人間自身の変革をも意味している

2023年11月10日 10時54分50秒 | その気になる言葉

▼私はあくまでもここで勝つ―劇作家・イプセン

▼<人間の実像>が目に表れる。

目に「人格」も「過去」も「未来」も大きく映し出されている。

▼苦節が目の輝きを増すのではないだろうか。

▼「母はつねに私の心の中にる」詩人・ハイネ

心に母がいる人には、安心があり、勇気が湧く。

その母に報いようとする時、無限の力がみなぎる。

▼リアルな現実を教えてくれる人の話は、一番胸に響くものだ。

▼自分の目の前のことに対して疑問を投げかけ、実際に行動し、追求していくことが大切だ。

▼興味のある分野だけを深めても、結局、その一面でしかない。

多様性が求められている時代のなかに生きているのだ。

多様な視点や価値観を学ぶことだ。

▼日本ではテストで良い点をことが評価されるが、アメリカでは自分の頭で考え、自分の言葉で発言しないと、全く評価されない。

▼環境問題を考える際には、視野を広げ、地球規模で考えないと本質は見えてこないのだ。

▼大きく変わるためには、今までではだめだ。

どれだけ社会変革ができるかが、問われている。

それは人間自身の変革をも意味している。

▼自分に何ができるかかを考え、行動に移す。

実際にやってみると気付きがあるものだ。

そうした気付きを周囲に話し、働きかけていく。

その小さな実践が、やがて政治を動かし、国を動かしていくのだ。

 


夜間中学

2023年11月10日 10時37分54秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

戦後まもなく学び直しの場として設立された"夜間中学"。

近年は不登校経験者の増加や外国籍の生徒の増加で新設が相次いでいます。

昨年開校した相模原市の夜間中学で不登校経験者の生徒に"学び直す"想いを聞きました。

【写真を見る】「昔より世界が鮮やかになった」全国で相次ぐ"夜間中学"の新設 30歳の中学1年生が"学び直し"を決めた理由【news23】

■“学び直す”それぞれの理由 相模原市立大野南中学校 夜間学級。

2022年4月に開校したばかりの学校で、10代から60代まで27人の生徒が、中学校の内容を学んでいます。 全校生徒のうち、10人は外国籍の人です。

2年生 フィリピン出身 西尾ハーヴィーさん(19) 「本当は高校に行きたいんですけど、2年くらい前は、まだ日本語があまりしゃべれなかったので、行けなかった」

1年生 中国出身 包雪梅さん(55) 「(日本語は)敬語とか、尊敬語とか、謙譲語とか、わかるけど使い方がわからない」 もうひとつ、夜間中学が必要とされる理由が、“不登校”経験者の増加です。

1年生 伊藤千里さん(31) 「中学のときに、不登校でなかなか学校に行けなくて、その間の勉強が、全部あいまいなまま。学校に通おうと思った理由は、わからないことって怖いなと思った」

 

1年生 沖成喜博さん(21) 「市役所などで、書類を書くときがあるじゃないですか。ああいうときに、漢字を使えないと、色々不便があって」 小・中学校における不登校の児童・生徒は、2022年度に、29万9048人と過去最多を記録。 こうしたことなどから、いま全国で、夜間中学が新設されています。

■「世界の解像度がどんどん上がって、鮮やかに見える」 福田素耀慧さん、30歳。今年の春から夜間中学に通う1年生です。彼女も不登校の経験があります。

1年生 福田素耀慧さん(30) 「幼少期に家庭の事情で、ほとんど義務教育に通えていなくて。いろんなところを転々としていたので、学校で勉強について行くことができず、いじめなんかもあった。いじめがなくなっても、それがトラウマで…」 いじめや家庭の事情で、学校に通えなかった福田さん。

去年8月に、自らの悩みをインターネット掲示板に書き込んだといいます。

 

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詩人・山之内 獏

2023年11月10日 10時29分19秒 | 社会・文化・政治・経済

山之口 貘(やまのくち ばく、1903年(明治36年)9月11日 - 1963年(昭和38年)7月19日)は、沖縄県那覇区(那覇市)東町大門前出身の詩人である。本名は、山口 重三郎(やまぐち じゅうさぶろう)。

