「真善美聖」と「美・利・善」の価値体系

2023年11月13日 11時47分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼<これからどう生きるか>と悩んだ時は、<これまでどう生きたか>を確かめることで道が見えてくるものだ。

今日まで歩んだ人生の軌跡は、未来へ一歩踏み出すそうとする自分の背中を押す力にもなる。

▼社会に巣立つ人に、「まずは10年間、辛抱しながら忍耐強く、基礎を築いていくことだ」と先輩が励まさす。

<これまでの自身の10年間>に悔いはない。

<これから>もそう生きる。

何があろうと「10年の歳月を磨く」生き方をするのである。

▼日本の学問は、外国の学者の研究に「注釈」をつけてきただけであり、自分で考えることをしてこなかった。

その意味で、精神的には自立していない―東京大学・中村元(はじめ)名誉教授

▼民衆に根ざして生きた人。

迫害にも抗した人、「ものすごい自信をもった人」が日本にもいるのだ。

▼哲学の新カント派は「真善美」あるいは「聖」を付け加えて、価値体系を立てた。

それに対して、日本の哲学者は異論をはさむ者はいなかった。

唯一、反撃をくらわしたのは牧口常三郎一人だけだった。

「真善美聖」という価値の領域から彼(牧口)は「真」と「聖」を除き、そのほかに「利」を設定した。

「美・利・善」の価値体系である。

「利」というと利益を連想されるけれども、しかしこれは、案外、東洋哲学の核心に迫るものだと思われる。

仏教でいちばん大事にするものは何だというと、結局、「人のために図る」「人のためになる」ということである。

利は「人のため」「民衆のため」「人類のため」に、「利」が説かれた本義である。


思想は、人々の心に生きてこそ意味がある

2023年11月13日 11時00分42秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼経済危機をもたらすのが人間ならば、その克服の道も、人間によって開かれる。

そして、一人一人が社会のテーマに真っ向から挑み、活路を開き、人々を勇気づける人生の指針が必要なのだ。

▼社会にあって信頼を勝ち得、職場で勝利の実証を打ち立ていくことが、そのまま人生の勝利へつながっていくのだ。

▼どんな仕事であれ、どんな立場であれ、自身の強い一念から智慧を出し、力を尽くして、世のため、人のため、誠実に価値を創造していくことだ。

それは、全て「心の財産」となる。

仕事を最大限の充実させていく原動力が、自身の一念であり、使命を果たす活動(行動)なのだ。

▼私は、真実を語るには、遠慮もせず恥じらいもしない―ソクラテス

▼ソクラテスは、プラトンならば、自分の思想を、哲学を人びとに伝え、自分の正義を証明してくれるであろうという確信があったはずだ。

▼「ソクラテスを語る」の驚嘆すべき特徴とは、だれにも「わかりやすい言葉」で、「わかりやすい事実」を通して、めざすべき「思想」「神々しい徳」を語ったことである。

▼思想は、人々の心に生きてこそ意味がある。

単ある難解さは自己満足にすぎない。

▼ソクラテスは、自分を知を誇るためでなく、「相手のために」対話した。

「わかりやすい」ということが慈悲の発露なのである。

▼民衆が強く、賢くなることだ。

そこにしか、人類の理想社会への道は開けない。

▼正しいからこそ勝たなければならない。

正義だからこそ、現実のうえで、断じて勝つて勝って勝ち抜くことだ。

 


人生の拠り所

2023年11月13日 10時35分52秒 | 社会・文化・政治・経済
  • たとえ、<最悪>と思うようなことがあったとしても、<ある経験>が、<意味のある>価値へと創造していけるためにも、「人生の拠り所」は必要です。
  • 自分の居場所となる心の拠り所が欲しい。
  • 不安なときやつらいときに、安心できる場所が欲しい。
  • 心の拠り所がない場合、どうすればいいのか。

