宗教の優劣

2023年11月06日 20時09分24秒 | 沼田利根の言いたい放題

宗教は、少なからず人間に対して大きな影響をを及ぼしてきた。

だが、肝心なのは、その宗教の理念や哲学の優劣である。

釈迦の仏教の卓越性は、キリスト教などと違い、神や仏など、いわゆる信奉する対象を人間の外ではなく、人間の内部に求めきたことだ。

人間を神が創造したとする狂言には、呆れるばかりである。

つまり、動物の進化論の完全なる否定であり、あくまで進化論に対する歪曲なんのだ。

真の宗教は、あくまでも人間主義である。

宗教は人間のためであり、あくまで人間の幸福の実現ための宗教なのだ。

そして、つまり、坊さんや神父は、庶民よりはるかに数段上の立場ではなく、あくまで人間関係においては、庶民と平等の関係なのだ。

それは、生徒と教師の関係性と同じなのだ。

さらに、問題とすべきなのが、<人間を搾取の対象とする>宗教など、この現代の世界・社会に絶対に存在すべきではないと言いたい!


承認をめぐる病

2023年11月06日 12時53分12秒 | 社会・文化・政治・経済
 
承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)
 斎藤 環 (著)
 
人に認めてもらいたい気持ちに過度にこだわると、さまざまな病理が露呈する。現代のカルチャーや事件から精神科医が「承認をめぐ…
 
 
若者たちが承認を求める裏側にあるのは「実存の不安」、すなわち「自分hさ何ものか」「自分の人生に意味があるのか」といった不安ではないか」と指摘してる。
不安に打ち勝ち、より良い人生を歩むためには、確固たる哲学が求められている時代でもあるだろう。
 
<人と比べるのではなく>、<自分らしく輝いていく>ことなのだ。
「自分とは」「人生とは」に答える哲学。
 
現実生活で直面する悩みを乗り越えるために、双方向型で語り合いながら、希望を開いていくことだ。
真に価値ある生き方を如何にもとめるかである。
 
 
承認欲求社会は今後ますます広まっていくだろう
 
タイトルの通り前半部分は承認欲求の仕組みが細分化され詳しく書かれていた。
この本を読むと現代の社会の構造(特に学校)が承認欲求の点から理解することができる。
 
インスタグラムなどのSNSの登場により他者から認めてもらいたといった承認欲求が未だかつてないほど大きく膨れ上がってきており、今後も若い世代を中心にどんどん膨れ上がってくる方向に向かっていることは予想できる。
この本を読むと客観的に見ることができるため、自分自身承認欲求の罠に陥ることを回避するかだができる手助けをしてくれるだろう。
特に承認欲求に困っている若い世代の子達には読んでいただきたいです。
コミュニケーションについても触れられており、現代はコミュニケーション偏重主義であり、コミュニケーションが神聖化されている面があると思う。
筆者は日常生活においてコミュニケーションが必要以上に求められてしまっている面を指摘している。
コミュニケーションが得意な人はそれでいいが、コミュニケーションが苦手な人たちにとってはとても生きづらい社会になっているのがこの本ではわかりやすく書かれていた。
しかし、現代におけるコミュニケーション偏重主義を客観的に捉えることができると、無理に適応する必要はなく、所詮殆どの人はコミュニケーション偏重主義に支配されてるよねと割り切った考え方もできるので、コミュニケーションが楽になるといった考え方もできるのではないのでしょうか。
過剰な承認欲求とコミュニケーション偏重主義。この二つが若い世代を中心に社会を覆っていることがこの本では書かれていました。
後半部分では精神医学の点から専門的な話が繰り広げられているので、精神医学や鬱病に興味がある人にとってはとても興味のある話が繰り広げられていました。鬱病の内容も時代によって変化してきてるというのがわかりました。
 
 
表紙は漫画家のふみふみこさんによるものでとても可愛らしいイラストですよね。騙されて(?)購入されてしまう方も少なくないかもしれません。
 
さて、内容は著者が様々な媒体に記したエッセイ集です。
「承認をめぐる病」と題されていますが、別にそのテーマで一貫して連載や書き下ろしされたわけではなく、様々な属性のエッセイをまとめあえてテーマをつけるなら「承認をめぐる病」とされたようです。
 
確かに読んでいると漠然とそのテーマは根底に流れているのですが、それを抜きにしても結構おもしろい。
個人的にちょっとおもしろかったのは精神分裂病特有の顔貌や表情とされるプレコックス感という概念が紹介され、次頁にはとある統合失調症患者の女性の写真がとある古い書籍から引用されて掲載されています。(最近では患者の顔写真を載せるなんてあまり考えられないですが、40年近く前の書籍からの引用だから別にいいのか・・・)
著者いわく「比較的狂気の兆候が読み取りやすい事例」と書いてあるのですが、プレコックス感というのもいわば職人芸のようなものらしく(熟練の刑事の勘みたいなものでしょうか)もちろん精神医学の訓練を受けていない私には普通の女性にしか見えませんでした(笑)
 