197編の詩を書き4冊の詩集を出した。

上京後、職を転々としながら放浪生活を送る。

金子光晴の知己を得て詩誌「歴程」に参加。生活苦を風刺的にユーモアを交えてうたった。第1詩集『思弁の苑』(1938年)のほか、『鮪に鰯』(1964年)など。

概要

人生の様々な場面を純朴で澄んだ目線で描いた。

『妹へおくる手紙』『生活の柄』『自己紹介』『結婚』『頭をかかえる宇宙人』『年越の詩』『思ひ出』では上京して金に苦労した自己を赤裸々に描いた。

『借金を背負って』では借金の返済と借り入れを繰り返す生活を、『告別式』では借金を完済できずに死んだ自分の死後を描く。決して悲惨や陰鬱ではなく寧ろ可笑しみがある詩である。

蹴られた猫が宇宙まで飛翔する『猫』、自分が地球に立つのではなく地球が自分に付着する『夜景』等、壮大で愉快な幻想を描いた楽しい詩も書いた。『僕の詩』では、自己の詩の世界は実際の世界よりも大きいと主張している。

『思弁』や『雲の上』では戦争や衝突を繰り返す大国の理不尽さを、『鮪に鰯』ではビキニ核実験を描き、『貘』では獏に核兵器廃絶の願いを託した。声高に世界平和や軍縮を叫ぶのではなく、そして皮肉や批判を込めるのではなく、あくまで静かに崇高な思いを込めた詩である。

故郷を描いた詩も書いた。

『沖縄風景』では軍鶏が飼われていた庭を、『がじまるの木』では大きなガジュマルの木を、『耳と波上風景』では美しい東シナ海を描いた。

『不沈母艦沖縄』では沖縄戦で無残に破壊された遠い故郷を想い、『沖縄よどこへ行く』では日中米などに翻弄された沖縄の歴史・文化を辿りつつ、アメリカ統治下に置かれた故郷の日本への復帰を切実に願った。

『弾を浴びた島』では久し振りの帰郷で、琉球語が消失した戦後の姿に直面した困惑を描いた。

フォーク歌手の高田渡が『生活の柄』『結婚』『鮪に鰯』など、山之口の詩の多くを歌った。また、大工哲弘、石垣勝治、佐渡山豊、嘉手苅林次らのミュージシャンと共に山之口の詩に曲をつけたアルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』を作成した。

来歴
1903年(明治36年)9月11日、農工銀行八重山支店長(石垣島)であった[注釈 1]父・重珍、母カマト(戸籍名トヨ)の7人兄弟の3男として生まれる[注釈 2]。童名は三郎(さんるー)。

1917年(大正6年)4月に沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学する。

学校では標準語を用いる様に指導されたが反発してわざと琉球語を用いた。1918年(大正7年)ころから詩を書き始め「さむろ」というペンネームで『八重山新報』に詩を発表した[1]。ウォルト・ホイットマン、島崎藤村、室生犀星の詩を読んだ。また大杉栄の影響を受けた。

1921年(大正10年)に一中を退学する。

1922年(大正11年)、19歳の秋に上京[2]して日本美術学校に入学。

入学式の時に、南風原朝光と出会う。一か月後に退学する。1923年(大正12年)の春に家賃が払えなくなって下宿屋から夜逃げをし、一中の上級生の友人と駒込の家に移住する。

同年9月1日に関東大震災で罹災し無賃で機関車と船に乗って帰郷する。父が事業に失敗し自宅も売却されて、家族は離散していた[2]。石川啄木、若山牧水の歌、ラビンドラナート・タゴールの詩を読んだ。1925年(大正14年)の秋[注釈 3]に再び上京する。それが16年間の放浪生活の皮切りとなる[3]。

1926年(大正15年 / 昭和元年)から書籍取次店店員、暖房工事人夫、薬の通信販売、便所の汲み取り作業員等、様々な仕事をした[4]。

家が無いので公園や知人の家で寝泊りしていたため、警官の不信尋問にひっかかることがよくあった。同年11月に佐藤春夫に会い、「このものは詩人で、善良な東京市民である。佐藤春夫」という証明書を書いてもらう[5]。

1927年(昭和2年)、佐藤から高橋新吉を紹介される。1929年(昭和4年)から東京鍼灸医学研究所の事務員になる。1930年(昭和5年)に伊波普猷の家に住まわせて貰う。

