映画 悪魔のような女

2022年06月15日 21時57分16秒 | 社会・文化・政治・経済

 

悪魔のような女
 

6月14日、午後11時からCSテレビのザ・シネマで観る。
これで2度目である。


解説
「恐怖の報酬」についでアンリ・ジョルジュ・クルーゾーが監督する推理スリラー映画一九五五年度作品である。原作はピエール・ボワローとトーマス・ナルスジャックが合作した探偵小説で、クルーゾーとG・ジェロミニが共同で脚色、台詞も担当した。

撮影は「恐怖の報酬」のアルマン・ティラールと「禁じられた遊び」のロベエル・ジュイヤアル、音楽は「寝台の秘密」のジョルジュ・ヴァン・パリスである。

主演は、「嘆きのテレーズ」のシモーヌ・シニョレ、「恐怖の報酬」のヴェラ・クルーゾー、「宝石館」のポール・ムーリッスで、「埋れた青春」のシャルル・ヴァネル、「密告(1943)」のピエール・ラルケエ、テレーズ・ドルニー、ジャン・ブロシャール、ジョルジュ・シャマラ、ノエル・ロックヴェール、ジョルジュ・プージュリーらが助演する。

1955年製作/114分/フランス
原題:Les Diaboliques

ストーリー
妻クリスティナ(ヴェラ・クルーゾー)の財産で、パリ郊外の小学校の校長に収っているミシェル(ポール・ムーリッス)は、妻に教鞭をとらせ、もう一人の女教師ニコオル(シモーヌ・シニョレ)と公然と通じていた。

乱暴で利己的な彼に対して二人の女はついにがまんできなくなり、共謀でミシェル殺人の計画を立て、三日間の休暇を利用してニオールのニコオルの家へ行き、電話でミシェルを呼んだ。いざとなるとクリスティナは怖気づいたが、気の強いニコオルは、彼女に命令してミシェルに睡眠薬入りの酒を飲ませ、寝こんだところを浴槽につけて窒息させた。

翌朝二人は、死体を用意して来た大きなバスケットに詰め小型トラックで学校まで運び、夜の闇に乗じて死体をプールに投げこんだ。校長失踪はたちまち校内の話題になったが、ニコオルは平然としていた。プールに飛びこんだ生徒が校長のライターを発見し、プールの水を干すことになったが、水を干してみると、死体は影も形もなかった。

しかも、つづいて、ミシェルが殺されるとき着ていた洋服がクリーニング屋から届けられる事件が起きた。クリスティナは洗濯屋から依頼人の住所を開き、そのホテルヘ行って見たが、そのとき止宿人はいなかった。安心できぬクリスティナは、校長に似た溺死体がセエヌ河に浮んだという新聞記事を見て、死体公示所へ行ったが人違いだった。

公示所でクリスティナからおおよその事情を聞いたフィシェ老警部は、学校に来て調査をはじめた。モワネという生徒がガラスを割って校長に叱られたといい、学校で記念撮影をしたところ、校長らしい人物が写真の中に写っていたりして、クリスティナは恐怖のあまり持病の心臓病が悪化して寝こんでしまった。ニコオルは学校を辞めて行った。その夜、一人寝ているクリスティナを脅かす足音が聞えて来た。

動てんした彼女は廊下から部屋へ足音を追って浴室に来ると、浴槽には殺したときそのままのミシェルが沈んでおり、それが動き出したため、彼女は恐怖のあまり発作を起して絶命した。

この大芝居はミシェルとニコオルが共謀して打ったものだった。事成れりとほくそえむ二人はフィシェに捕えられた。事件は解決した。しかし、モワネは、今度はクリスティナ夫人に会ったといっている。


見どころ
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督が『恐怖の報酬』についでメガホンを取ったスリラー。モノクロ映像と巧妙な仕掛けが底知れぬ不気味さを漂わせている。