人生の指針ともいうべき、「人生の拠り所」は困難に立ち向かう勇気や、智慧や忍耐力をもたらし<本源の力>です。

<幸福は自分自身が創造する以外にない。それこそが、<人生の拠り所>という信念に込めれているのです。

<全ての子どもっちが自分の幸福を自分の力で開いていける>それこそが、教育の目的でもあるのです。

ハッキリ言うと、心の拠り所は生きていく上でとても大切なものです。

精神的な疲れを癒してくれたり、不安なときに安心できる場所、心の支えのような場所がある人は人生を楽しく生きられます。

しかしその一方で、心の拠り所は作るのが難しいものでもあり、ハッキリと「これが自分の心の拠り所です」と言える人は多くないでしょう。

ではどうすれば、心の拠り所となる場所を持つことができるのか。

今回の記事では、なぜ心の拠り所が必要なのかを解説し、後半では心の拠り所の作り方を紹介していきます。

心の拠り所は人生というマラソンを走るための武器であり、心を守るための防具でもあります。

心の拠り所がない人、どうすれば心の拠り所を作れるのか知りたい人は、ぜひ最後まで読んでみてください。

 

人生には心の拠り所が必要

心の拠り所を持つというのは「自分の居場所を持つ」ということです。

人は自分の居場所があると思えば強くいられますが、居場所がないと思うと精神的に弱くなってしまいます。

心の拠り所は不安を抑え、精神的に安定するためにも必要なものなのです。

ここからはまず、人生には心の拠り所が必要な理由について解説していきます。

ポイントは、以下の3つです。

心の拠り所が必要な理由
  • 人は一人では生きていけない。
  • 心の拠り所がないと依存しがち。
  • 自己肯定感を得るためにも心の拠り所が必要。

それぞれ詳しく解説していきます。

人は一人では生きていけない

よく言われることですが、人は一人では決して生きていけません。

たとえどんなに一人が好きという人でも、完全に一人ぼっちの孤独になって生きられる人はほとんどいないはずです。

寂しいときや悲しいとき。何か仕事でミスをしたときや失恋したとき、友達に裏切られたときや人間不信になったとき。

そうしたつらくてどうしようもないときに、心の支えとなってくれるのは結局のところ他人なのです。

すべてとは言いませんが、心の拠り所となる場所の多くは、他人との関係性の中にあります。

家族だったり友達だったり、恋人だったり職場だったり、コミュニティなどの集まりなどだったり。

人は社会的な動物であり、他人とのつながりを求める生き物である以上、一人では生きていけません。

だからこそ、心の拠り所となる場所が必要なのです。

  • 心の拠り所の多くは、他人との関係性の中にある。
  • 人は社会的な動物である以上、一人では生きていけない。

心の拠り所があることで人は孤独感を消すことができ、自分の居場所を感じながら生きていけるのです。

心の拠り所がないと依存しがち

心の拠り所がない人はメンタルが弱くなりますが、その結果として何かに依存する人が多いです。

特に多いのがお酒やギャンブルといった娯楽依存、ほかにも恋愛依存症になる人も少なくありません。

心の拠り所がない人は不安が他人よりも大きく、その不安を解消するために何かに依存してしまう。

何かに過度に依存してしまうと、そこから抜け出すのは簡単ではありません。

依存症が良くないのは、他人がいないと人生を楽しく生きていけない点にあります。

ポイント

何か依存するものがないと不安でしょうがなく、不安を解消するために依存しているのにさらに不安になる。

ずっとこの繰り返しです。

依存症から抜け出すためには、心の拠り所を持つ必要があります。

心の拠り所と依存は別であり、前者には信頼がありますが、後者には歪んだ愛情しかありません。

自己肯定感を得るためにも心の拠り所が必要

心の拠り所がない人は、自己肯定感が低い傾向にあります。

心の拠り所は「自分の居場所」と言える場所のことですが、「自分の居場所がある」と感じている人は自分に自信を持っている人が多いです。

しかし、心の拠り所がない人は自分の居場所を実感できず、「自分には価値がない」「何のために生きているんだろう」と悲観的なことを考えてしまいます。

自己肯定感

自己肯定感とは、自分の価値や存在を自分で認められる感情のこと。

自己肯定感は人生を楽しく生きるためには不可欠なものであり、それは心の拠り所によって得られるものです。

不安などのネガティブな感情に押しつぶされてしまうのも、自己肯定感が低いことが原因だと言えるでしょう。

心の拠り所は自分の価値を実感し、自己肯定感を高めてくれるものなのです。

最近は芸能人などの自殺のニュースが多いですが、これも自己肯定感が低いことが原因だと考えられます。

度重なる誹謗中傷により、自分の価値を実感できなくなる。

たとえどれだけ有名であろうと、周りから尊敬や羨望を集めていても、自分で自分の価値を実感できなければ人は弱くなります。

たくさんの人に囲まれていても、本当に安心できる心の拠り所がないということもあり得るのです。

心の拠り所の作り方

ここまでは、人生に心の拠り所が必要な理由を解説してきました。

心の拠り所は自分を守るためにも役立ちます。

では、どうすれば心の拠り所は作ることができるのか。

ここからは、心の拠り所の作り方を紹介していきます。

その方法とは、以下の4つです。

心の拠り所の作り方
  • 身近な人間関係を大切にする。
  • 趣味を生きがいにする。
  • 自己肯定感が高くなることをする。
  • リラックスできるものたくさん持つ。

詳しく解説していきます。

 