1931年(昭和6年)に『改造』4月号で初めて雑誌で詩を発表する。以降は様々な雑誌に詩を発表する。1933年(昭和8年)、南千住の泡盛屋「国吉真善」で金子光晴と知り合う。その後、二人の交流は山之口が死ぬまで続いた[注釈 4]。1933年(昭和8年)、佐藤春夫が貘をモデルとした小説『放浪三昧』を発表する。1936年(昭和11年)に鍼灸医学研究所を辞職。半年ほど隅田川のだるま船に乗る。1937年(昭和12年)10月に金子の立会いの下で見合いをして同年12月に安田静江[注釈 5]と結婚する(婚姻届提出は1939年(昭和14年)10月)。

1938年(昭和13年)8月に初の詩集『思弁の苑(その)』を発表する[6]。序文は、佐藤春夫と金子光晴が書いた。 1939年6月から東京府職業紹介所(公共職業安定所)に職を得て、生まれて初めて定職についた[7]。1940年(昭和15年)12月、第二詩集『山之口貘詩集』を山雅房から出版[8]。1941年、長男の重也が生まれたが、1年少しで急死する。1944年(昭和19年)、娘の「泉」が生まれる。同年12月、妻静江の実家(茨城県結城郡飯沼村)へ疎開[9]。2時間かけて、職場の上野の職業紹介所まで通勤する。1948年(昭和23年)3月に紹介所を辞職し以降は執筆活動に専念する。同年に火野葦平と知り合う。

1958年(昭和33年)7月、第三詩集『定本山之口貘詩集』を発表(翌年、同著で第二回高村光太郎賞を受賞)。同年11月6日に34年振りに沖縄に帰る[10]。首里高校で帰郷記念の座談会が行われ大城立裕等が出席した。1959年(昭和34年)1月6日に東京の自宅に帰る。

1963年、胃に変調を感じ診断を受け、胃癌であることがわかる。入院費も手術代もなかったが、詩友の土橋治重、佐藤春夫、金子光晴、緒方昇、三越佐千夫たちが協力してカンパを集めた[11]。同年3月に入院、同年7月16日に手術を受けるが、7月19日に新宿区戸塚の病院で死去する[12]。59歳没。同年7月24日、雑司ヶ谷霊園で、葬儀が行われた[13]。葬儀委員長は金子が務めた。墓地は東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)。法名は、南溟院釋重思居士。