ストーリー
パリ近郊の寄宿学校の校長・ミシェルは妻・クリスティナの莫大な財産を利用して今の地位を築いていた。
しかし、ミシェルの横暴ぶりはクリスティナを苦しめ、ミシェルの愛人・ニコルの同情も買っていた。2人は共謀してミシェルを溺死させるのだが…。

キャスト・スタッフ
出演
シモーヌ・シニョレ

Simone Signoret
ヴェラ・クルーゾー

ヴェラ・クルーゾー Véra Clouzot
ポール・ムーリス
シャルル・ヴァネル
ジャン・ブロシャール
監督
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作
ピエール・ボワロー
トーマス・ナルスジャック
音楽
ジョルジュ・ヴァン・パリス


大昔の白黒映画でやや退屈ではあったが、謎が謎を呼ぶ展開と最後の大どんでん返しには驚かされた。


見事なミスリードにしてやられました。
素晴らしいサスペンスは時代を経ても色褪せないですね。ヒッチコックが映画化を狙ってたらしいので、ヒッチコック版も観てみたかったですね。

恐怖の報酬はドキドキしたし、面白いと噂のこちらも。

クソみたいな男を、病弱な妻と強気な愛人が、なんでか力を合わせて殺そうとするのだが…。

ずっと暗鬱な雰囲気。
まぁそんな感じね、と思いつつもやっぱりドキドキさせられたし、これじゃ思うつぼ。
だけど最後なに?どういう事?怖いっ。
なんといっても現実とリンクしちゃってる部分が1番怖いわ。

そしてこれによって、ヒッチコックのライバル意識が「めまい」と「サイコ」を生むんだから面白い。

 

クソ夫を妻と愛人が協力して殺害するも、遺棄した筈の死体が見付からずさぁ大変なお話。

50年代の映画って凄い久々に観た気がする。
そして初アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督作品。

ぬへぇ、こりゃ良いじゃないですか。
まず妻と愛人が協力して夫を殺害っていう泥沼展開なんだけど、そもそも極秘の愛人でなくてある種公認(というか黙認?)的な存在だし同じ学校で教師をしている時点で中々ぶっ飛んだ設定だなと。
劇中は「あれ?友達同士だっけ?」と思ってしまう程基本この二人が一緒の場面が多いのも印象的でした。

で、プールに沈めた筈の死体が無い!ってなってからは二人とも大慌てで、特に妻の方は心臓が元々悪いのもあってメンタルが杏仁豆腐並みの脆さなので観ていて変な危うさも感じられます。
死体は無いのに謎の人物からクリーニングされた夫のスーツが届くし、学校で集合写真を撮ったら夫らしき顔が写り混むはでどんどん二人の精神を追い詰めていくじわじわ展開も良かったです。
特に写真のあの写り方はモノクロなのも相まって超不気味でした。

終盤はこれまた人影や暗闇を利用した恐怖演出でこれでもかと主人公を追い詰めていき、明らかになった真実に「おぉ、なるほどね~」となりスッキリするんだけど最後のオチで別次元の恐怖を仄めかしてくるもんだから「うおぉ……」と素直に怖がっちゃいました。

リメイクもされているようですが、評判そこそこっぽいので両方観るにしてもまずは此方から観賞した方が良いかなと。
一応「ネタバレしないでね」というメッセージがラストにあったので、短めに纏めました。決して連日の疲れで眠くなってきたからではないです。


「フランスのヒッチコック」と呼ばれる監督は二人いるようで、一人はクロード・シャブロル。そしてもう一人が本作のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー。カンヌでグランプリ受賞した「恐怖の報酬」(1953)に次ぐ本作は「どうぞこの映画の筋はお話にならないで下さい」との謳い文句で世界中の話題になった。

有名作で期待しすぎたためか中盤まではシナリオも画作りも緩慢に感じ、登場人物全員に漂う胡散臭いムードも相まって「何だか昭和のひばり書房のB級ホラー漫画みたいだな」と思いながら観た。その印象は観終えた今も変わらないが、ラストは確かに映像ともどもインパクトがあり話題になったのも頷ける。

