浴衣姿のまま、二人は投宿した和風旅館で朝食を食べていた。
2階の窓の下は、高瀬川である。
「ナオちゃんは、時ちゃんには、東京で、本当にお世話になったわ」尚子はほほ笑む。
話題は、1974年、四谷三丁目の小さなビルで開校した日本ジャーナリスト専門学校に及ぶ。
取材力に限界を感じて、尚子は夜間の日本ジャーナリスト専門学校を受講する。
青地晨、鎌田慧、松浦総三、亀井淳など、錚々たる気骨な反権力リベラリストが講師だった。
私は、近くの喫茶店で何時も尚子を待っていたのだが、一度だけその教室の終了時に、覗きに行くと、尚子が講師の青地晨に質問していた。
残っていた受講者たちの一部も、尚子の質問と青地講師の応答に耳を傾けていた。
「取材の前には、十分な準備が必要です。君のように、<何でも話してください>では、ダメですね。わかりますか?」
私は、尚子の取材先に同行したことがあった。
「何でも話してください」と尚子は決まり文句で取材相手に切り出すのである。
それでは、取材相手は戸惑うばかりだ。
尚子には、肝心な取材の意図が明確ではなかったのだ。
旅館を出てから、二人は京都を散策する。
「こんな家にも住みたいな。ナオちゃん京都の町屋に下宿したくなったわ」尚子は町屋を見て歩く。
二人は、新幹線ではなく、京阪電車に乗り大阪へ向かった。
尚子は、次の日に道修町の大阪本社へ出勤する予定であり、先ずは本社が用意した十三のアパートへ行くことになる。
繁華の一角に、そのアパートはあった。
尚子の部屋は二階で、6畳と4畳半の間取りで、風呂はなかった。
銭湯好きの尚子であるので、「ナオちゃんは、風呂なしの方がいいわ」とほほ笑む。
4畳半の部屋には、ベッドがあり、東京からた尚子が送った衣類などが入った段ボール二つが窓際に積まれていた。
6畳の部屋にはデスクが用意されていた。
尚子はいずれ東京へ舞い戻るつもりで、青山の下宿はそっくりそのままにしていたのだ。
参考
太平洋戦争中の米軍による日本の都市に対する無差別爆撃によって、全国で多くの町屋が失われたが京町家とは、1950年(昭和25年)以前に京都市内に建てられた町屋を含む木造家屋である。
京都市は通常爆撃が限定され、江戸時代から明治初頭に江戸時代の技術で建築された町屋遺構が焼失せずに残った。
町家の立地する敷地は、間口が狭く奥行きが深いため、「うなぎの寝床」と呼ばれる。
ウナギの寝床と呼ばれる細長い造り、箱階段や虫籠窓など、伝統的な町家の雰囲気を感じられる。
高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵の父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。
開削から1920年(大正9年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。
現在は鴨川によって京都側と伏見側に分断されており、上流側を高瀬川(普通河川高瀬川)、下流側を東高瀬川(一級河川東高瀬川)、新高瀬川と呼ぶ。
京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺には花街・先斗町があり京都の盛り場の一つとなっており、桜の名所ともなっている。また、かつては多くの舟入、船回し(回転場所)があったが、今は一之舟入を残すのみである。
なお、運河はすでに廃止されており、廃止後は京都市が管理する河川となっている。
高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流(堤外水路)で、東一条付近で鴨川から取水)から取水する。二条から木屋町通沿いの西側を南下し、十条通の上流で一級河川鴨川に合流する。
かつて、京都と伏見を結ぶ運河であった頃は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、一部区間で竹田街道と並行、濠川と合流し伏見港を経て宇治川に合流していた。
現在、鴨川以南は東高瀬川と呼ばれ、上記高瀬川や鴨川とはつながっておらず、流域を持つ一級河川となっている。また、疏水放水路と合流して直接宇治川に流れ出ており、濠川とは合流していない(東高瀬川において、宇治川に直接つなげるために整備された部分を新高瀬川と呼ぶこともある)。
流域の自治体
京都市中京区、下京区、南区、伏見区
歴史
慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿(京の大仏)の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。その後慶長19年(1614年)ごろに、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が完成した。
水深は数十センチメートル程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。
二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之船入」を除き、すべて埋め立てられている。
七条には「内浜」(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(場所は現在の七条河原町を中心とした七条通の北側である)。内浜の設置は、慶安元年(1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更とともに行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。
川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた。
江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。現在、主に流域となっている中京区や下京区には材木町や塩屋町など当時の水運にちなむ町名が残されている(京都市中京区の町名・京都市下京区の町名も参照)。
明治時代に入り、1894年(明治27年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少。1920年(大正9年)6月に水運は廃止されることになった。
現在は、二条から五条にかけて並行する木屋町通に飲食店が多く立地する。木屋町通周辺、特に三条から四条あたりにかけては花街・先斗町があり京都の盛り場の一つとなっており、週末は夜遅くまで賑わっている。
また、幕末の事変を示す石碑が多く、桜の名所ともなり観光客も多い。
高瀬川と高瀬舟は、森鷗外、吉川英治をはじめ、小説の題材にもしばしば登場する。