精神医学・・・というものの一般向けに書かれたエッセイも多く割りと気軽に読めるかと思います。
エヴァンゲリオン、震災、秋葉原事件、就活、コミュニケーション・・・といった入りやすい題材のものも多いです。
 
 
「誰かがわたしを認めてくれなければ、わたしは、自分を愛せない」
 
著者の斎藤環(さいとう・たまき)さんは、
 
①(社会的)ひきこもり
②病跡学(『関係の化学としての文学』で2010年度の日本病跡学会賞を受賞)
③(ラカンの)精神分析(『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』で2013年に第11回角川財団学芸賞を受賞)
④思春期・青年期の精神病理学
 
が専門の精神科医でいらっしゃいます。
本レビュー執筆当時(2017/2/3)には母校・筑波大学の医学医療系社会精神保健学の教授でいらっしゃいます。
 
本書は最初に、日本評論社から2013年12月に単行本として刊行されたものが、2016年12月にちくま文庫として文庫化されたものです。
題名は「承認をめぐる病」となっていますが、「あとがき」には以下のようにありますので購入する際には多少注意されたほうがいいかもしれません。
 
「「はじめに」にも記したとおり、内容的にも私の問題意識としても「承認」のテーマが前面に出ているため、タイトルはこのようなものとなった。もっとも「承認」の問題は、前半の「思春期解剖学」に集中していて、後半の「精神医学へのささやかな抵抗」では、私なりの”反精神医学”が記されている」
 
どうして上記のような事態になったかというと、これも「あとがき」に以下のように書かれています。
 
「ここ数年間、連載や書き下ろし以外で依頼に応じて書いた、精神医学とその周辺の原稿がかなりの分量となり、それを一冊にまとめていただけることとなった」
 
つまり、本書は「承認をめぐる病」というテーマについての長編評論ではないのですね。17本の論文・評論・エッセイが収録されている本なのです。
 
本書はそのタイトルが効を奏し、ロングセラーとなり、どうやら若者によく読まれているらしいのです。「文庫版あとがき」に以下のようにあります。
 
「本書はーー僕の本にしてはーーちょっとしたロングセラーになった。若者、とりわけ大学生の間で読まれているようで、今もTwitterなどで引用や言及をときおり目にする。読書感想を記録するサイトを見てみると、僕の本の中では三番目くらいに感想が多い」
 
その「感想」については以下のとおりです。
 
「内容については賛否あって、「テーマが散漫でわかりにくい」という感想も多かったりするのだが、表紙の女の子についてはほとんどが絶賛である。どうやら本書については「可愛い表紙に難解な中身」という認識が定着しつつあるようだ」
 
ちなみに「可愛い表紙」を担当されているのは、「ふみふみこ」さんという方です。
 
さて、肝心の本書の内容ですが、著者が17本の文章の「全章解説」をご自身でなさっているので、それらをすべて以下に引用したいと思います。
まず最初に章の題名、それからその章の内容の要約です。
 
若者文化と思春期
コンテンツとコミュニケーションが渾然一体化したサブカル状況に言及しつつ、AKB48におけるキャラ消費、スクールカーストなどを解説。そこから突如「エヴァンゲリオン」論へ。「承認を巡る三つの病理」として、シンジ(ひきこもり)ーアスカ(境界性人格障害)ーレイ(自閉症スペクトラム障害)の”三つ組み”が指摘される。
 
終わりある物語と終わりなき承認
ミニコミ『BLACK PAST』への寄稿。こういう場所では俄然張り切ってしまう習い性ゆえ、実にノビノビと書いている。エヴァという作品の境界例性をまず解説し、ヘーゲル=ラカンにおける「承認のパラドックス」にベイトソンを接続して「承認のダブルバインド」を導き、そこから前章の”三つ組み”すなわち”キャラの三類型”がもたらされる構造を指摘。
 
若者の気分とうつ病をめぐって
マズローの欲求段階説は、ひきこもり支援現場でけっこう”使える”。就労動機=承認欲求なのだから、自発的に承認欲求が芽生えてくるような条件設定を工夫すればよいのだ。後半は若者における「キャラ」偏重が「変わらなさ」への確信をもたらすこと、そこからさらに「高い幸福度」と絶望的疎外感の二極分化につながる構図を指摘している。
 
「良い子」の挫折とひきこもり
いわゆる「手のかからない良い子」がなぜ問題か。それはあくまで”親にとっての”良い子だから。「良い子」であり続けることは、「理想」と「野心」を結びつけるスキルの発達を妨げる。それゆえ自己愛が適切に成熟してゆかない。重要なのは「家族病理」を乗り越えるための社会関係資本である、という結論。
 
サブカルチャー/ネットとのつきあい方
とりたてて新しいアイディアが提示されているわけではないが、メディア悪影響説やネットいじめ、ネット依存やフィルタリングといった諸問題のコンパクトな見取りにはなっているだろう。ネット依存対策についてはプロバイダ解約というペナルティをつけて時間制限するというシンプルな方法を紹介している。
 