※原作は「その女の正体」。当時映画化をヒッチコック監督が熱望し権利を買おうとしていたところをクルーゾー監督に先を越された。悔しがったヒッチコック監督は原作者のポワロー&ナルスジャックの次作の映画化権を早々に取得し「めまい」(1958)を撮った。

※ヒロインを演じたのは監督の妻ヴェラ・クルーゾー。実際に心臓疾患があったのだが本作の五年後、クルーゾー監督がブリジッド・バルドーの不倫騒ぎを起こしている最中にパリのホテルの浴室で変死しているのが発見された。

※日本での公開当時、谷崎潤一郎が随筆「過酸化マンガン水の夢」で、本作について詳細に評論している。

 

おもろい!巻き起こる謎に対して、誰がなぜ、どうやって!?とハラハラしながら話に惹きつけられる、これぞミステリの真髄じゃ〜〜という気持ち!!
誰にもネタバラシするなよって最後に注意されるのも楽しい

私はナゾ解明できました、わっはっは(純粋に自慢)
なのでラストは驚きより答え合わせ気分になってしまい、ちょっと残念な気もしつつ
でも正々堂々と開示された情報から鑑賞者が推理できるミステリとして、良い勝負だったなとたしかな満足でした
やったぜ

そして女優ヴェラクルーゾーのWikipediaで経歴欄を見てうおーっとなったので鑑賞後はぜひ
現実は映画みたいにミステリ


残念ながら、途中で最後のオチが見えてしまった。
けれどそれはこの作品のせいではなく、
後世の作品がこれを真似しまくったせいだろう。
おそらく公開時は皆驚いたと思う。
これだけの複雑なプロットを最初に考えた人は天才だ。

この間、続けて黒沢作品を見たが、やはり内容は後世に真似しつくされていたが、それども、それらの後世の作品に負けない力強さと魅力にあふれていた。
しかしこの作品には、黒沢映画にあるプラスアルファの何かがない。
その辺が、この映画が名作映画としてあまり名前が挙がってこない理由だろう。

 


映画 こわれゆく女

2022年06月15日 21時34分34秒 | 社会・文化・政治・経済

映画批評家によるレビュー

Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「ジーナ・ローランズとピーター・フォークの熱演に衝撃を受ける『こわれゆく女』には、インディペンデント映画製作者のパイオニアであるジョン・カサヴェテスが芸術の頂点に立っている姿を見ることができる。」であり、31件の評論のうち高評価は90%にあたる28件で、平均して10点満点中8.10点を得ている

こわれゆく女

6月14日午前1時14分からCSテレビのザ・シネマで観る。

以前も観たと思われるが、改めて感動した。

夫のニックにも問題があり、救いがたさを感じた。

解説

精神を病んだ妻とその夫の愛と葛藤を描き、ジョン・カサベテス監督の代表作の1つとなった傑作ドラマ。専業主婦のメイベルは、土木工事の現場監督を務める夫ニックや3人の子どもたちと暮らしている。

精神バランスの不安定なメイベルは、ある晩ニックが仕事での突発的なトラブルで帰宅できなかったことを発端に、異常な行動を見せるようになり……。カサベテス監督の旧友ピーター・フォークと妻ジーナ・ローランズが主人公夫婦に扮する。

1975年製作/147分/アメリカ
原題:A Woman under The Infulence
配給:ザジフィルムズ
日本初公開:1993年2月

スタッフ・キャスト

  • ジーナ・ローランズ

    ジーナ・ローランズ

  • ピーター・フォーク

    ピーター・フォーク

  • マシュー・カッセル

    マシュー・カッセル

  • マシュー・ラボルトー

こわれゆく女のネタバレあらすじ

【起】– こわれゆく女のあらすじ1

3人の子どもを持つ土木作業員のニックとその妻メイベル。

夫婦水入らずの時間を過ごすはずだった夜、ニックは水道管事故の発生で帰れなくなり、寂しさのあまりメイベルは酒場で男を引っかけます。

翌朝男を追い出したメイベルは、大勢の仲間を連れて帰宅したニックらに朝食を振る舞いますメイベルは彼らをもてなすために尽力するも、若い青年をダンスに誘ったことをニックにどやされ、険悪な雰囲気となります。
 

