梯子酒

2023年11月03日 23時23分33秒 | 日記・断片

梯子酒をしてしまった。

こんなことは、何年ぶりであろうか?
今は亡き宮さん、そして、親友だった奈良久の顔が浮かぶ。

彼らは、梯子酒を常にしていた。

「次、行くぞ」と店を変える。

私は、好みのホステスに未練を残して店を後にするのだ。

 

今日はまず、競輪場の側の食堂で、ビールと日本酒を飲む。

そこで、日経新聞に関係した人と出会う。

「おかげで、外国へ行く機会があった」とその人は言う。

そして、帰り際に「家へ帰って、飲み直すよ」と席を立ちながら言うのだ。

相当の酒好き人間のようだ。

当方は、その後、カラオケ喫茶のハーモニーへ向かう。

こっでは、2曲歌いビールを飲む。

それから、久びりに地元のカラオケスナックの「プチ」へ行く。

ここでは、1曲歌いながらビールを飲む。

さらに、地元のスナック「福ちゃん」でビールと日本酒を飲み、1曲歌ったが、点数は屈辱の74点となる。

東京の新宿のナイトクラブや北千住のナイトクラブで、歌い喝采を浴びた過去は、言い知れずに空しい。

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 出目作戦=外れ車券を追いかける

2023年11月03日 12時20分48秒 | 未来予測研究会の掲示板

10レース

9-1-7 8-2-4 5-3-6

レース評

ここ屈指の出脚とスピードで伊藤が疾走。出方ひとつで中本が鋭く逆転へ。太田−吉田のパワー駆けや、東の浮上も侮れー

買った車券は以下。

9-1-2 9-1-3 9-1-5

 

結果 1-9 270円(2番人気) 1-9-5 1,670円(8番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 中本 匠栄   11.3 S 伊藤颯差す
2 9 伊藤 颯馬 1車輪 11.4 B 鐘4捲って
× 3 5 太田 龍希 3車身 11.4     逃げ立直し
4 3 吉田 勇人 2車身 11.4     太田マーク
5 2 東 龍之介 1車身 11.3     切替え絡み
  6 6 内藤 高裕 3/4車輪 11.4     埼玉続き絡
  7 4 長田 祐弥 1車身1/2 11.4     不発ライン
  8 8 小林 稜武 3車身 11.9     叩れ捲れず
9 7 宮本 隼輔 大差 13.7     九州勢に離

 

11レース

並び予想 9-2-4 1-7 8-3-6

レース評

取鳥が怒濤の仕掛けでレースを支配。地元記念に燃える番手の桑原に中心期待。続く国村や、寺沼−宿口の加速的な一撃を警戒

1番人気 1-2(3・1) 2番人気(5・5倍)

予想行為を封印して、10レースの外れ車券の出目を追いかけてみた。

過去に、何度も、それで大穴をゲットしたからだ。

結果 9-1 3,430円(11番人気) 9-1-2 7,280円(22番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 9 寺沼 拓摩   11.9   叩ず切替交
2 1 取鳥 雄吾 3/4車輪 12.0 B 鐘4捲って
3 2 宿口 潤平 1/2車身 11.8     寺沼マーク
4 3 中村 一将 3/4車身 11.9     切替及ばず
  5 4 阿久津 修 1/2車身 11.9     ライン追走
  6 6 吉村 和之 1車身 12.0     前に続いて
7 7 國村 洋 8車身 12.4     離れ振られ
  8 8 小松原 正登 7車身 13.3     併せ逃捲れ
5 桑原 大志         当日に欠場

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 絶対王者が敗退

2023年11月03日 11時54分44秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 玉野競輪 周防国府杯争奪戦

初日(11月2日)

12レース

並び予想 5-9 1(単騎) 3-6-8 4-2-7

レース評

親王牌完全Vの余勢を駆る古性が本命。稲川がマークだが、犬伏−清水−松浦が猛攻。単騎の郡司や、新山−守沢まで控え激戦

1番人気 3-7(7・2倍) 2番人気 3-2(10・5倍) 3番人気 3-1(11・3倍)

これが競輪である。犬伏 湧也選手の強力な捲りで、絶対王者の古性 優作選手は意表を突かれる結果で、ファンの期待を裏切ることに!