子どもから親への家庭内暴力
雑誌『こころの科学』で「暴力」特集の責任編集を担当した際の文章。いかなる人でも暴力的になり得る条件(密室、二者関係、序列)をまず整理し、一九八一年に起きた悲惨な子殺し事件を取り上げて、子からの家庭内暴力にいかに対処すべきかを検討した。「暴力の徹底拒否」を前提として、「通報」や「避難」をタイミングよく行って見せることがポイント。
 
秋葉原事件ーー三年後の考察
 
基本的には中島岳志氏の著書に基づいた、秋葉原事件についての再考。
加藤もまた掲示板という承認のトポスを求め、「非モテの不細工キャラ」を居場所としていたのではなかったか。
動機の分析としては、家族関係の”欠如”と、掲示板に外在化された自分の言葉が”命令”として反転してくるメカニズムを指摘した。
 
震災と「嘘つき」
ジブリのPR誌『熱風』への寄稿。震災後に数々のデマや誹謗中傷、捏造記事を量産する学者や自称ジャーナリストへ向けた分析の形式を借りた批判。ついカッとなってやってしまったが特に後悔はしていない。私は性格が悪いので、ついこういう下世話なことをやってしまうが、良い子はマネしないように。
 
「精神媒介者」であるために
私なりの精神療法のコツ。ちょっとわかりにくいタイトルなのは編集者の意向。もともとは治療を媒介した後に消えてゆくような存在でありたい、という趣旨。神田橋條治氏の「究極の技法」の紹介や治療関係における「キャラの把握」や「現状維持」の効能、望ましい激励のあり方等。
 
Snap diagnosis 事始め
元同級生が責任編集をした皮膚科専門誌に請われて寄稿。Snap diagnosisとは一瞬で診断を下す名人芸のことで、皮膚科でも精神科でも重視される(た?)。私が新人当時に勤務していた浦和の精神科病院には、一目で患者の病理を看破する達人がいた。彼が一冊だけ遺した著作を紹介しつつ、廃れつつある名人芸の可能性をあれこれ模索した。
 
現代型うつ病は病気か
『「社会的うつ病」の治し方』(新潮選書、二◯一一)を書いて以来、うつ病関連の原稿や講演を依頼されることが増えた。ここでは現代型うつ病についてのごく一般的な解説と、「あれは病気ではないから診ない」という姿勢のはらむ問題を指摘した。次章への軽い導入部分という位置づけ。
 
すべてが「うつ」になるーー「操作主義」のボトルネック
統合失調症の減少は、その一部が感情障害圏にシフトしたためではないか。治療手段の増加が患者を増やすという逆説がまず指摘される。後半は柄谷行人『世界史の構造』に依拠しつつ、精神医療の歴史を交換様式の変遷として辿りなおし、病因論が適応度へと操作主義的に一元化することで「うつ」が増加する、という仮説を立てた。
 
悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒
キレることを「解離性憤怒」と仮定してその抑制法を述べ、社会関係資本からの孤立状況がこうした憤怒をもたらしやすいと考えた。後半、クレーマーやモンスターの病理的背景として、「完璧なシステム」と「不完全なエージェント」の「分裂」を指摘。ここに村上春樹の「壁と卵」の比喩を接続した。
 
「アイデンティティ」から「キャラ」へ
精神医学の専門誌で「キャラ」論が展開されたのはおそらく初めてだろう。解離症状を、「こころ」のヒステリー的身体化として理解するアイディアは結構気に入っている。全体の内容は拙著『キャラクター精神分析』(ちくま文庫、二◯一四年)のコンパクトなまとめとなっている。
 
ミメーシスと身体性
日本病跡学会のシンポジウム「ミメーシス」に招かれたさいの報告内容をまとめたもの。プラトンからアリストテレス、アドルノからフーコーに至るミメーシス解釈の変遷をざっと整理し、次いでラカンの欲望と身体に関する発言からミメーシスの重要性を再確認、後半は私の身体論の中核にある「ラメラスケイプ」なるアイディアの解説。
 
フランクルは誰にイエスと言ったのか
フランクルはどうにも苦手だったが、好き嫌いはよくないのでトライしてみたという企画。「フランクル=相田みつを」という指摘は意外にも好評だった。冗談はともかく、フランクルには他者からの承認に依存しない実存の形を探るためのヒントがあるのではないか。あの「人生からの問い」を、「超越性の導入による固有名の肯定」と読み替える試み。
 
早期介入プランへの控えめな懸念
オーストラリアにはじまり、日本でも試みが始まっている統合失調症の早期介入研究批判。いわゆる「ARMS」概念は、過剰な医療化やスティグマ化、薬物治療による副作用といったリスクを確実にもたらす半面、得られるベネフィットはきわめて不確実である。これはシステム化された精神医療が必然的にはらむ問題とも言える。
 