映画 こわれゆく女

2人の口論の最中に子どもたちが戻って来て、メイベルは学校が終わったらパーティーを開くことを約束します。

ニック・ロンゲッティ(ピーター・フォーク)、メイベル・ロンゲッティ(ジーナ・ローランズ)、ジョージ・モーテンセン(フレッド・ドレイパー)、マーサ・モーテンセン(レディ・ローランズ)、マーガレット・ロンゲッティ(キャサリン・カサヴェテス)、アンジェロ・ロンゲッティ(マシュー・ラボルトー)、トニー・ロンゲッティ(マシュー・カッセル)、マリア・ロンゲッティ(クリスティーナ・グリサンティ)

こわれゆく男だった。子どもたちは無邪気でありながら大人なんだよな。
メイベルに優しくキスをするところ、階段登らされて駆け降りていくところ、愛おしさが溢れてる。
緊張感強まる言動とゲストたちの引き際がいいのがリアル。曲が流れてエンディング、だ、大丈夫なのか…?


 カサヴェテス組の俳優陣の強い絆なのか、キャメラの前で演技をしているというよりキャメラの前で"生きている"という奇妙な錯覚に陥る。
理解できないままに、それでも母親を守ろうとする子どもたちの姿にも演技を超えた何かが映っている気がした。


ジーナ・ローランズの一挙一動にすごく惹き付けられた。ここがおかしいとはっきり言えないけど、危うげな感じ。同僚達との食事シーンも、ふとした事で不穏になっていく空気、いつ爆発するのかと冷や冷やした。

自分は終始メイベルに肩入れしてしまったなぁ。不安定な妻に対してあの夫じゃ、悪い方に転がるばかりのように思えた。
約束ドタキャンされてメンタル危うい時に、何で朝っぱらから同僚達連れてくのさ…。

終盤の子ども達を交えてのドタバタは、おかしみと苦しさが入り交じった気持ちになった。
ニック最悪…この一家はどうなってしまうの?と結末が読めなかったけど、意外や意外…。台風が通り過ぎたあとのような静かな時間。夫婦とは現実とはこんなものなのかなぁと妙に納得させられた。

ジーナ・ローランズの鼻、下からのアングルでもすごく綺麗だな。


精神を病んでいる妻メイベルを持て余しながらも水道工事員として職場でも慕われている夫ニック。突然のトラブルでしょっちゅう家を空けるニックにメイベルの気持ちは次第に狂気の世界へと…

良き妻、良き母でありたいという思いが強すぎて精神のバランスを崩していくメイベルは一生懸命他者とコミュニケーションを取ろうとするものの、人との距離を上手く計れません。

印象的なスパゲッティの食事シーン…彼女の行動に対して張り詰めた空気は尋常ではなく、観ている側も息をするのが苦しくなります。

ニックは時に耐えられず怒鳴ったり…また無神経に大勢の客を家に連れて来たり…と、壊れていたのは妻メイベルだけではなく、彼自身も揺れ動いていました。誰よりも彼女を愛していたにも拘らず、一対一で向き合うことが出来なかったのだと思います。

そんな中で訳もわからず不安に怯え、それでも"世界一のママ"としがみつく子供たちの素直さに胸が熱くなります。

自分自身はまだ未経験の領域ですが…夫婦であり続けることの厳しさを目の当たりにし、それでも…全てを受け入れ、共に歩んでくれる人がいることは…やっぱり幸せなのですね♡