身近な人間関係を大切にする

心の拠り所を作るためには、身近な人間関係を大切にするのがおすすめです。

たとえば家族や友達、恋人や職場の同僚など、自分の身近な人間関係を大事にすること。

実際、心の拠り所となる場所はすぐ近くにあるもので、わざわざ何かのコミュニティなどに属する必要はありません。

自分のことを認めてくれる少数の人たちとの関係を大事にしていれば、そこが自分の心の拠り所となっていきます。

ポイント

心の拠り所となる場所は、自分の身近な人間関係の中にある。

心の拠り所がないと言っている人の中には、「ない」のではなく「気づいていない」だけの人もたくさんいます。

家族などの身近な関係性になるほど、本当は大事にしないといけないのに素直になれない人も多いでしょう。

つまり、心の拠り所が作れるかどうかは、自分の行動次第でもあるのです。

家族や友達、そのほかの他人に対してぞんざいな態度を繰り返していれば、相手も同じ態度しか返さず、お互い居心地の悪い場所になります。

ですが、まずは自分から相手のことを大切に思い、行動で示していれば相手も心を開いてくれるものです。

心の拠り所は、そのようにして作られていくものなのです。

趣味を生きがいにする

「自分には大切に思う人間関係なんてない」という人も少なからずいるでしょう。

心の拠り所は他人との関係性の中に作られることが多いですが、人間関係が希薄でも心の拠り所を持つ方法はあります。

それは、趣味を生きがいにすることです。

自分の好きなことや得意なこと、やっていて楽しいと感じることを生きがいにすることで、それ自体が心の拠り所となっていきます。

ポイント

心の拠り所は人間関係の中ではなく、趣味などの好きなことの中にも作れる。

たとえば筋トレや楽器、料理や写真、小説や映画など、それをやっている瞬間が楽しくて充実感を感じること。

そうした生きがいとも言える趣味は、つらいときや苦しいとき、不安なときや寂しいときに自分の心の拠り所になってくれます。

悲しくても歌っているだけで元気になれる。

つらくても体を動かすだけで楽しくなってくる。

こうしたものが何か一つある人は、それを心の拠り所として生きていけます。

人間関係が苦手なのであれば、無理して他人との関係性の中に心の拠り所を作る必要はありません。

友達や恋人がいない、家族とも疎遠、職場にもうまく馴染めない、そんな人でも趣味を生きがいにすることで心の拠り所は作れるのです。

自己肯定感が高くなることをする

心の拠り所と自己肯定感は深く関連しています。

心の拠り所があることで自己肯定感が得られ、自己肯定感が高くなる場所が心の拠り所となります。

つまり、心の拠り所が欲しいのであれば、自己肯定感が高くなることをすればいいということです。

ポイント

「自己肯定感が得られる場所=心の拠り所=自分の居場所」

人によって自己肯定感が得られるものは違うので、何をすればいいのかは自分で考えなければなりません。

ですが、多くの人は「他人より少しうまくできること」をしているときに、自己肯定感を感じやすくなっています。

たとえば、

  • 料理を他人よりもうまく作れる。
  • 他人よりも歌が上手い。
  • 写真を撮るのが上手。
  • 文章を書くのがうまい。

といった、どんな小さなことでも問題ありません。

「他人よりも少しうまくできる」というのは自分の強みでもあり、それは自分の価値を感じる武器になります。

心の拠り所とは、自分の価値を実感できる場所のこと。それは自己肯定感が高くなる場所なのです。

心の拠り所がないと嘆いている人は、まずは自分が他人より少しうまくできることを見つけ、それを生きがいにしてみてください。