以上です。
 
本書は単行本版に、7ページ分の「文庫版あとがき」と、著者の同僚でいらっしゃる社会学者の土井隆義(どい・たかよし)さんによる9ページ分の「解説」を加えたものです。全体で338ページです。
このレビューで先に引用したように、本書は「テーマが散漫でわかりにくい」というきらいはあるかと思います。それはおそらく一章一章が10〜20ページと短いわりに詰めこまれている情報が多いためそれぞれの概念や用語の解説が不十分だからだと思われます。
そのためいつもの斎藤さんの著書と違って読むのに時間がかかりましたが、やはりおもしろいと思いました。
ぼくは(社会的)ひきこもり経験者ですが、最近の若者(ぼくは若者ではないかもしれませんが)にとって「就労動機=承認欲求」と言われると「そのとおり」と納得させられますし、ぼくの時代から学校では「コミュニケーション力偏重(コミュニケーション主義の一元化)」でしたし、「キャラ」による「スクールカースト」もあったので理解できます。
本書を読むにあたっては、「全章解説」にもあったように『キャラクター精神分析』(ちくま文庫、2014)と併読するといいかもしれません。
 
*本レビューのタイトルは帯の文章からの引用です。
**本書は著者の『博士の奇妙な思春期』(日本評論社、2003)と『博士の奇妙な成熟』(日本評論社、2010)の2冊の続編、という内容です。
***ぼくは精神医学等に関して門外漢なので本レビューに間違い等散見されるかもしれませんが、文責はぼくにあります。
 
 
 
現代人,三度のメシより「承認」を!
 
僕の身の回りに起こっている現象を代弁し解説してくれているようで,個人的には胸のすく,爽快な気分で読ませて頂きました.
(こんな感想を持つ人はそうそういないでしょうが 笑)
 
めちゃくちゃ簡潔にいうと,
不登校も新生うつ(現代型うつ)も境界性人格障害もいい子ちゃんも原因は「承認の失敗」にあるらしい.
 
●自分では自分のことを承認できず,他者から過剰に承認を求め,認められないことに過剰に過剰に反応する人中毒状態(境界性人格障害)
●過剰な承認の欲求は過度な同調性を生む.この過度な同調性が問題となり,自我を確立し,進歩するための足場を固めることが出来ない.(現代型うつ)
●条件付きの承認は達成感の不全を招き,絶えざる不安定さを招く.親はこうすれば認めてくれるのか?と親の期待と自分の期待が同一化して,本当の自分の欲求がわからなくなる.失敗した時責任の所在がわからなくて過剰に自分を攻める.(いい子)
 
上記の問題の共通点は「承認の失敗」です.
 
この承認の失敗は親子(特に母子)関係の中で形成されるもので,健全な自己愛を形成できないことを解説しています.そこに加えて学校のなかのスクールカースト(理不尽なレッテル,いじられキャラなど)が本当の自分を微妙に反映していない苦しさと,一応の存在承認の意味を持つ故の安心感を与える絶妙な構造が子どもたちの疲弊を産み,同一性の獲得に弊害をもたらしているとしています.
 
子育て世代のパパ・ママが読んでもいいでしょうし
やる気がなくなんとなくの理由で学校にこない不登校児を抱えてる先生にもオススメです,
 
他のレビュアーさんが言うように文体に著者の頭の良さが鼻につく部分がありますが,このキレキレ感が僕は好きだったりします.
特に自我の発達(鏡像段階)が「愛と攻撃性の誘発」に繋がる考察は鳥肌ものでしたよ.笑
 
読んでいて知的なスリルを味わえる面白さがあります.
 
 
 
人間についてしか語らない
 
半ば興味、対人の仕事を生業とする関係から半ば勉強のつもりで、本書を含めラカンやらオープンダイアローグやら、著者の本を何冊か続けて読んだ。以後も続けて読むつもり。
著者は別の本(『ひきこもり文化論』)で、周辺を語ることによる本質理解と、面白い話が苦手、という旨を書いている。本書でもエヴァンゲリオンなどサブカルや一見些末な「周辺的」社会現象を「面白く」語っているが、雑感記、エッセイのような、ただの読み物には終わらない社会分析、現代理解を常に意図している。話題は多岐に亘るが、人間理解についての考察の話しかしない。全く逸れない。著者の他の本も同様。
医師だから当たり前、ではないと思う。メディアではインテリ芸能人が、およそなんにでも一家言とばかり、あまりにも胡散臭い不誠実な感想ばかり垂れ流している。人を笑わせるのが仕事の芸人に世論形成を任せているのが今の日本という国である。
著者は話題は広いがそのような時流とは無縁の、人間理解の考察しか書かない。そういった意味で、著者専門の医学書ではないが、娯楽本でもなく、真面目な教養本である。
 
 
真面目で面白く、勉強になる。
 
表紙の読みやすさのイメージとは大分違って驚きました。元は別々の論文だったそうですが、章ごとに文体が違うのが気になります。内容は面白いです。
 
 
 

戦争論

2023年11月06日 11時59分03秒 | 社会・文化・政治・経済

戦争論

 

著:高原 到

ウクライナ戦争開始の1ヵ月半後、ヒトラーの独ソ戦を描いた小説『同志少女よ、敵を撃て』が本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなった。

我々は戦争を嫌悪しながら、『宇宙戦艦ヤマト』『風の谷のナウシカ』『進撃の巨人』『鬼滅の刃』などのマンガ・アニメから小説『永遠の0』まで、悲惨な戦争を享受している。

ナチスドイツ、原爆、プーチンの戦争、安倍元首相暗殺事件など現実の暴力・戦争を多様な文芸作品を通して分析し、読み解いていく。批評界の俊英が放つ、新時代の「戦争」論!

