利根輪太郎の競輪人間学 チャンスを逃すと運も逃げゆく

2023年11月04日 21時36分37秒 | 未来予測研究会の掲示板

チャンスを逃すと運も逃げていくものだ。

GⅢ 玉野競輪 周防国府杯争奪戦

9レース

7-5-2 8-1-6 3-9-4

レース評

近歴とスピードで優る伊藤の突っ走り。阪本−山口で続き九州本線。初日の実戦光る簗田−萩原や、磯島次第で宿口の浮上も注

1番人気 7-5 (3・0倍) 7-3(7・3倍

7-5と7-3の3連単で勝負した。

5-7を押さえるべきであったのに、それを実行しない。

そして、11レースも車券が外れるのだ。

 

結果 5-7 1,090円(3番人気) 5-7-1 6,190円(17番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 阪本 和也   11.8   伊藤颯交し
2 7 伊藤 颯馬 3/4車輪 11.9 B 強引捲返し
3 1 宿口 潤平 1/2車輪 11.7     磯島乗切替
  4 2 山口 貴弘 3/4車身 11.9   S 3番手絡み
  5 6 江連 和洋 3/4車輪 11.7     宿口追捌き
× 6 3 簗田 一輝 1/8車輪 11.5     内突阻まれ
7 9 萩原 孝之 2車身 11.9     切替捲れず
  8 4 東 龍之介 1/2車身 11.8     萩原に続き
9 8 磯島 成介 大差 13.2     鐘前逃捲れ

 

11レース

並び予想 6-5-2 1-9-4 7-3-8

レース評

松浦は腕の見せ所。山下を連れ総力戦で激戦突破だが、力本位なら新山−永沢、更に上杉を得た高久保−村上の二段駆けも怖い

7-3と7-1 1-7と1-9の3連単で勝負する。

1番人気 7-3(4・7倍) 2番人気 7-1(6・6倍)

だが、7-3-8ラインと1-9-4ラインが互いをけん制し合い。

捲くり不発になる。

第三の6-5-2ラインが有利に先行する。

結果 5-2 1,670円(6番人気) 5-2-1 4,130円(10番人気)

天候 曇/風速 0.4m




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 高久保 雄介   11.6 B 2角番手捲
2 2 村上 博幸 1/8車輪 11.4 S 高久保迫り
3 1 松浦 悠士 1車身 11.4     中団続き踏
4 9 山下 一輝 1車輪 11.3     松浦マーク
5 3 永澤 剛 1/2車輪 11.4     新山追切替
  6 4 石丸 寛之 1車身1/2 11.4     中団ライン
× 7 7 新山 響平 3車身 11.9     HS捲れず
  8 8 飯田 辰哉 3/4車輪 11.5     北勢に離れ
  9 6 上杉 嘉槻 大差 13.6     突張り先行

レースダイジェスト映像

 
 

戦い終わって

戦い終わって写真

 上杉嘉槻が前受けで徐々にペースアップし、先行態勢へ。終始一本棒でレースが進み、バックで番手から高久保雄介が出る。後方から新山響平も捲り上げるも、近畿勢の後ろにいた松浦悠士が牽制し不発。そのまま高久保が押し切って、村上博之、松浦の順で入線。

 3連勝と上出来の高久保は「G3で3連勝は初めて、素直に嬉しい。博幸さんが前を取ってくれたのが大きい。上杉はずっとカカっていて追い付くのにキツかった。何とか振り絞って、番手から出させてもらった。初日に連係したけど、今日の気迫は違ったし本当に良いレースをしてくれました」。

 高久保マークの村上は「気合を入れてスタートを取りに行った。上杉君は6番車で挑戦者の立場。今の競輪で新山に前受けされると厳しいので。ただ、カカリがすごかったっです。高久保は自力があるし、僕がどれだけ脚を溜められるかだった。松浦が内にいたのは見えていたし、早めに持っていくよりかは軽く車間を切って、直線だけで詰め寄れたし、抜かれていないので悪くないですね」。