リラックスできるものをたくさん持つ

心の拠り所とは、いわばリラックスできる場所のことでもあります。

仕事や人間関係の疲れ、ストレスや不安といった感情を癒してくれる場所。

何がリラックスになるかは人それぞれ異なりますが、「心が癒される」と感じるものであれば何でもいいです。

リラックスできるもの
  • 散歩
  • 音楽
  • 映画
  • 読書
  • 写真
  • ヨガ
  • 筋トレ
  • アロマ
  • ゲーム
  • カラオケ…etc

ポイントは「他人がリラックスできるもの」ではなく「自分がリラックスできること」をすることです。

他人にとって意味のないことでも、自分にとってリラックスできるのであれば、それが自分にとっての心の拠り所となります。

実際、心の拠り所は自分のすぐそばにあるものです。

ポイント

大きな心の拠り所をひとつ持つよりも、小さな心の拠り所をたくさん持っているほうがいい。

リラックスできるものがたくさんある人は、ネガティブな感情に押しつぶされることもありません。

人間関係や趣味、自己肯定感が得られる場所がなかったとしても、心の底からリラックスできるものがあるだけで、心の拠り所はを持つことはできますよ。

【まとめ】心の拠り所がない人は、まずは安らぐ場所を見つけよう

今回の記事では、人生には心の拠り所が必要な理由から、心の拠り所の作り方を紹介してきました。

まとめは以下のとおりです。

今回の記事でわかったこと
  • 人は一人では生きていけないからこそ、心の拠り所が必要。
  • 心の拠り所がないと色々なものに依存しがちで、自己肯定感も得られない。
  • 身近な人間関係の中にこそ、心の拠り所となる場所がある。
  • 趣味を生きがいにしたり、自己肯定感が高くなることが心の拠り所にもなる。
  • リラックスできるものがたくさんある人は、心の拠り所もたくさん持てる。

人生は生きていればたくさんのつらいことや苦しいこと、悲しいことや不安なことが起こります。

そうしたときに自分の支えとなるもの、寂しさや不安を消してくれるものが心の拠り所です。

心の拠り所は家族や友達、恋人との間にしかないと思いがちですが、そんなことはありません。

心の拠り所は趣味でも何でもいいし、リラックスできる場所がことがあるだけで、それが心の拠り所となります。

心の拠り所がない人は、まずは自分にとって安らぐ場所を一つ見つけるのがおすすめです。

他人にとって価値がなくても、自分にとって価値があるものを何か一つ見つけ、それを心の拠り所として大事にしてみましょう。

 


映画 深夜カフェのピエール

2023年11月13日 08時17分26秒 | 社会・文化・政治・経済

11月13日午前6時からCSテレビのザ・シネマで観た。

深夜カフェのピエール』(J'embrasse pasI Don't Kiss)は、1991年に製作されたフランスの映画アンドレ・テシネ監督。

解説

山奥からパリに出てきた少年が昼のパリでの生活について行けず、次第に夜のパリで男娼になっていく過程、そしてその後を描くヒューマン・ドラマ。

監督は「バロッコ」、「ランデヴー」のアンドレ・テシネ。製作はモーリス・ベルナール、ジャック・エリック・ストラウス。

オリジナルの脚本はテシネ本人とジャック・ノロが共同で執筆。

撮影は「ニキータ」「赤と黒の接吻」のティエリー・アルボガスト。

音楽はフィリップ・サルドが担当している。出演は新人のマニュエル・ブラン、「美しき諍い女」のエマニュエル・ベアール。「危険な友情 マックス&ジェレミー」のフィリップ・ノワレ、「人生は長く静かな河」のエレーヌ・ヴァンサンなどのベテラン俳優が脇を固めている。