 

ウクライナの戦争が終わりの見えないなか、今度はイスラエルとハマスの戦闘が始まった。

無辜の民が巻き添えとなる凄惨な攻撃はエスカレートするばかりだ。

なぜこんな戦争がなくならないのか。

なぜ終わらせることができないのか。

誰しも疑問に思っているはずだ。

プーチンの始めた戦争の本質に「無限の復讐心」を見出す。

安倍元首相を暗殺した犯人の復讐心。

戦争の本質を論じながら、本書が炙り出したのは、復讐の忘却と引き換えに繁栄と安寧を贖った戦後日本のいびつさ、

醜悪さである。

我々は平和な国民だから復讐心がないのではない。

真の心を骨抜きにされた「半人間」だからだといのが著者の主張なのだ。

そのメタファーが「半国家」にまで拡張していく著者の筆の勢いに危うさを覚えつつも、本書の不穏なまでの熱さに撃たれた(文芸評論家 清水 、良典評論


映画「福田村事件」-関東大震災・知られざる悲劇

2023年11月06日 11時15分16秒 | 事件・事故
 
  • 福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇

辻野弥生 (著)

四国から千葉へやってきた行商人達が朝鮮人と疑いをかけられ、正義を掲げる自警団によって幼児、妊婦を含む9名が殺害された。
映画『福田村事件』(森達也監修)が依拠した史科書籍。長きに渡るタブー事件を掘り起こした名著。【森達也監督の特別寄稿付き】

「辻野さん、ぜひ調べてください。......地元の人間には書けないから」
その時から、歴史好きの平凡な主婦の挑戦が始まった。
「アンタ、何を言い出すんだ!」と怒鳴られつつ取材と調査を進め、2013年に旧著『福田村事件』を地方出版社から上梓したものの、版元の廃業で本は絶版に。
しかし数年後、ひとりの編集者が「復刊しませんか?」と声をかけてきた。
さらに数年後、とある監督が「映画にしたいのです」と申し入れてきた──。
福田村・田中村事件についてのまとまった唯一の書籍が関東大震災100年の今年2023年、増補改訂版として満を持して刊行!

【福田村・田中村事件】
関東大震災が発生した1923年( 大正12年)9月1日以後、各地で「 不逞鮮人」 狩りが横行するなか、 9月6日、 四国の香川県からやって来て千葉県の福田村に投宿していた15名の売薬行商人の一行が朝鮮人との疑いをかけられ、地元の福田村・田中村の自警団によって、ある者は鳶口で頭を割られ、ある者は手を縛られたまま利根川に放り投げられた。

虐殺された者9 名のうちには、 6歳 ・ 4歳 ・ 2 歳の幼児と妊婦も含まれていた。

犯行に及んだ者たちは法廷で自分たちの正義を滔々と語り、なかには出所後に自治体の長になった者まで出て、事件は地元のタブーと化した。そしてさらに、行商人一行が香川の被差別部落出身者たちだったことが、事件の真相解明をさらに難しくした。

福岡県生まれ。1981年より千葉県流山在住。流山市立博物館友の会会員。『東葛流山研究』企画編集委員。

1988年、地域の文化賞「北野道彦賞」受賞。2003年、子育て後の人生を楽しむ女性の会「あしたば」創設。2006年、吉目木ひなこ氏と『ずいひつ流星』創刊。 著書に本書の旧版『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(崙書房出版・ふるさと文庫)のほか『呉服屋のお康ちゃん奮戦一代記』が、共著に『日本ユニーク美術館・博物館』『江戸切絵図を歩く』『幕末維新 江戸東京史跡事典』ほかがある。

 

何が問題であるのか?

日本政府は、この事件を認めていないこだ。

つまり、政府は「負の歴史」から目を背けているのだ。

さらに、政治家たちもこの事件を語ろうとしないことだ。

「政府内に事実関係を把握することができる記録が見当たらない」松野博一・官房長官

「虐殺はなかった」とは言えないが「資料はない」という言い方で事実から逃げている。

人は、失敗や挫折、絶望などを経験し、それらを乗り越えることにとって成長する。

だが政府は、<国の威信>からだろうか、多くの事実に目を向けてこなかった。

冤罪事件もそれを如実に示しているのだ。

「この国は安倍晋三政権以降、マイナスの記憶から目を背けています」と監督の森 達也さんは指摘する。

「日本は負の歴史に向き合う映画が、ほとんどつくられていません」とも言う。

事件の特異性は加害側だけではなく、被害者側も沈黙しまったことだ。

差別される存在から被害者側は声を上げることができなかった。

つまりこの国の近代のゆがみ二つが重なった。

また、検察側は裁判で「彼ら(村人)に悪意がなかった。村を守るためにやった」という発言記録も残っている。

 

 過去の歴史を忘れるな
 
何となく、過去にそんなことがあったんだぐらいの意識しかなかった。本書を読んでいろいろな証拠もあることなど、事実として確認し、衝撃を受けました。タイトルにあるように決して忘れてはいけない史実です。多くの方に読んでほしいです
 