 3着の松浦は「上杉君、新山君どちらが前でも中団からと。近畿が前だと良いなって感じでした。かなり良いダッシュで、そのまま行くかと思ったら緩めて、もう一度加速して行ったのでキツかった。本当はホームぐらいで行きたかったけど、カカリすぎて余裕がなかったです。自分も納得いかないし、後ろにも迷惑をかけて内容ゼロのレース。気合や気持ちのわりには思うようなレースができず、悔しい」。

 


良書を読むことが人生の骨格をつくる

2023年11月04日 21時03分55秒 | その気になる言葉

▼「励ます」とは、「自信を持たせることだ」

そのためには、励ます側の根気が必要だ。

「励まし続ける」こと、「周りがあみらめないことだ」

▼人間は、悩みのなかで成長し、本当の幸せを開いてゆける。

だからこそ、困難に負けない自分自身を創ろう。

▼一人一人の個性を活かして、力を合わせていく時、どれほど素晴らしい未来が開けていくか―と励ましを送るのだ。

▼最も高邁な人とは最も謙虚な人だ―デカルト

▼新たな事への挑戦で脳全体が活性化。

前進をやめない人は心身ともに若い。

▼本は、読者との出あいを持ってくれている―作家・石川よしみさんの言葉。

「本がある環境」が大切だ。

▼良書を読むことが人生の骨格をつくる。

 


映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』

2023年11月04日 20時02分56秒 | 社会・文化・政治・経済

基本情報

映画の名シーンも登場 小説「キャロル」の誕生秘話を紐解く『パトリシア・ハイスミスに恋して』本編映像

『太陽がいっぱい』『キャロル』『アメリカの友人』を生んだ名作家に迫る『パトリシア・ハイスミスに恋して』より本編映像が解禁された。

映画 洋画ニュース

『パトリシア・ハイスミスに恋して』© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© CourtesyFamilyArchives
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© RolfTietgens_CourtesyKeithDeLellis
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© EllenRifkinHill_CourtesySwissSocialArchives
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© CourtesySwissLiteraryArchives
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film
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  • 『パトリシア・ハイスミスに恋して』© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film
解説・あらすじ

映画化もされた「キャロル」「太陽がいっぱい」などで知られる作家、パトリシア・ハイスミスの知られざる素顔に迫るドキュメンタリー。

彼女の死後に発表された日記を基に、元恋人たちや親族による証言などを織り交ぜ、謎多き人生をひもとく。

監督・脚本をドキュメンタリーなどに携わってきたエヴァ・ヴィティヤ、ナレーションを『ダーケスト・マインド』などのグウェンドリン・クリスティーが担当。

インタビューには作家のマリジェーン・ミーカー、俳優のタベア・ブルーメンシャインらが登場する。

「見知らぬ乗客」「太陽がいっぱい」など数々の著書が映画化されているアメリカ生まれの作家、パトリシア・ハイスミス。中でも別名義で発表した「キャロル」は同性愛者でもある彼女の自伝的小説で、作家として脚光を浴びるようになりながらも、パトリシア自身は女性たちとの恋愛を家族や世間に隠し続けていた。彼女の死後に発表された日記を基に、本人へのインタビュー、元恋人たちや親族の証言などを通じ、人気作家の知られざる素顔に迫っていく。


堂々と老いる

2023年11月04日 20時02分56秒 | 社会・文化・政治・経済
 
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  • 堂々と老いる

田原 総一朗 (著)

滑舌(かつぜつ)は悪くなったし、物忘れも激しくなった。
だけど悔しくない。

87歳の現役ジャーナリストが満を持して贈る激烈エッセイ。



著者は、深夜討論番組「朝まで生テレビ! 」の司会者としてすっかりお馴染みの顔だ。直撃、追求、たたみかけ――87歳の現在もアグレッシブに、まさに命を賭けてナマ討論に挑み続けている。 その著者が、初めて「老い」について真っ向から取り組んだのが本書だ。

「これまでずっと、好きなことをやるぞと思って生きてきた」と振り返る。「好奇心が強いから、次から次へとやりたいことが湧いてくる。会ってみたいと思ったらすぐ会う」と語る。