1991年製作/フランス・イタリア合作
原題:J'embrasse pas
配給:デラ・コーポレーション
劇場公開日:1994年6月4日

ストーリー

ピエール(マニュエル・ブラン)はピレネー山中に暮らす17才の少年。

パリに憧れていて、有り金をかき集めてパリに出てくる。

頼りにしていたのはリゾートで知り合い、戯れに遊びに来るように誘ってくれた年老いた母と2人暮らしの中年女性エヴァリーヌ(エレーヌ・ヴァンサン)だった。

深夜カフェのピエール

あらすじ:俳優を目指し、「ピレネーの山ん中」からパリに出てきたピエールは 、中年の女性エヴリーヌの世話で見つけた職場の友人に、著名人で同性愛者のロマンを紹介され、彼に「君を知りたい」と言われるが、同性愛になじめない彼は無下に拒絶する。エヴリーヌと関係を持つも長続きせず、部屋を飛び出し、職を失い、あげくに鞄を盗まれて一文無しになったピエールは、自暴自棄気味に街娼になろうとするが、「夜の森」に来ていたロマンと出くわし、彼と共にスペインに旅立つ。しかしすぐに一人でパリに戻 り、男娼として稼ぎ始める。しばらく後、ピエールは同じ「夜の森」で、以前に会ったことのある娼婦イングリッドと再会するが…。

 冒頭でピエールは、父親代わりのような役目をしているらしい羊飼いの男性を訪ねる。「今度は大丈夫か」と尋ねられているのを見ると、「家出」は今回が初めてではないようだ。それから羊が放牧されているシーンになる。もちろん、このシーンの背景にあるのは新約聖書の「羊」だろうが、要するにピエールは「羊飼い」の手から離れ、一匹の迷羊としてパリに向かう。そうして展開されるのは、田舎から都会へ出て行く青年のいわば〈感情教育〉の物語。唐突だが、なんとなく夏目漱石の『三四郎』を思い出した。三四郎も熊本から「文明開化」の中心地であった東京に出て来た「迷羊(ストレイシープ )」として描かれている。ピエールも三四郎も、自分の過剰な自意識をコントロールする方法をまだ知らない。

 キーワードになるような、気になるセリフがいくつもあった。その全てには触れられないので、引用だけしておく。「過去の忘却こそ若さの強み」。「俳優になるとは、肉体を芸術の媒介物にすることです」。『ハムレット』のセリフである「肉体につきまとう数々の苦しみ……」「こうして認識が臆病者にし、大胆な決意が色褪せてしまう」。 ニーチェの「いかに高貴な悦びでも、売春にまさる悦びはない」。「母親と同じ45歳くらい」に見える女性と性交渉を持つのは、「14から煙草を吸っても何も言わな」いような母親へのコンプレックスの表れに違いないが、そんなふうにまだ母性を求めている「子供」である彼は、彼にとって明らかな〈他者〉である同性愛者と夕食を共にすることで、彼自身はまだ気づいていないが初めて「世間」と接している。

 彼を「世間」への入り口に導いたのが同性愛者だった故か、彼はその後も同性愛の世界に関わることになる。そして、中年の女と別れ、職もわずかな全財産も失い、「世間など無視してやる」と言った時、つまり、体を売ることで「道徳家」でなくなり、独力でお金を稼ぐことを決意した時、ようやく自覚的に「世間」と対峙し始めるのだが、彼が後に、「男娼をしている時が最も自由だと感じる」と述べたのは、実はそれほど嘘ではなかっただろう。ロマンが言う「愛で救われるというのは迷信だ。何かを壊すしかない」。なせなら、ピエールは男娼を体験することで、嫌悪するもの、非親和なものに敢えて接近し、自意識を押し込めたという意味で、ある程度の「自由」は得たろうから。しかし、壊してはいない。彼が徹底的に壊されるのが、この映画のクライマックスであるあのシーンだろう。

 先ほど触れた『三四郎』にはこんな言葉がある。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」(中略)「日本より、頭の中のほうが広いでしょう」。

漱石は「世界のほうが広いでしょう」とは書かなかった。ピエールは「壊される」ことで、その「広い頭の中」を手に入れるための一歩を踏み出している。

だが、「のんびりくらすさ」と言う、本来はピエールとは正反対の存在であるはずの兄が属したのと同じ場所へと、彼は自分から向かってしまう。

そこは確かに、「壊す」にはもってこいの場所ではあるが、自立からは最も遠い場所でもある。これは、他者が構築した強烈な価値体系を身をもって知り、相対化することでしか、自己を差異化することなどあり得ないということだろうか。だがその効用は、性、金、恋愛、老い、暴力が渦巻く「世間(=海?)」へ と再び漕ぎ出せねば分からないはずだ。