 
よくぞここまで調べられた
 
よくぞ、ここまで、調べられた。このように、埋もれてしまった歴史は、世界中のあちこちにあるに違いない。
 
現代の、この世に生きる我々は、もちろん、先祖がいる。これらの先祖は、どのようにして生き延びてきたのか。今では受け入れられないことが、当時は常識だった、ということもあるかもしれない。人は、そもそもが、残虐な存在。でも、人は進化し、変わってきている。
 
福田村事件
 
大切な問題提起です。
本の状態も良かったです。
 
 
集団の論理から距離をおいて
 
映画鑑賞後、すぐ本書を手に取った。映画の森達也監督は集団の狂気に関して深い洞察を持っており、本書の冒頭にある「朝鮮人だから殺してええんか」という映画の中のセリフが全てを表現している。当時、官憲自身が流言を流し、殺人を実行していたとは唖然とするしかない。本書では事件後の裁判も明らかになっているが、実行犯である福田村などの住民たちは裁判においても殺人の正当性を主張している。映画では、被害者の一団が日本人だと確認できたあと、実行犯を組織した自警団の長が「国のためと思ってやったのに・・・」というセリフと共に泣き崩れるシーンがある。しかし、冷静にみれば、それそも貴重な労働力であった異国民(当時は国籍は同じながら)を殺す理由が国のためになるわけがなく、単に流言に踊らされて、恐怖心にかられた集団の良からぬ想像力と、その場の雰囲気から、事実確認などおかまいなしに、殺してもいいという狂気で覆われていただけだ。異常な雰囲気を集団は知らず知らずに作り出し、残念ながらそれを集団内のヒトは自覚できない。スタンフォード監獄実験においても、ヒトが役割を演じているうちに、役そのものになってしまい、体罰がエスカレートしていくという結果がでている。人間とは集団の論理には一時的にしろ、同化しこそすれ、なかなか抵抗できないのであろう。現代でも、あれだけ人類全体に影響を与えたコロナ禍において、コロナ感染症に関して飛び交った虚構、根拠不明な意見を述べる専門家の責任、理由なき妄信でSNSで他人を誹謗した人々の存在、また、そもそもコロナ感染症とは何だったのか、などの検証は、ほぼなされずに時代は進行している。実際の被害者以外は、同調して時が過ぎていくのを待った方がいいのかもしれない。歴史に学ぶとすれば、集団が暴走する際には、現実に何をすべきかを考え行動できる「したたかさ」と「教養(幅広い見識)」を日常から準備しておくべきなのだろう。したたかさとは、真っ向から集団に反抗するとムダな時間と労力を使うので、同調したふりをしつつ適切な対応をできるようプランを立てておく姿勢であり、「教養」とは幅広い可能性の中から現象を分析できる素地である。ヒトの本質が進化論的に急に変わらないとしても、(本書でも紹介されているように)関東大震災時においても、冷静に判断して暴徒から住民を守った役人もいたのであるから、集団の論理から距離をおくべく、困難は覚悟したうえで、十分な準備を思考実験としてでも、日常から我々はしておくべきなのであろう。本書を先に、あるいは映画を先に、いずれでもよいが、機会が許せば、両者共にじっくりと内容をかみしめてほしい作品である。
 
真実はいくつかの真実のなかに成り立つということを知った。
 
ドキドキしながら真実探求の旅だった。それにしても文中、同じ文章に出合い、あれっと思うことがあった。
集団心理の怖さがわかる
 
集団による意識統一の強要により、どのように人が変わっていくのか。
今でも続く日本特有の村文化の闇が、ここに描かられてると思う。
 
事実
 
どんなに悲惨なことであっても、事実を知ることが大切。そして、自分だったら、と想像してみることも。誰もが加害者になり得る。
タイムリーな復刊だが、映画のほうはフィクションで脚色されている
 
関東大震災時の流言飛語による朝鮮人虐殺は多くの文献にあるほか、当時の警察や裁判所の公文書で確定されている。
にもかかわらず、小池東京都知事は大震災記念日に朝鮮人虐殺の追悼文を止め(石原慎太郎知事までは出していた)、松野官房長官は公文書で確認できないとしらばっくれる。
こういうご時世に、映画化と併せて本書が復刊されたのは実にタイムリーである。
 
ただし、映画のほうはかなり脚色されているようだ。
例えば、映画で重要なエピソードとして登場するハンセン病患者は原作にはまったく登場しない。福田村の被害者達がかつては地元の香川県でハンセン病患者に詐欺的な薬種売買をしていたというものだが、これでは被害者を故なく貶めるだけでなく、ハンセン病患者の差別的境遇を脚色として利用したことになる。ハンセン病患者の描き方も、世間一般の差別偏見を助長するひどいものである。
告発映画であればこそ、ノンフィクションに徹すべきではなかったか。フィクションが少しでも混ざれば虐殺の根幹事実さえ疑問とされかねない(歴史修正主義者の手法である)。
 
そうした意味からも、ノンフィクションで資料多数の原作が同時に復刊されたのは時宜を得たものだったといえる。
 

 