1964年(昭和39年)12月、第四詩集『鮪に鰯』が刊行される。

受賞歴
1959年:『定本山之口貘詩集』で第2回高村光太郎賞。
1963年:全業績で沖縄タイムス賞。
著書
単著
『詩集 思弁の苑』むらさき出版部、1938年8月。
『山之口貘詩集』山雅房、1940年12月。
『定本山之口貘詩集』原書房、1958年7月。
『定本山之口貘詩集』(新装版)原書房、1971年。
『山之口貘詩集 鮪に鰯』原書房、1964年12月。
『山之口貘詩集 鮪に鰯』(新装版)原書房、1972年7月。
『山之口貘詩集 鮪に鰯』(新装版)原書房、2010年12月。ISBN 9784562046638。
金子光晴 編『山之口貘詩集』彌生書房〈世界の詩 60〉、1968年8月。
『山之口貘詩集』思潮社〈現代詩文庫 1029〉、1988年4月。ISBN 9784783708407。
『山之口貘詩文集』講談社〈講談社文芸文庫〉、1999年5月。ISBN 9784061976634。
『山之口貘沖縄随筆集』平凡社〈平凡社ライブラリー 491〉、2004年2月。ISBN 9784582764918。
『桃の花が咲いていた』童話屋、2007年10月。ISBN 9784887470767。
萩原昌好 編『山之口貘』ささめやゆき画、あすなろ書房〈日本語を味わう名詩入門 14〉、2014年2月。ISBN 9784751526545。
高良勉 編『山之口貘詩集』岩波書店〈岩波文庫〉、2016年6月。ISBN 9784003120514。
『すごい詩人の物語 山之口貘詩文集人生をたどるアンソロジー』立案舎、2019年7月。ISBN 9784909917003。
選集
『小野十三郎・吉田一穂・高橋新吉・中野重治・金子光晴・山之口貘』山雅房〈現代詩人集 1〉、1940年5月。
『岡崎清一郎・山之口獏・菊岡久利・大江満雄・藤原定・坂本遼・淵上毛錢』東京創元社〈現代日本詩人全集 全詩集大成 第14巻〉、1955年5月。
『草野心平・中原中也・八木重吉・岡崎清一郎・逸見猶吉・尾形亀之助・山之口貘』創元新社〈現代日本名詩集大成 7〉、1964年12月。
『中野重治・小野十三郎・高橋新吉・山之口貘』中央公論社〈日本の詩歌 20〉、1969年。
『中野重治・小野十三郎・高橋新吉・山之口貘』中央公論社〈中公文庫 日本の詩歌 20〉、1975年6月。
『中野重治・小野十三郎・高橋新吉・山之口貘』(新訂版)中央公論社〈日本の詩歌 20〉、1979年8月。
『金子光晴・小熊秀雄・北川冬彦・小野十三郎・高橋新吉・萩原恭次郎・山之口獏・伊東静雄・中原中也・立原道造・草野心平・村野四郎集』筑摩書房〈現代日本文学大系 67〉、1973年7月。
萩原昌好 編『山之口貘・田中冬二』あすなろ書房〈少年少女のための日本名詩選集 9〉、1986年12月。ISBN 9784122002272。
全集
『全詩集』思潮社〈山之口貘全集 第1巻〉、1975年7月。
『小説』思潮社〈山之口貘全集 第2巻〉、1975年12月。
『随筆』思潮社〈山之口貘全集 第3巻〉、1976年5月。
『評論』思潮社〈山之口貘全集 第4巻〉、1976年9月。
評伝・研究書・関連書
山之口貘詩碑建立期成会 編『山之口貘』山之口貘詩碑建立期成会、1975年3月。
仲程昌徳『山之口貘 詩とその軌跡』法政大学出版局〈叢書・日本文学史研究〉、1975年9月。
仲程昌徳『山之口貘 詩とその軌跡』(オンデマンド版)法政大学出版局〈叢書・日本文学史研究〉、2012年4月。ISBN 9784588920615。
山之口貘詩碑建立期成会 編『貘の詩碑 建立報告書』山之口貘詩碑建立期成会、1976年3月。
山之口泉『父・山之口貘』思潮社、1985年8月。
舟崎克彦『獏のいる風景』筑摩書房、1985年12月。
山之口貘記念会編集委員会 編『貘のいる風景 山之口貘賞20周年記念誌』山之口貘記念会・琉球新報社、1997年7月。
知念栄喜『ぼくはバクである 山之口貘Keynote』まろうど社、1997年7月。ISBN 9784896120189。
高良勉『僕は文明をかなしんだ 沖縄詩人山之口貘の世界』彌生書房、1997年11月。ISBN 9784841507416。
茨木のり子『貘さんがゆく』童話社〈詩人の評伝シリーズ〉、1999年4月8日。ISBN 4887470053。
謝花長順『貘さんおいで 山之口貘の詩と人生』琉球新報社、2004年1月。ISBN 9784897420578。
砂川哲雄『山之口貘の青春 石垣島の足跡を中心に』南山舎、2012年10月。ISBN 9784901427289。
脚注
注釈
^ 「第百四十七銀行沖縄支店勤務」[要出典]と書かれていたが、(茨木 1999, p. 15)を出典とする。
^ 薩摩国(移住当時、後大隅国)口之島から、琉球王国へ移住した帰化人の子孫。[要出典]
^ 「1924年(大正13年)の夏」[要出典]と書かれていたが、(茨木 1999, p. 19)を出典とする。
^ 茨木のり子は二人の出会いについて「社会の道徳や名誉を無視して、自由気ままに生きてゆく自由人をお互いの中に認めたのだ」と述べている。(茨木 1999, pp. 42–46)
^ 茨城県結城郡岡田村の岡田小学校長の娘であった。(茨木 1999, p. 58)
出典


青春の彷徨―松本清張短編全集

2023年11月10日 09時57分23秒 | 社会・文化・政治・経済
  • 青春の彷徨―松本清張短編全集〈6〉 (カッパ・ノベルス)
 