油断である。

まさに激戦であった。

当然であるが、走る格闘技である競輪の難しさ、思わぬ展開のアヤであったのだ。

 

結果 2-1 2,450円(10番人気) 2-1-5 4万5,620円(127番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 清水 裕友   11.5   犬伏乗り交
2 1 郡司 浩平 1/2車身 11.3   振れ乍捲上
  3 5 新山 響平 3/4車身 11.5     叩れ好位続
4 4 犬伏 湧也 1/8車輪 11.7   B 強引カマシ
  5 9 守澤 太志 1/2車輪 11.3     新山追振も
  6 8 村上 博幸 3/4車輪 11.1     稲川に続き
× 7 6 稲川 翔 3/4車輪 11.3     古性追切替
8 3 古性 優作 1車身1/2 11.4     2角膨れて
9 7 松浦 悠士 6車身 11.6     前に離れて

 

 
 

日本とモンテネグロの関係

2023年11月03日 11時40分29秒 | その気になる言葉

36歳のミライコ・スパイッチ首相は、大阪大学、埼玉大学で経済学を学んだそうだ。

ミロイコ スパイッチ. (モンテネグロ). NRI学生小論文コンテスト2010. 日本から未来を提案しよう! 「日本が世界のためにできること」. 入賞作品. 1. Page 2. 世界での ...

 

日本とモンテネグロの関係(英語Japan–Montenegro relations)では、日本モンテネグロ(以下では歴史的推移を述べるためモンテネグロと表記する)の二国間関係について述べる。

日本は2006年6月16日にモンテネグロの独立(2006年6月3日)を承認し、同年7月22日に両国は外交関係を開設した

2020年時点で、ベオグラードにある在セルビア日本国大使館の中に兼轄する形で、モンテネグロ大使館が置かれている

日本政府は、モンテネグロを含む西バルカン地域の平和と安定を重視し、これに貢献していくという我が国の方針に基づくとの声明を出している[3]

歴史

日露戦争時点で、モンテネグロ公国ロシアの管理統治下にあり、それ故、1905年にモンテネグロ公国は日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた

しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。1918年にユーゴスラビア成立によりモンテネグロ公国は消滅したが、国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。

日本政府は、2006年に提出された衆議院議員鈴木宗男の質問主意書に対する答弁書において「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」と回答している。

2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中燁子外務大臣政務官を総理特使として派遣した

UPI通信は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道したが、日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない

貿易

2013年時点における二国間の貿易額は以下のようになっている。日本の主要輸出品目は食料品、石油・石油精製品、電力、自動車、非鉄金属製品など、日本への主要輸出品目は非鉄金属、金属鉱石・金属くず、飲料、鉄鋼、木材・木材加工品となっている。また、EU内では、日本との貿易額は12番目に多い相手国となっている。

  • 対モンテネグロ輸出額:17.7億ユーロ
  • 対モンテネグロ輸入額:3.8億ユーロ

日本国内でのモンテネグロ人

2019年10月時点で、在日モンテネグロ人は27名となっている[1]


阪神4番 大山燃えたぞ!

2023年11月03日 09時58分11秒 | 野球

当方は、父親の代からの阪神ファンである。

家人の実家も家族ぐるみで、阪神ファンなのだ。

是非、阪神には日本シリーズで優勝してほしい。

甲子園球場や京セラドームへ野球を見にへ行きたいくらいだが、チケットは到底手に入らないだろう。

 

それにしても・・・目前で2敬遠。

SMBC日本シリーズ2023、阪神4x―3オリックス、第4戦、2勝2敗、1日、甲子園)阪神はサヨナラ勝ちでオリックスを破り、今シリーズを2勝2敗のタイに戻した。

六回まで3―1とリードしたが、七回に宗に中前2点打を打たれて試合を振り出しに戻された。

終盤は互いに好機を作るもリリーフ陣が粘り合い、迎えた九回裏だ。1死から近本が四球で出塁すると、ワゲスパックの2度の暴投で二進、そして三進。

そこから中野と森下が連続申告敬遠で歩かされ、第3戦では九回2死一、二塁のチャンスで空振り三振に倒れていた大山が勝負を挑まれた。燃える4番はフルカウントからインハイ直球に食らいついて三遊間を破り、試合を決めた。スタンドは狂喜乱舞。大山はウオーターシャワーの中で笑顔をはじけさせた。


創作 今は亡きナオちゃん 13)