 


朝鮮通信使

2023年11月06日 11時10分31秒 | 社会・文化・政治・経済

朝鮮通信使
文化史17

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抵抗への参加―フェミニストのケアの倫理― 

2023年11月06日 10時21分39秒 | 社会・文化・政治・経済
抵抗への参加―フェミニストのケアの倫理―
 
キャロル・ギリガン (著), 小西 真理子 (翻訳), 田中 壮泰 (翻訳), 小田切 建太郎 (翻訳)
 
世界的なベストセラー『もうひとつの声で』に自ら応答した本、いよいよ日本で出版!
ケアの倫理は、フェミニストの倫理であると同時に人間の倫理である
ケアの倫理の金字塔『もうひとつの声で』の刊行から時を経て、ギリガンがたどりなおす抵抗の軌跡。
出版後に向けられたフェミニストからの批判への応答に加え、ギリガンの半生の語りと、そこから紡ぎだされるケアの倫理をめぐるアカデミックエッセイ
愛の要求も民主主義社会における市民権の要求も、同じひとつのものだということを教えてくれる少女たちと女たちの声をここに読む!
本邦初訳

目次

第1章 未来を見るために過去を振り返る―『もうひとつの声で』再考
第1節 正義対ケア論争の先にある議論に向けて
第2節 なぜケアの倫理は攻撃にさらされているのか―家父長制への通過儀礼
第3節 鍵としての少女と女の声―家父長制への抵抗

第2章 わたしたちはどこから来て、どこへ向かうのか
ある寓話
第1節 わたしたちはどこから来たのか
第2節 わたしたちはどこまで来たのか
第3節 わたしたちはどこへ向かうのか
第4節 なぜわたしたちは、いまもなおジェンダーを研究する必要があるのか?

第3章 自由連想と大審問官―ある精神分析のドラマ
第1幕 『ヒステリー研究』と女たちの知
第2幕 トラウマの隠蔽
第3幕 女たちの抵抗、男たちとの共闘
第4幕 大審門官の問いかけ―愛と自由を引き受けるために

第4章 抵抗を識別する
第1節 美術館で
第2節 もし女たちが…
第3節 抵抗
第4節 完璧な少女たちと反主流派たち
第5節 少女を教育する女/女を教育する少女
最終楽章

第5章 不正義への抵抗―フェミニストのケアの倫理
第1節 ケアという人間の倫理―少年たちの秘密
第2節 ケアの倫理が目覚めるとき―民主主義を解放するために
 
小西 真理子(こにし まりこ)
大阪大学大学院人文学研究科准教授。専門は臨床哲学、倫理学。著書に『共依存の倫理――必要とされることを渇望する人びと』(単著、晃洋書房、2017年)、『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(共編著、晃洋書房、2022年)、『歪な愛の倫理ーー〈第三者〉は暴力関係にどのように応じるべきか(仮題)』(単著、筑摩書房、2023年[近刊])など。

田中 壮泰(たなか もりやす)
立命館大学文学部授業担当講師、東海大学文化社会学部非常勤講師。専門はポーランド文学、イディッシュ文学、比較文学。主な論文に「イディッシュ語で書かれたウクライナ文学――ドヴィド・ベルゲルソンとポグロム以後の経験」(『スラヴ学論集』25号、2022年)など。著書に『異貌の同時代 : 人類・学・の外へ』(分担執筆、以文社、2017年)、共訳書にヤヌシュ・コルチャク『ゲットー日記』(みすず書房、2023年[近刊])など。

小田切 建太郎(おたぎり けんたろう)
熊本学園大学社会福祉学部准教授。専門は哲学・倫理学。著書にHorizont als Grenze: Zur Kritik der Phänomenalität des Seins beim frühen Heidegger(単著、Traugott Bautz, 2014)、『中動態・地平・竈ーーハイデガーの存在の思索をめぐる精神史的現象学』 (単著、法政大学出版局、2018年)、『ハイデガー事典』(分担執筆、昭和堂、2021年)、『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(分担執筆、晃洋書房、2022年)など。
 
自身の半生や研究について語りながらフェミニストとしての立場を明確にし、「ケアの倫理」を「人間の倫理」として描き出す。
 
著者は主著「もうひとつの声」で、個人の自立や権利を重視する「正義の倫理」に対し、人間関係の中で他者のニーズに応えようとする「ケアの倫理」の重要性を主張する。
男性中心主義の社会で聞き逃されてきた女性たちの声を拾い上げた本書は、さまざまな学問分野に影響を与えた。
「今回の本は根幹にあるフェミニストの視点がより明確になった」
真のケアの倫理学は<社会変革なしには存在しない>と書く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

フェミニストの始まりは19世紀

2023年11月06日 10時13分09秒 | 社会・文化・政治・経済

フェミニストは性別を問わない権利の尊重を掲げ、19世紀からアメリカ・イギリス・フランスといった国々で運動を始めました。

たとえばアメリカでは、1848年に女性の権利に関する運動が始まり、男性のみに認められていた参政権(政治に参加する権利)などの改善を求めています。ちなみにアメリカで女性の参政権が認められたのは、1920年になってからのことでした。