鳴り止まない電話に出ることもせず…ニックとメイベルがふたりだけで家の後片付けをする様子…ふたりだけの世界…見事なシーンです。

エンタメ映画とは対極の終始苦しい…夫婦の現実の痛みを描くカサヴェテス監督、天晴れです。


ジョン・カサヴェテス中期の傑作。迫真の演技とはまさにこのこと。

豊かな身体性を持つ子供たちと対比的に描かれてたのが、ニックの母親やあの精神科医のような身体性を失ったゾンビ(社会過剰適合者/システムの奴隷)で、メイベルはその"感染"から必死に逃れようとする──まともであり続けようとする女性に見えました。ヒト(動物)として。

 

ジーナ・ローランズの怪演が凄すぎるから妻1人だけこわれてるように見えるけど夫も相当やばい
思うようにいかない→興奮→発狂・暴れ狂うの流れの反復と差異
完璧では終わらない感じもカサヴェテスらしいな
やっぱこの人の作品は前半めちゃおもろいけど後半だれてくる
いいね!

 

 

 

 

 

 

 

 


秋葉原事件 加藤智大の軌跡

2022年06月15日 09時11分13秒 | 社会・文化・政治・経済
 
中島岳志  (著)
 
2008年6月、秋葉原で死傷者17名を出す無差別殺傷事件が発生。
「派遣切り」「ネット掲示板」という事件にまつわる言葉と、
加害者・加藤智大に対する高い共感が衝撃を与えた。

加藤はなぜ、事件を起こさなくてはならなかったのか?
友達がいるのに、なぜ孤独だったのか――?

彼の人生と足跡を丁寧に追うことで、事件の真の原因と
日本人が対峙すべき現代社会の病巣を暴くノンフィクション!

私が秋葉原事件後から震災を経て現在を生き延びられているのは、本書のおかげだと言っても過言ではない。
ここで描かれるのは、私やあなたの像であるとともに、この社会の姿である。――星野智幸 (解説より)
 

内容(「BOOK」データベースより)

2008年6月、秋葉原で死傷者17名を出す無差別殺傷事件が発生。
「派遣切り」「ネット掲示板」という事件にまつわる言葉と、加害者・加藤智大に対する高い共感が衝撃を与えた。
彼の人生を追うことで、日本人が対峙すべき現代社会の病巣を暴くノンフィクション。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

中島/岳志
1975年大阪府生まれ。北海道大学大学院法学研究科准教授。大阪外国語大学卒業、京都大学大学院修了。
2005年、インド独立運動の闘士を描く『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』で大佛次郎論壇賞、2006年『ナショナリズムと宗教 現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』で日本南アジア学会賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
加藤智大について本当に詳しく書かれていました。
著者の洞察も織り込めて、色々考えさせられる内容だけど、あくまで私の感じた事ですが、全ての原因、諸悪の根源は彼の両親だ。
まさに毒親の中の毒親。特に母親は完全に異常性格者。
加藤智大の、リアルな人間関係では本音を言わないとか、理由の説明なしに突然キレるとか、こういったあらゆる行動のありかたは、まさに幼少期~青年時代にいたるまでを母親の常軌を逸した虐待に蹂躙され尽くされた事がベースです。
彼が異常な性格なわけじゃないんだ。
この子は本来なら、もっと幸せになれる資質を持っていたんだと思う。
母親が壊した。父親がそれに手を貸した。
両親が、彼をじわじわと壊した。
判断力、決断力、善悪を把握する時に必要な他者への共感、寂しさを受け入れるやり方、そういったありとあらゆる大事な感覚を、こいつらが加藤から奪って叩き壊したんだよ。
加藤智大に、これだけは考えて欲しかった事がある。

勝ち組が憎い、幸せそうな人間が憎い、って感情は誰にでもあるよ。
ただ、君が手にかけて命を奪った相手の人は、「勝ち組」で「幸福に包まれた」人ばかりだったろうか?君を上回る不幸や苦しみを抱えた人だったかも知れない。
やっと幸せをつかんだばかりの人だったかも知れない。やっと苦しい病気が治った人だったかも知れない。
そんな風には君は考えなかったの?

