
大岡 信 (著)
自分が言葉を所有している、と考えるから、われわれは言葉から締め出されてしまうのだ。
そうではなくて、人間は言葉に所有されているのだと考えたほうが、事態に忠実な、現実的な考え方なのである。
人間は、常住言葉によって所有されているからこそ、事物を見てただちに何ごとかを感じることができるのだ……。
いいかえれば、われわれの中に言葉があるが、そのわれわれは、言葉の中に包まれているのである。(著者「まえがき」より)
著者について
1931年静岡県に生まれる。東京大学文学部国文学科卒業。東京芸術大学教授。詩人・批評家。主著に、詩集『記憶と現在』『悲歌と祝祷』『春 少女に』『水府』『草府にて』ほか。評価集『超現実と抒情』『蕩児の家系−日本現代詩の歩み』『紀貫之』『うたげと孤心』『日本詩歌紀行』『岡倉天心』『折々のうた』『表現における近代』ほか。『大岡信著作集』がある。
著者は先頃長逝されましたが、この本に書かれた言葉は長く生き続けるだろうと思われます。
この本は何冊か出した詩や言葉に関する著作の中から新たに再編集したもので、1985年に学術文庫から出したものです。有名な「言葉の力」が巻頭を飾っています。
その「言葉の力」などで何度か引用されているのが、ドイツの詩人ノヴァーリスの次の言葉です。
「見えるものは見えないものにさわっている。聞こえるものは聞こえないものにさわっている。それならば、考えられるものは考えられないものにさわっているはずだ」。
こうした言葉に出会えるのがこの『詩・ことば・人間』です。見事なエッセイ集。解説の粟津則雄氏の文章も読み応え十分です。
言葉というものは不思議だ。
普段使っているありふれた言葉でも組み合わせ方、発する時と場合によって、すごい力を発揮したりする。
まぜそういったことが生じるのか。
「つまり、われわれが使っている言葉は氷山の一角だということである。氷山の海面下に沈んでいる部分はなにか。それは、その言葉を発した人の心」にほかならない。
海面下の氷山のように見えない心次第で、表に出る言葉はの力はいかようにも変わる。
大切なのは「言葉の下」にある心なのだ。
言葉とは、心の思いを響かせて、声に顕すのだ。