日本の場合も大正デモクラシーなど、近代国家へ向かう過程で女性の参政権を求める運動が起きています。初期のフェミニストの主張は、男性や特権階級のみに認められていた権利を取り戻すという意味合いが強い傾向です。

●19世紀頃:女性の人権や参政権に関する運動
●現代:男性らしさ・女性らしさに囚われない多様性を認め合う生き方の提案

・1950年代からアメリカでフェミニズムの機運が高まる

女性の参政権や人権などが認められたアメリカでは、1950年代から1970年代にかけて再び女性の権利に関する運動が活発に行われるようになります。19世紀の政治・人権運動とは違い、ここで掲げられたのは、性別によって決められた身なりや所作、社会や家庭での役割といった、より身近な事柄に関する問題提起でした。

1970年代まで続いたフェミニスト運動は、女性の社会進出を促した一方で、「働くこと=女性らしさ」を強調しすぎて、女性の家庭的な役割を認めない頑なな側面もありました。

・自分らしさを追求することも考えられるようになる1990年代から現代

1990年代に入ると、新たなフェミニストが現れます。それは多様性を認めるフェミニストです。それまでフェミニストと言えば、従来の女性らしさという固定観念に疑問を抱き、女性の社会進出を主張する社会の批判者でした。それが1990年代になって、アメリカを中心に、フェミニストが社会に翻弄されていた女性の地位向上だけでなく、性別・人種・価値観などの違いを認め合う社会を主張するようになったのです。

2020年現在、国内でも性別によって決められてきた役割、たとえば服装などに対する疑問を、SNSなどで発信しているケースも珍しくありません。また、海外のハリウッド俳優やアーティストなどもフェミニズムや男女平等について発言しています。これからもSNSを中心に、このような議論や問題提起がされていくでしょう。


創作 今は亡きナオちゃん 終わり

2023年11月06日 02時23分34秒 | 創作欄

私は尚子が結婚してから2年後に、藤間千絵と結婚し、下北沢のアパートに居を構えた。

「時ちゃん、元気なの?」尚子から勤務先ではなく、厚生省記者クラブに電話がかかってきた。

電話は、広報課からクラブに派遣されている近ちゃんの卓上に置かれていた。

「南さんはまた、私用の電話ね」椅子に座る近ちゃんは私を睨むような視線を向けていた。

「時ちゃん、ナオちゃんに娘が生まれたのよ。名前は主人の名前の一字を取って幸子。いずれ幸子を連れて会いに行くわ。待っててね」

「ハイ、そうですか」「ハイ、わかりました」私は聞き耳を立てるような近ちゃんの様子に言葉も詰まる。

千絵は結婚後も京橋の銀行に勤めていた。

私は結婚後に麻雀と競馬を覚えた。

それまでの私は尚子中心のような生活であり、遊び事とは一切無縁であった。

尚子との映画、都内近郊への散歩、旅行など、主導権は尚子が握っていたとも言えるだろう。

記者クラブ内では、囲碁、将棋、麻雀が行われていた。

特に麻雀は、レク(資料発表)、記者会見の合間の時間つぶしであり、5時を過ぎれば冷蔵庫からビールなどを取り出して飲む者もいた。

そして、ゼンセイと呼ばれた飲み会もクラブ内で行われ、近隣の寿司屋やピザ店から出前も運ばれて来たきたのだ。

厚生省の職員も懇親を兼ねてに飲み会姿を見せた。

私はその後、国会記者クラブにも派遣される。

尚子は2歳となって娘の幸子を連れて、私に会いに来た。

「結婚後はナオちゃん、亡くなったママのように、和服で過ごすわ」と尚子は言っていたが、それを実現させていた。

31歳になった尚子は、大人びて人妻らしい物腰となっていた。

愛らし幸子ちゃんはママと同じ髪型であった。

私の姿を見た途端、何故か幸子ちゃんは後退りし、ママの着物姿の後ろに身を隠すようにした。

「どうしたの?サッちゃん、この人はママの大切なお友達よ」尚子は幸子ちゃんを抱き上げた。

「時ちゃんどう?ナオちゃの着物姿」尚子の微笑みは、何故か沈んで見えた。

その後、乳がんという病魔に襲われて亡くなった尚子の予兆のようなものを私は直観で感じ取ったのかもしれない。

その日、過ごした帝国ホテルのラウンジ、幸子ちゃんを連れての日比谷公園の散歩が忘れられない。

私は尚子が入院していた新橋の慈恵医科大学付属病院へは、理不尽にも一度も見舞いに行かなかった。

「尚子さん、とても瘦せ衰えしまって、気の毒だったわ。あなたに、とても会いたがっていたの。どうしてあなたは、お見舞いに行かないの?どうしてなの?」尚子を見舞った妻の千絵が涙ぐみ、私を責めた。

<私の愛しの尚子の変わり果てた姿を見たくなかった>それが私の本音であった。

元気なままの「ナオちゃ」の微笑み、面影、そして全裸の肉体を永久(とわ)に私の脳裏に留め置きたかったのだ。