだった。なぜなら、このとき彼の心は生きていたからだ。温かく、そして悲しく、インゲボルク・ホルム、君のために鼓動していた。
自分を否定することに酔いながら、金髪で屈託がなく、溌溂としたその平凡な小さな存在を抱きしめていたのだ。」(平野卿子訳、2011)
「そう考えて、トニオ・クレーガーの心臓は、締め付けられるように痛んだ。自分のなかにこれほど素晴らしい、軽妙であると同時に陰鬱な力がたぎっていることを感じていながら、自分が憧れている人たちは、そんな力を目の当たりにしても、無頓着に無視するだけだとわかっているのは、辛いことだ。
「そう考えて、トニオ・クレーガーの心臓は、締め付けられるように痛んだ。自分のなかにこれほど素晴らしい、軽妙であると同時に陰鬱な力がたぎっていることを感じていながら、自分が憧れている人たちは、そんな力を目の当たりにしても、無頓着に無視するだけだとわかっているのは、辛いことだ。
・・・だが、トニオはやはり幸せだった。なぜなら、この当時トニオの心は生きていたからだ。トニオの心臓は温かく、悲しく、インゲボルク・ホルム、君のために鼓動していた。
そしてトニオの魂は、自己否定に恍惚としながら、君という金髪で、明るい、高慢で凡庸でちっぽけな人間を抱きしめていたのだ。」(本訳) この箇所、註で体験話法のことを説明しているが、不要だ。訳文で表現できるのだから。それにしても、「君という」という説明的な修飾はいただけない。愛する相手に呼びかける時、「君!」とか「君を」とは言うが、「君という」のような距離を取った言い方はしない。
30年ほど前、別の人の訳で読んだ時と比べると、各段に読みやすく、すっと入ってきます。芸術家と凡人の対比、主人公が「迷える凡人」として、ふつうの人の美しく幸せな生活に憧れる様子が心に響きました。解説も現代を生きる人にぴったりで、深みもあり、勉強になりました。
北杜夫さん、辻邦生さんが仰るように トーニオ・クレーガーという作品は青年期に読むと生涯心に残る名作と思います。 「 北杜夫 」 というペンネームは、主人公にちなんで名付けたもの、ということです。
この小説に初めて出合ったのは18歳、大学1年の 紅顔の美少年のころ(・・・?)であったと思います。学校への往復にもカバンの中に入れて、肌身離さず繰り返し愛読したものでした。 結びの、トニオからリザヴェータ女史への書簡については、殆ど 「 暗誦 」 していました。
この小説は 「 ある種のひと 」 には強いインパクトがあるものだと思います。その 「 ある種 」 とは、うまく表現できませんが・ ・ ・認識の嘔吐というか、凡庸な快楽に身を委ねることが下手な人、とでもいうことなのです。
鴎外の nil admirari ほど悟り切ってもいないし、かといって 恋愛を中心とする俗世間的な悦楽にいそいそと身を委ねることに、なにか 「 気おくれ 」 や 「 場違いな違和感 」 を感じ、また、逆に甘んじてみたい と思って、意を決して 「 おずおず 」 と行動してみると、なんとも頓馬なヘマをしでかして、サマにならない人たちのこと・ ・ ・ なのです。
そして、そんな自分に、どこか心のなかで 「 微笑みかけてみる 」 きっかけを与えてくれたのは、 「 トニオ・クレーゲル 」 であったのです。
平凡な人生のもたらす悦びへの ひそやかな身を灼くような憧れと、清らかな幸福感 ・ ・ ・ 「 迷える俗人 」 として、手さぐりしながら 人生を歩いていられるのも、トニオの最後の言葉が いつも記憶の片隅に残っているおかげである と思っています。
本書は、「 少し斜め 」 に歩いてしまいがちな、そして 「 認識の嘔吐 」 に悩み、それでいて 「 凡庸な幸福への憧れ 」 を持っている、そんな方が、自分を すなおに受け止め、 清らかな幸福感 をもって歩んでいかれるために、 身をもっておすすめできる作品である ・ ・ ・ と、あらためて強く感じています。
この小説に初めて出合ったのは18歳、大学1年の 紅顔の美少年のころ(・・・?)であったと思います。学校への往復にもカバンの中に入れて、肌身離さず繰り返し愛読したものでした。 結びの、トニオからリザヴェータ女史への書簡については、殆ど 「 暗誦 」 していました。
この小説は 「 ある種のひと 」 には強いインパクトがあるものだと思います。その 「 ある種 」 とは、うまく表現できませんが・ ・ ・認識の嘔吐というか、凡庸な快楽に身を委ねることが下手な人、とでもいうことなのです。
鴎外の nil admirari ほど悟り切ってもいないし、かといって 恋愛を中心とする俗世間的な悦楽にいそいそと身を委ねることに、なにか 「 気おくれ 」 や 「 場違いな違和感 」 を感じ、また、逆に甘んじてみたい と思って、意を決して 「 おずおず 」 と行動してみると、なんとも頓馬なヘマをしでかして、サマにならない人たちのこと・ ・ ・ なのです。