寂しさも孤独も、知っているはずの君が。
・・・それが、哀しい。
けれど、そういった他者の痛みへの共感性の欠如を彼の中に植え込んだのは、彼の母親だ。父親だ。

この事件の真の犯人は、加藤智大じゃない。加藤智大の両親だ。
正直、被害者の方々の御遺族には申し訳ない言い方になるけど、毒親の被害者が絶える事のない現代、加藤智大には死刑にはなって欲しくない。
彼自身が、彼の行動の本当の原因をはっきり掴むまでには時間がかかるから。けれど、それを掴んだとき、必ず他の毒親被害者への理解と助言が出来るようになると思う。

ひいてはその事が、こういった悲惨な事件を減らしていく事の力にもなるから。
だから、加藤に生きてほしい。
そう思いました。自分の意見や主張を、言葉で言うのではなくて、行動で表すというコミュニケーションスタイルを子供のころから身につけていた加藤被告。
毒親からの影響も大いにあると思うが、年少者が意見を表出したり、立場が低いとされている人達が反対意見を言う事を異常に嫌がる日本社会にも遠因はあると思う。

加藤被告も普段から意見を自由に言う等、コミュニケーションが円滑に取れていたならば、穏やかに暮らせていたかもしれない。日本的コミュニケーションには、自分が「それは違う」と思っても言えず、黙って、うつむいて、怒りを溜めていくパターンが蔓延していて、挙句、逆切れを起こす人が、人口割合の一定数存在しているように思う。

よって加藤被告を含めた日本人の抑圧的で一方通行なコミュニケーションのあり方を改めていかないとダメだと思う。
こういった事件からは人間について多くの事を学べると思う。そして出来るだけ人が幸せである社会に改善していきたいと思う。
 
 
 
犯行に至るまでを、丁寧に順を追って取材している本でした。育ち方とか、孤独とか混ざり合うものがあるとは思うけど、今で云う「既読スルー」みたいなものが彼をいらだたせたのだとしたら、救いの手立てはないくらい安直に起こした事件だったのだと思う。
承認欲求もされど、無言の煽りに勝手に焦って暴走のようにも。自殺への思いとどまりも他力だったようだし、結局は母の指示、指導なしでは決められない人格に育っちゃったのかな。これが届いた日が10年後の犯行日だったために、特別重い気持で読むこととなってしまった。
 
 
 
福田恒存の『人間・この劇的なるもの』の帯に「この本は私の人生において、決定的だった」という言葉を書いていた中島岳志の書いたものだということで手に取った。この本を読んで、中島は加藤智大を分析するうえで福田の「演技と演戯」についての洞察を意識したのではないかと思った。

本書で明らかにされていく加藤智大という人間の実像は、ニュースなどの報道などから受ける印象とはかなり違った。なにより意外だったのは、彼は家族、とくに母親との関係には問題があったものの、学生の頃から仲のよい友だちがおり、地元に慕っている先輩もいて、転々とした職場でも同僚たちともうまくやっていた。
また、ネット経由で知り合った女友だちも複数いた。生身の人間との接触を苦手とする「二次元の世界の住人」ではなかった。仕事ものみこみがはやく、短期間で能力が認められ非正規から正規社員に引き上げられたこともあった。

しかし加藤が自らのアイデンティティとしたのは「そこそこうまくやっていける自分」ではなかった。そんな人間はリアル社会では平凡ゆえにとりたてて評価もされない。
加藤は強烈な承認欲求を持っており、それでは満足できなかった。そこでネット社会では、いわゆる「コミュ障」を装い、自らの日常をより悲惨に孤独に見えるように演出し、極端に抑圧された自己を演じた。
彼の繰り出す自虐ネタと毒舌は注目を集め、特定の掲示板ではちょっとした有名人になった。他者の承認を求めてデフォルメした自分がネットのなかでは認めてもらえる。
加藤にとってはその認められている自分こそが本当の自分であって、リアル世界の「素」の自分こそが仮面だったと中島は分析する。「『ネタ』を繰り出す『ベタ』な自分への承認こそ彼の生を支える重要な要素だった」とのである。
福田恒存は「演技」は他人に見せるものであり。「演戯」は「真に自分自身になること」と定義している。ありのままの自分で満足できないから、あるべき自分になろうとする。それが演戯であると言う。そしてそこには操られている自分を別の自分が見るという諧謔の精神がある。
「演技」にはそれがない。ひたすら他人の関心を得るためにだけ演じるのである。加藤が事件の数日前に掲示板に何の文脈もなく書き込んだ「操り人形な毎日」という謎の言葉。そこに諧謔の精神は微塵も感じられない。