一方、老年期を迎えた男性たちはどうだろうか。「100歳まで生きなきゃならないという戸惑いがある。死ぬ前の老後の生き方がわからない人が多い。男は、趣味のゴルフも麻雀も酒を飲むのも全部、サラリーマンとして会社の付き合いでしていたことで、定年になると孤独になる。どう生きればいいかわからなくなる。ここで男たちは下手すると鬱になるし、場合によっては自殺するなんてこともある」と分析する。

新型コロナウイルスの世界的流行によって生活様式が大きく変化した今、高齢者の働き方、生き方にもいっそう関心が集まっている。「変化の時代」が確実に到来したと著者は断言する。 「従来の人生設計を書き換えて、自ら行動し、面白がって生きる未来だ。やりたいことが今はまだわからない人も大丈夫。とにかく世の中を面白がることから始めよう」

「老い」に対する心構えに始まり、健康維持のための日課、社会とのつながり方、家族との付き合い方など、自身の体験や同年代の友人の意見なども交えながら具体的に紹介。稀代のジャーナリストが人生を謳歌する秘訣を伝授する。

【目次】
第1章 「老い」は悪いことばかりじゃない
長生きはできないと思っていた/フリーランスになった途端、謎の症状に襲われる/還暦を迎え、鬱状態に陥った/大病をして初めて考えた「生きる意味」/面白ければ疲れなど感じない/滑舌の悪さをプラスにとらえる/物忘れは脳を鍛えるチャンス/補聴器をつけたら怒らなくなった/老いは未知への冒険 ほか


第2章 よく寝て食べて健やかに老いる
高齢者ほど歯が大事/すべてを任せられる主治医の見つけ方/「一病息災」が健康を守る/人間ドックは年に1度のメンテナンス/30年以上のルーティンを守り、朝食は自分でつくる/疲れた脳は甘いもので回復させる/一日大さじ1杯のオリーブオイル健康法/どんなに疲れていても必ず湯船につかる ほか


第3章 年をとっても、脳は使えば使うほど活性化する
孤独を味方につければ何でもできる/人と向き合う趣味が脳を活性化する/聞く姿勢がコミュニケーションのカギ/嫌われ老人にならないために/若者への提言も高齢者の役目である/高校の同窓会で元気をもらう/恋愛に年齢制限はない/おしゃれを忘れてはいけない/大人になってからの勉強はがぜん面白くなる/60歳以上の9割が「定年後も働きたい」 ほか


第4章 いくつになっても生きがいは見つけられる
オンラインが高齢者の可能性を広げる/面白そうな誘いは断らない/できないことがあっても気にしない/ボランティアに参加し地域と関わる/新聞は大人の知的好奇心を刺激する/社会をよくするために政治に関心を持つ/読書は興味の幅を広げ想像力を培う/佐藤優さんに聞く「真の教養」を身につける方法/歴史を学ぶ意義 ほか


第5章 家族とのほどよい関係の保ち方
妻の乳がん発覚、夫婦で治療法を模索した/長い不倫、激しい自責の念に襲われる/妻の介護は濃密でかけがえのない時間/最愛の妻の死後、抜け殻のようになった/独り身のつらさを乗り越えるための対処法/家族の言うことには素直に耳を傾ける/終活には興味がない/もしもに備えて資産情報や知人の連絡先を家族に伝えておく/死ぬ間際まで、楽しく生きたい ほか