2023年11月03日 03時16分28秒 | 創作欄

浴衣姿のまま、二人は投宿した和風旅館で朝食を食べていた。

2階の窓の下は、高瀬川である。

「ナオちゃんは、時ちゃんには、東京で、本当にお世話になったわ」尚子はほほ笑む。

話題は、1974年、四谷三丁目の小さなビルで開校した日本ジャーナリスト専門学校に及ぶ。

取材力に限界を感じて、尚子は夜間の日本ジャーナリスト専門学校を受講する。

青地晨、鎌田慧、松浦総三、亀井淳など、錚々たる気骨な反権力リベラリストが講師だった。

私は、近くの喫茶店で何時も尚子を待っていたのだが、一度だけその教室の終了時に、覗きに行くと、尚子が講師の青地晨に質問していた。

残っていた受講者たちの一部も、尚子の質問と青地講師の応答に耳を傾けていた。

「取材の前には、十分な準備が必要です。君のように、<何でも話してください>では、ダメですね。わかりますか?」

私は、尚子の取材先に同行したことがあった。

「何でも話してください」と尚子は決まり文句で取材相手に切り出すのである。

それでは、取材相手は戸惑うばかりだ。

尚子には、肝心な取材の意図が明確ではなかったのだ。

旅館を出てから、二人は京都を散策する。

「こんな家にも住みたいな。ナオちゃん京都の町屋に下宿したくなったわ」尚子は町屋を見て歩く。

二人は、新幹線ではなく、京阪電車に乗り大阪へ向かった。

尚子は、次の日に道修町の大阪本社へ出勤する予定であり、先ずは本社が用意した十三のアパートへ行くことになる。

繁華の一角に、そのアパートはあった。

尚子の部屋は二階で、6畳と4畳半の間取りで、風呂はなかった。

銭湯好きの尚子であるので、「ナオちゃんは、風呂なしの方がいいわ」とほほ笑む。

4畳半の部屋には、ベッドがあり、東京からた尚子が送った衣類などが入った段ボール二つが窓際に積まれていた。

6畳の部屋にはデスクが用意されていた。

尚子はいずれ東京へ舞い戻るつもりで、青山の下宿はそっくりそのままにしていたのだ。

 

参考

太平洋戦争中の米軍による日本の都市に対する無差別爆撃によって、全国で多くの町屋が失われたが京町家とは、1950年(昭和25年)以前に京都市内に建てられた町屋を含む木造家屋である。

京都市は通常爆撃が限定され、江戸時代から明治初頭に江戸時代の技術で建築された町屋遺構が焼失せずに残った。

町家の立地する敷地は、間口が狭く奥行きが深いため、「うなぎの寝床」と呼ばれる。

ウナギの寝床と呼ばれる細長い造り、箱階段や虫籠窓など、伝統的な町家の雰囲気を感じられる。

高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵の父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。

開削から1920年(大正9年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。

現在は鴨川によって京都側と伏見側に分断されており、上流側を高瀬川(普通河川高瀬川)、下流側を東高瀬川(一級河川東高瀬川)、新高瀬川と呼ぶ。

京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺には花街・先斗町があり京都の盛り場の一つとなっており、桜の名所ともなっている。また、かつては多くの舟入、船回し(回転場所)があったが、今は一之舟入を残すのみである。

なお、運河はすでに廃止されており、廃止後は京都市が管理する河川となっている。

高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流(堤外水路)で、東一条付近で鴨川から取水)から取水する。二条から木屋町通沿いの西側を南下し、十条通の上流で一級河川鴨川に合流する。

かつて、京都と伏見を結ぶ運河であった頃は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、一部区間で竹田街道と並行、濠川と合流し伏見港を経て宇治川に合流していた。

現在、鴨川以南は東高瀬川と呼ばれ、上記高瀬川や鴨川とはつながっておらず、流域を持つ一級河川となっている。また、疏水放水路と合流して直接宇治川に流れ出ており、濠川とは合流していない(東高瀬川において、宇治川に直接つなげるために整備された部分を新高瀬川と呼ぶこともある)。

流域の自治体

京都市中京区、下京区、南区、伏見区
歴史
慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿(京の大仏)の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。その後慶長19年(1614年)ごろに、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が完成した。

水深は数十センチメートル程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。

二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之船入」を除き、すべて埋め立てられている。

七条には「内浜」(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(場所は現在の七条河原町を中心とした七条通の北側である)。内浜の設置は、慶安元年(1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更とともに行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。

川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた。

江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。現在、主に流域となっている中京区や下京区には材木町や塩屋町など当時の水運にちなむ町名が残されている(京都市中京区の町名・京都市下京区の町名も参照)。

明治時代に入り、1894年(明治27年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少。1920年(大正9年)6月に水運は廃止されることになった。

現在は、二条から五条にかけて並行する木屋町通に飲食店が多く立地する。木屋町通周辺、特に三条から四条あたりにかけては花街・先斗町があり京都の盛り場の一つとなっており、週末は夜遅くまで賑わっている。

また、幕末の事変を示す石碑が多く、桜の名所ともなり観光客も多い。

高瀬川と高瀬舟は、森鷗外、吉川英治をはじめ、小説の題材にもしばしば登場する。