そして、そんな自分に、どこか心のなかで 「 微笑みかけてみる 」 きっかけを与えてくれたのは、 「 トニオ・クレーゲル 」 であったのです。
平凡な人生のもたらす悦びへの ひそやかな身を灼くような憧れと、清らかな幸福感 ・ ・ ・ 「 迷える俗人 」 として、手さぐりしながら 人生を歩いていられるのも、トニオの最後の言葉が いつも記憶の片隅に残っているおかげである と思っています。
本書は、「 少し斜め 」 に歩いてしまいがちな、そして 「 認識の嘔吐 」 に悩み、それでいて 「 凡庸な幸福への憧れ 」 を持っている、そんな方が、自分を すなおに受け止め、 清らかな幸福感 をもって歩んでいかれるために、 身をもっておすすめできる作品である ・ ・ ・ と、あらためて強く感じています。
"僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。だからその結果として、多少生活が厄介です。あなたがた芸術的たちは僕を俗人と称えるし、一方俗人たちは僕を逮捕しそうになる"当時28歳だった著者が1903年発刊した本書は自伝的作品に留まらず、カフカを始め多くの作家達や若者に影響を与え続けています。
個人的には主宰している読書会の課題本として、同じ著者のドイツ教養小説の名作『魔の山』をとりあげた事から、関連本として何十年ぶりに再読しました。
さて、本書では14歳の夢見る少年トニオが愛情を寄せる男の子ハンス、そして女の子インゲへの不器用な姿を描いた後、31歳と大人になり作家として成功してからも【生活と芸術は両立するものか?】と悩み彷徨う姿が描かれるわけですが。
芸術家志望の若者が感情を吐露する物語と捉えたら『ユリシーズ』で知られるジョイスの『若き芸術家の肖像』の方がまとまりがあって、より好みだと感じつつ。
しかし、本書の場合は物語性より"ある人物や状況について一定の表現を繰り返す"【ライトモチーフ】でのコントロールされた【反復による描写、対句的な表現】が効果的に機能しているのが素晴らしいと思いました。
(きわめつけは、親しくしている画家のリザヴェータによる『あなたはただの俗人なのよ』(CVは"ハマーン様"こと榊原良子でお願いします)に対する終わりでの手紙での返答か)
また再読して新たに気づいたのは、冒頭近くのやりとり。トニオがハンスに戯曲『ドン・カルロス』を勧めるのに対して、乗馬好きなハンスが戯曲ではなく瞬間撮影での『馬の本』について話す場面。以前は『ドン・カルロス』の方に関心を覚えましたが、美術史を勉強した今回は『馬の本』が、映画の誕生や絵画の新たな可能性を解き放つキッカケになった【マイリッジの連続写真】である事に気づき新鮮な印象を受けました。(年を重ねてからのあらためての再読というのも良いものですね。。)
不器用な青春時代を振り返りたい全ての人に、また何かしらの悩みを抱えつつ、表現活動をしている人にもオススメ。
また再読して新たに気づいたのは、冒頭近くのやりとり。トニオがハンスに戯曲『ドン・カルロス』を勧めるのに対して、乗馬好きなハンスが戯曲ではなく瞬間撮影での『馬の本』について話す場面。以前は『ドン・カルロス』の方に関心を覚えましたが、美術史を勉強した今回は『馬の本』が、映画の誕生や絵画の新たな可能性を解き放つキッカケになった【マイリッジの連続写真】である事に気づき新鮮な印象を受けました。(年を重ねてからのあらためての再読というのも良いものですね。。)
不器用な青春時代を振り返りたい全ての人に、また何かしらの悩みを抱えつつ、表現活動をしている人にもオススメ。
作品自体はすばらしいです。しかし、この本には『トニオ・クレーガー』一作しか収録されていないので、ページ数の割には値段が高すぎます。Kindle Unlimited で読みましたが、定価で購入しようという気にはなれません。
新潮文庫や河出文庫は他にもう一作収録されていて、それで値段はもっと安いです。
翻訳も悪くはないけれど、他と比べて特に優れているとも思いません。好みとしては、他のレビューアーの方も書いておられますが、実吉訳の方がうまく雰囲気を伝えていると思います。作家の北杜夫が読んで感動したのも実吉訳でした。
実吉訳はKindle版では無料で入手できますので、そちらの方がお勧めです。
新潮文庫や河出文庫は他にもう一作収録されていて、それで値段はもっと安いです。
翻訳も悪くはないけれど、他と比べて特に優れているとも思いません。好みとしては、他のレビューアーの方も書いておられますが、実吉訳の方がうまく雰囲気を伝えていると思います。作家の北杜夫が読んで感動したのも実吉訳でした。
実吉訳はKindle版では無料で入手できますので、そちらの方がお勧めです。