「日中戦争がはじまったのは僕が3歳のときで、小学校1年生の12月に太平洋戦争が勃発した」

世の父親たちが次々と兵隊に召集された時代。

戦地へ出征した人たちが遺骨になり帰ってくる。

田原少年は強く思った。

教師は、この戦争は侵略国を打ち破る聖戦だから「君たちも早く大人になって戦争参加して名誉の戦死をしろ」と教えた。

戦争を知る最後の世代として田原さんは学んだ。

「戦争が正しいか正しくないかという議論は成たたない。なぜなら戦争はすべて悪だからだ」

人間は決して道具ではない。

人間の命を犠牲にする行為は、理由を問わず絶対悪である。

田原 総一朗(たはら・そういちろう)
1934(昭和9)年、滋賀県生まれ。1960年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。1963年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局の準備段階から入社。1977年、フリーに。テレビ朝日系「朝まで生テレビ! 」「サンデープロジェクト」でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授と「大隈塾」塾頭を務めた(2017年3月まで)。「朝まで生テレビ! 」(テレビ朝日系)、「激論! クロスファイア」(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。著書に『創価学会』『脱属国論』(井上達夫氏、伊勢﨑賢治氏との共著)『公明党に問う この国のゆくえ』(山口那津男氏との共著)(いずれも毎日新聞出版)、『戦後日本政治の総括』(岩波書店)、『日本人と天皇 昭和天皇までの二千年を追う』(中央公論新社)、『日本の戦争』(小学館)ほか多数。

 

 

オーディブルで耳読。
最後まで聞くほどではなかった。

酒、煙草は昔からやらないようだ。
最近自分の活舌が悪いことは認識しているようだ。

山下洋輔の早稲田でのライブでマイクを渡されていたが、山下洋輔は何言っているか分からないと言っていた。
 
読んでいて、具体性があり、自分のことのようだった。
 
 
 
 
誰にでも来る逃げられない老いを受け入れて、エネルギッシュで楽天的に好奇心のままに生きていいんだ、と気が楽になった。
 

Re:Hackの田原さんの回からここにきました。政治に詳しくもないし興味もなかったけど今の日本の高齢化と政策の一旦を垣間見る様な感じで少し興味が湧きました。
ありがとうございます。

第一次中東戦争

2023年11月04日 06時43分00秒 | 社会・文化・政治・経済

第一次中東戦争(ヘブライ語: מלחמת העצמאות‎、アラビア語: حرب 1948‎)は、第二次世界大戦終結直後の1948年に新たに独立を宣言したユダヤ教国家イスラエルとその建国やシオニズム思想に反対するアラブ世界の国々の間で勃発した戦争である[1]。

パレスチナ戦争ともいう。

イスラエル側の呼称は「独立戦争」(ヘブライ語:מלחמת העצמאות)で、アラブ側からは大災害を意味する「ナクバ」とも呼ばれる。この戦争では当初はイスラエルに攻め込んだアラブ諸国側が有利であったが、後にイスラエルが反撃し逆転[1]。

この戦争はイスラエルの事実上の勝利に終わり、国際連合(国連)の仲介による停戦後も独立国としての地位を固め、更には当初の国連による分割決議より広大な地域を占領する事となった[1]。また戦後はイスラエルがパレスチナ地域を占領した事により、70万人以上のパレスチナ人が難民となるなど後世に課題も残した[3]。

背景
詳細は「パレスチナ問題」および「イギリス委任統治領パレスチナ」を参照
シオニズム運動とは国を持たないユダヤ人の間で広がった「シオンへの帰還」「ユダヤ人国家の建国」というイデオロギーで1900年前後に強まった。オスマン帝国下のパレスチナへ移民する者や、1907年には軍事組織ハガナーの前身バル・ギオラも誕生している。

第一次世界大戦後、ユダヤ人の協力を得たかったイギリスが表明していた1917年のバルフォア宣言に基づきイギリス委任統治領パレスチナにはユダヤ人入植者が増加した。イギリスの認識としてはパレスチナを除いたアラブ人の独立を約束したフサイン=マクマホン協定とは矛盾せず、パレスチナにはユダヤ人の”郷土”の建設の余地はあるとの認識だった。しかし次第にユダヤ人入植とそれに伴うシオニズムはアラブ系のパレスチナ人との軋轢に繋がっていき、パレスチナ人が入植してきたユダヤ人を襲撃する嘆きの壁事件やアラブ人の反乱などの暴力事件が発生した。

アラブ人の反乱の発生を受け1937年には15%程度の面積のユダヤ人国家と分割す案がイギリスピール委員会から提示されたもののアラブ人側が拒絶。1939年には、これ以上の衝突を避けるために「バルフォア宣言は履行が完了したもの」としてユダヤ人移民を以降制限し10年以内にアラブ人のとユダヤ人の混合国家(パレスチナとしての独立)を求めたが、これにはシオニストが反発することになった。第二次世界大戦後にはユダヤ人国家建国に否定的で移民制限を続けるイギリスに対してユダヤ人入植者のうちに武力闘争に身を投じる者も現れた。