本当の「飛翔」のチャンスはそれから訪れるのだろう 。

深夜カフェのピエール【HDリマスター版】

J’EMBRASSE PAS 1991年 / フランス ・ イタリア / 117分 / 青春 ・ ドラマ

[R15+相当]都会に憧れた俳優志望の青年はやがて夜のパリの街でさまよい、娼婦に恋をする…

初めは実際に訪ねて来たピエールに迷惑そうな顔を見せていた彼女だが次第に息子ほど年齢の違うナイーブなピエールと関係を持つようになり、のめりこんでいく。

しかしピエールはある朝彼女の家を出て、帰ってこなかった。ピエールは、男色家の文化人ロマン(フィリップ・ノワレ)と知り合い、次第に夜の倒錯した世界に魅かれていく。

目指していた役者修行もあきらめ、ピエールは、「キスはなし」を条件に夜の公園に立ち、客引きを始める。やがて美しいが陰のある娼婦イングリッド(エマニュエル・ベアール)に恋をする。

歌手になる夢が果たせなかった彼女は愛を交わしたピエールに歌って聞かせる。

しかしピエールはイングリッドのヒモに彼女の見ている目の前でヤキを入れられてしまう。

ピエールはパリを出て、兵役に就く。彼はいつか海が見たいと思うようになり、電車に乗り、旅立つ。

全文を読む(ネタバレを含む場合あり)

スタッフ・キャスト

  • マニュエル・ブラン

    Pierreマニュエル・ブラン

  • エマニュエル・ベアール

    Ingridエマニュエル・ベアール

  • フィリップ・ノワレ

    Romainフィリップ・ノワレ

  • エレーヌ・バンサン

    Evelyneエレーヌ・バンサン

全てのスタッフ・キャストを見る

キャスト

アンドレ・テシネの世界(日本語)


創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 9 )

2023年11月13日 03時45分42秒 | 創作欄

裁判にもなった性の被害者であった大津典子と加害者である夫の関係が思いもしない方向にまで発展したことを、妻の千絵が知ることなる。

「典子を妊娠させておいて、お前はどうするつもりなんだ?」私は正座していたが、典子の兄の隆志は胡坐姿で、私を睨みつける。

「責任を取ります」私は首を垂れて恐縮するばかりになる。

「どう、責任を取るんだよ!」

「妻と離婚してでも・・・」

「あなた、離婚なんて私、絶対に嫌よ」私と並んで座る千絵は私を睨みながら声を張り上げる。

「そうだろう。息子まで居て、本当にお前は離婚できるのか!」

「話になりませんね!この人はダメですね」典子の母の雅子が憮然とする。

「俺は、お前と違って、明日へもカメラマンとして戦場へ戻る人間だ。お前とは違って中途半端ではないんだよ。典子に2度と会うなよ、いいな。会ったらダダでは済まないぞ。いいな!話はこれだけだ」

典子の父親の真治は俯いて無言のままであった。

「典子にとってお前が初恋だそうだ。それで心までお前が典子を蹂躙したんだよ!許さん!」兄は突然立ち上がり、私をけり倒す寸前で、「真治、それだけはダメよ」と母親は立ちはだかり身で息子の行為を静止させる。

「話にならん。俺は帰るぞ」兄は肩を怒らせ玄関へ身を翻し一人アパートを出て行くのだ。

残った父母はしばし沈黙していた。

「奥さん驚いたでしょう。典子は大切な一人娘です。それが南さんのために我が家は混乱状態に陥りました」は母親は涙ぐむ。

父親がうつむいたままだった。

妻もうつむいたまま、膝上で両手首を握り絞め涙ぐんでいた。

人見知りをする息子は3畳の部屋に隠げて籠っていた。

「お父さん、黙ってないで、最後に何か言って」

「私は、これでいい」父親はちらりと私に視線を向けたままだった。

「では、これで和達、お暇します」

「本当にお詫びします」私は畳に頭をすり着けて謝罪した。

「南さん、本当に話になりませんね」母親は玄関で振り向き一言捨て台詞のように述べる。

「バカ、バカ、バカ」妻は絶叫しながら2度3度私の頬を平手打ちしたのだ。