本書の半ば過ぎに出てくるこの一文で、加藤の言動への謎が氷解したかのように感じた。

「代替可能なリアル。代替不可能なウェブ。世界のあり方が反転した。」

そう、ウェブでの演技こそが加藤のリアルになっていた。事件当日にはこう書きこんだ。「俺が騙されてるんじゃない。俺が騙してるのか。いい人を演じるのには慣れてる。みんな簡単に騙される」。
彼はウェブ上ではあえて演じ慣れている「いい人」にはならなかった。その真逆の自虐的な毒舌キャラを演じ、わざわざそんなことをしている自分をありのまま認めてくれる「簡単に騙されない相手」を探した。何人か心が通じ合ったと思える人もいたが、そんな面倒な要求にいつまでもつきあってくれる人はおらず、結局彼はひとり残された。そして勝手に絶望した。

加藤に関する記述の中で気になったのが、不満なことがあると直接言葉にせず「行動によって相手に理解させようとする」ことだ。ありていにいえば「あてつけ」である。わかってくれない相手への恨みと、それでもわかってほしいという甘えの入り混じった行為。一見幼児的だが、そこには他者に対する支配欲求が隠れている。
「今回の事件も、そのような自分の生来の行動パターンによって引き起こされた」と本人も認めている。受け入れられていると思っていたネットの世界で孤立したことが「行動」につながった。彼の「行動パターン」に病理的なものがあったのかどうかはこの本を読んだだけではわからないが、幼児的な承認欲求や支配欲とうまく折り合いをつけて行くことができなかったことは見てとれる。
なりたい自分になるための「演戯」ではなく、ありのままの自分を受け入れてもらいたい一心で「イタい奴」を演じているうちに自分を見失った。そこで「世界の在り方が反転」してしまったのである。

伝統的社会の身分制度や社会規範は、幼児的なむき出しの承認欲求を抑制する装置でもあったが、いまやそれらは機能していない。むしろネット空間には、承認欲求を刺激するような仕掛けがいたるところに埋め込まれている。だからネットがよくないという話ではなく、いままで向き合うことのなかった自己のなかの承認欲求という獣を一人ひとりうまく飼いならす術を身につけなければ、自分まで食われてしまいかねないということだ。

著者は法廷でも決して「本音」を語ることのなかった加藤の後ろ姿を見て「彼がつくり上げた社会に対する岩盤は、思いのほか厚いのかもしれない」という絶望的な気持ちに襲われたという。しかしそれでも、加藤の足跡をたどり、彼を知る人を訪ね、残された言葉をたんねんに拾いながら綴ったこの秀逸なルポルタージュからは、彼の苦悩の輪郭が浮かび上がってくる。
「おそらく同時代に生きる私たちは、加藤の中にわずかでも自己の影を見てしまうだろう。加藤の痛々しさと、自分の痛々しさがオーバーラップする自分があるに違いない」。
予断を排した丁寧な取材から「加藤から見た世の中の見え方」を再現した本書は、この事件はもとより、この時代についての非常に優れた考察になっている。
 
 
 
加藤は幼馴染みの友達もたくさんいるし、車の好きなごく普通の若者だと思った。新聞やテレビでは、「孤独の人間」として扱われていたが、この著書を読む限り決してそうとも思えない。
加藤の母親は異常だと思う。