国連決議
「パレスチナ分割決議」も参照

UNSCOP(1947年9月3日)と国連臨時委員会(1947年11月25日) による分割案。図のオレンジ色(アラブ人地域)と青色(ユダヤ人地域)、エルサレム(白色)の部分で分割案が採択された。
1945年後半より、パレスチナにおいてユダヤ人組織のレヒやイルグン・ツヴァイ・レウミ、パルマッハによる武力闘争が活発化する。イギリスは陸軍部隊を派遣し、治安維持活動を行うもののなかなか成果は上がらなかった。そこで1946年6月29日にユダヤ人組織の一斉拘禁を行い、3,000名以上を逮捕した。しかしユダヤ人組織イルグンがこれに反撃し、7月22日にイギリス軍司令部があるエルサレムのキング・デービッド・ホテルを爆破する(キング・デービッド・ホテル爆破事件)。これにより司令部要員多数が死亡した。

委任統治当初から続くユダヤ人のシオニズム運動と、シオニズムを強く嫌うアラブ系パレスチナ人という板挟みになったイギリスはいくつかの解決案を構想したものの上手くいかなかった。また戦後、ホロコーストで同情を集めていたユダヤ人のパレスチナへの移民要求があったものの管理できるような状況ではなかった。

このためパレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、1947年2月18日にパレスチナ統治問題を国際連合に依頼すると発表した。国連での討議においてアメリカ合衆国とソビエト連邦がアラブ人とユダヤ人の分割統治を推したため、11月29日に国連決議181号としてパレスチナ分割決議が決議された。

これはパレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に三分割するものであった。当時のパレスチナ地域には既にユダヤ人が相当数おり国連は地域ごとの人口比や土地の利用など様々な考慮を行い配分した。しかし結果的には193万人の人口のうち1/3のユダヤ人に56%の土地を与えるという、面積的にみれば不公平な形となった。補足として1945年3月31日時点でのユダヤ人の占有地は6%であり、イギリスの管理地を双方に分け与えた形になったが、このユダヤ人の建国を認める決議にアラブ連盟国およびアラブ人は一斉に反発した。

採択の翌日より、パレスチナは事実上内戦状態となった。決議に反発したアラブ人による襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も応戦を余儀なくされた。イギリス軍はもはや治安維持能力が無く、内戦状態は放置された。

1947年11月29日のこの分割決議の直後12月4日にはイギリス閣僚会議で1948年5月14日真夜中をもって委任統治を終了し撤退することが決まった。国連は分割をスムーズに行うためその間のパレスチナの管理を国連と共有するよう要求したが、イギリスは拒否した。

パレスチナ内戦への突入とアラブ連盟の戦争準備
「パレスチナ内戦(英語版)」も参照
この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーやアブドゥル=カーディル・アル=フサイニー(英語版)などが率いるアラブ救世軍(英語版)が結成され、ファウズィー・アル=カウクジ(英語版)率いるアラブ解放軍(英語版)も結成された。また、結成間もないアラブ連盟の初代事務総長に就任したアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム(英語版)はユダヤ系の商店やシナゴーグの破壊などの反ユダヤ主義行為を非難する人物で知られたが[4]、この状況について『個人的にこれは排除の戦争となってモンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う、ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』と懸念を示し[5]、あくまで自治権を視野に入れた一国家でのアラブ人とユダヤ人の平和的な共存を求めた[6]。

ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。中でもイギリス軍から盗み出したM4中戦車およびクロムウェル巡航戦車計6輌は砂漠での戦闘を制するための貴重な機甲戦力となった。

1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件やハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。

1948年5月15日の正式な戦争以前からすでにパレスチナは周囲のアラブ連盟の介入を招いており、パレスチナ内戦状態は5月15日を跨いでそのまま戦争へ突入した。またアラブ連盟各国は5月15日の侵攻に合わせて国境に兵士を配備するなど戦争準備を始めていった。

戦争推移
「第一次中東戦争の作戦と戦いの一覧」も参照
戦争の勃発
イギリス軍がパレスチナから撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そして、この日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し戦争を宣言した(後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣)。アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。

開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。アラブ側の主力は、アラブ軍団(英語版)と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーがチェコスロバキアから密輸(バラク作戦(英語版))されていた小銃などで応戦していた。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。

しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給を巡り、ラトルン(英語版)の要塞(英語版)などで激戦が行われた。結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路『ビルマ・ロード』(英語版)を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。

第一次休戦
ここで国連が停戦を呼びかける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となった。

この休戦期間中にイスラエル側は部隊の再編成を行った。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていなかった。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとした。しかし、これにイルグンが反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」を巡り6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となった(アルタレナ号事件(英語版))。イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは自軍の指揮系統の一本化に成功した。次いでチェコスロバキアからアヴィア S-199(第二次世界大戦後にチェコスロバキアで製造されたメッサーシュミットBf109)戦闘機を中心とした武器が到着し、さらにM4中戦車もスクラップの名目で世界中から大量に入手・再生し、反攻の準備を整えていった。

一方のアラブ側もアラブ連盟がヨルダンのアブドゥッラー1世に全アラブ軍最高司令官の地位を与えるもヨルダンの影響力を恐れた各国の思惑から指揮系統の統一は成功しなかった[7]。

第二次休戦・戦闘再開
停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開された。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日より第二次休戦が行われた。しかし、この停戦はすぐに小競り合いをきっかけに消滅し、全面的な戦闘が再開された。第一次停戦期間中に再編成を行い軍備を強化したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していった。特に中古の戦闘機によって制空権が確保されたが、パイロットは第二次世界大戦でアメリカ軍やイギリス軍の軍人として戦った経験を生かした。

その一方で、9月17日にスウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もあった。

1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻したが、ここでエジプトを影響圏としていたイギリスの警告を受けてそこより撤退した。

停戦協定

1949年停戦ライン。
1949年1月から、戦争に疲弊した各国はラルフ・バンチの仲介[8][9]で休戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの休戦協定が結ばれたのを始めとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれた(1949年の休戦協定(英語版))。

パレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得したが、停戦時にエジプト軍が保持していたガザ地区はエジプト領になり、ヨルダン軍が保持していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区は、12月に部分的なパレスチナ人の賛同とトランスヨルダン議会の決議により、トランスヨルダン領に編入(英語版)され、国名をヨルダン・ハシミテ王国に変更した。この時に確定した国境線はグリーンライン(英語版)と呼ばれ、現在もイスラエルとパレスチナとの境界線として国際的に認知されている。

聖地エルサレムは旧市街を含む東部をヨルダン、旧市街を含まない西部をイスラエルが領有して、中間を国連が監視する非武装中立地帯とした。しかし、嘆きの壁はヨルダン統治下になった東側の旧市街にあり、嘆きの壁へ巡礼することができなくなった正統派ユダヤ教徒の不満は募った。


無人化させられた村と町
アンナビー・ユーシュア:預言者ヨシュアの廟を祀っていたシーア派の村。
en:List of Arab towns and villages depopulated during the 1948 Palestinian exodus(1948年に無人化させられた村と町の一覧)。
関連作品
小説
エクソダス 栄光への脱出(1958年、米国) - 第一次中東戦争直前のパレスチナを描いた小説。イスラエルの建国を叙事詩的に描いた映画で、アメリカ合衆国におけるイスラエル支持の世論形成に多くの影響を与えた。
映画
栄光への脱出(1960年、米国) - 小説『エクソダス 栄光への脱出』の映画化。
巨大なる戦場(1966年、米国) - 第一次中東戦争を描いた戦争映画。アメリカ陸軍大佐ミッキー・マーカス(英語版)の伝記をもとにした作品。
ケドマ 戦禍の起源(2002年、イタリア・フランス・イスラエル合作) - アモス・ギタイ監督作品。ナチスの弾圧から生き延びてパレスチナへ移住したユダヤ人たちが独立戦争という新たな悲劇に巻き込まれる姿を描く。
パレスチナ1948 NAKBA(ナクバ)(2008年、日本) - ジャーナリストの広河隆一による第一次中東戦争をパレスチナ人側から見たドキュメンタリー映画。
イスラエル・アラブ戦争パレスチナ問題イスラエルの軍事史ユダヤ史パレスチナの歴史独立戦争1948年の戦闘1949年の戦闘1948年のイスラエル1949年のイスラエルダヴィド・ベン=グリオン


創作 今は亡きナオちゃん 15)

2023年11月04日 04時38分42秒 | 創作欄

私は、薬局・薬種商担当から、厚生省担当になり、日比谷クラブ(専門紙・誌の記者クラブ)に派遣される。

私は、度々の尚子からの電話に、クラブ担当記者や派遣された広報課の女性の顰蹙(ひんしゅく)を買うこととなる。

広報課の女性の近(こん)ちゃんが席にいなければ、受話器を誰でもとる習慣だった。

「南の電話は、いつも女からだ」嫌味を言われる。

近(こん)ちゃんと呼ばれ、多くの記者から親しまれた広報課の人は「南さん!彼女からよ!」と別の部屋に居た私に呼びかけた。

「南に、また、女か」舌打ちをする記者仲間も居るのだ。

そして、本人ではなく尚子のホステス仲間の麗子からの電話もあった。

「尚子さんが、しきりに、南さんに会いたがってます」慌てた私は、何事かと悪い予感がした。

だが、尚子は麗子と赤坂のプリンスホテルのラウンジで寛いでいるのだ。

「時ちゃん、仕事中に悪かったね。麗子さんを紹介したかったのよ」

19歳の麗子と27歳の尚子を私は改めて見比べた。

それは、可憐な女と強かな女の構図のように映じた。

私は尚子と心の距離が出来た思いがする

愛しい女が遠うのいてゆくような、虚しさに襲われる。

「ナオちゃん、結婚するのよ。時ちゃん結婚式に出てね。いいわね」

「28歳までには結婚するわ」と尚子は言っていたが、それが現実のものとなったのだ。

「尚子さんに、彼氏を紹介された時、私は、この人と結婚する人とだと思いました」麗子の微笑みに私は魅せられていた。

「時ちゃん、そんな目をして!麗子はダメよ。彼氏がいるから」尚子は私を睨みつける。

「私の下宿先の隣の部屋の藤間千絵さんを何時か紹介したわね。彼女と交際してみてね。いいわね時ちゃん」

藤間千絵は尚子と対象的で控えめな女性だった。

23歳であり福島の郡山出身で素朴さがあった。

 

 

 


創作  創作 今は亡きナオちゃん 14)

2023年11月04日 03時31分36秒 | その気になる言葉

大阪本社に転勤となった尚子は自ら退社して、驚くことに7か月後に東京へ戻ってきたのだ。

私は、7か月の間に尚子に呼ばれて7度も大阪へ行っていた。

そして、尚子のアパートへ泊り、尚子の裸体に性交が伴わない奉仕する。

当然、会社を欠勤しての大阪行きであった。

尚子は団地新聞の取材を担当していたのだ。

薬業新聞の姉妹紙の薬品団地新聞は、いわゆる大衆薬メーカーがスポンサーであり、薬の正しい使い方など啓発を目的に発行していた

尚子は、団地に住む主婦たちを取材対象にして、薬の相談や要望、疾患があればその内容について聞いていた。

私は尚子とともに、大阪市内の団地へ取材に向かった。

ミニスカート姿だった尚子は、エレベーターのない団地の階段を颯爽と行くのだ。

尚子は、千里ニュータウン団地に住む主婦たちに好感を持たれている様子だった。

だが、尚子は病院薬剤部への取材をあくまで希望していた。

そして、27歳の尚子は見切りをつけて新聞社を退社するのだが、驚くことに東京へ戻った尚子は東京・赤坂のナイトクラブのホステスに転身する。

運命的であろうか尚子は、客として国会議員に連れられきた企業家で、その後に結婚相手となる木嶋昭と出会うのだ。