「青春の彷徨」では、愛しあう若い二人が“死場所”をもとめて北九州の阿蘇、耶馬渓をさまよい歩く…。
青春の甘美な哀しみの底に流れる不安感を、著者はおだやかだが冷徹な眼でとらえている。
このほか推理小説「地方紙を買う女」「市長死す」「捜査圏外の条件」。芸術家の創造へのたたかいを追究した傑作「運慶」。歴史小説「ひとりの武将」「廃物」。現代小説「喪失」「弱味」などを収めた。没後十年復刻新版。
 
松本清張没後10年記念企画の短編全集復刻新版。第6巻は、愛し合う若い2人が死に場所を求めて北九州の阿蘇、耶馬渓をさまよい歩く「青春の彷徨」ほか8編を収録。1964年初版の3版。
 
(1909-1992)小倉市(現・北九州市小倉北区)生れ。給仕、印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。41歳で懸賞小説に応募、入選した『西郷札』が直木賞候補となり、1953(昭和28)年、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。1958年の『点と線』は推理小説界に“社会派”の新風を生む。生涯を通じて旺盛な創作活動を展開し、その守備範囲は古代から現代まで多岐に亘った。
 
 
Reviewed in Japan on November 3, 2004
 
松本清張氏の本短編集におさめられているものは昭和三十年代のもの
であるため今読むと何かと時代を感じさせるものが多い。
しかし、それでもその作品が魅力を失わないのは、氏が扱うテーマが
変わらない人間の葛藤や愛憎、欲望を描いているからであろう。
第六巻には以下の短編が収められている。
あさ子をめぐる男たちの人間模様 「喪失」
その時、市長は何をみたのか?「市長死す」
今ならさしずめインターネットで呼びかけるであろう「青春の彷徨」
「悪魔と酒盛り」という一文に凄みがある「弱味」
歴史の残酷さをさらりと描く「ひとりの武将」
「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がふさわしい「捜査圏外の条件」
現代なら成立しにくい物語「地方紙を買う女」
大久保忠教の最期「廃物」
歴史に名を響かせる彫刻家の真実とは「運慶」
 
 
  • 青春の彷徨―松本清張短編全集〈06〉 (光文社文庫)
 
松本/清張
1909年北九州市生まれ。給仕、印刷工などの職業を経て、朝日新聞西部本社に入社。
懸賞小説に応募入選した「西郷札」が直木賞候補となり、’53年に「或る『小倉日記』伝」で、芥川賞を受賞。
’58年に刊行された『点と線』は、推理小説界に「社会派」の新風を呼び、空前の松本清張ブームを招来した。ミステリーから、歴史時代小説、そして、古代史、近現代史の論考など、その旺盛な執筆活動は多岐にわたり、生涯を第一線の作家として送った。’92年に死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
清張さんは1954年(45歳)小倉から家族を呼び寄せ、練馬の六畳一間と四畳半二間の借家に八人家族で住んだ。
「市長死す」は1956年の作品。「点と線」「眼の壁」がまだ書かれてない、いわば清張さん雌伏期の作品だ。

主人公の市長が九州から上京し、所用を済ませた直後、行方がわからなくなる。
もと陸軍中将、几帳面な人物だが、彼には人知れず許すべからざる部下がいた。その男は公金を終戦のどさくさに紛れ押領し、愛人芳子を奪って遁走したのであった。
周囲の探索により、市長は偶然TVの旅番組で志摩川温泉特集を目にし、何事かを発見、同地に向かったことが判明した。そして急な渓谷から墜落し過失死を遂げたと見られた・・・

ドラマは多少の修正はあるがほぼ原作をなぞっている。
だが原作にはない最後の数カットが鮮烈な印象を残す。事件がすべて終了し宿を発とうとする、市長を実父のように慕った青年(反町隆史)が美貌の女将に問いかける・・・「それで、あなたは亡くなった市長を愛してましたか?」女が言う「いやらしい・・・」老市長の半生をかけた至情は芳子には全く伝わっていなかった。
そして秀逸なラストシーン。市長が死に、夫が逮捕され、旅館など残された一切を売り払い、すべてを手中にした芳子が軽やかな足取りで渓谷の木橋をカツカツと渡っていく。かって引きずっていた片足が嘘のように・・・
芳子を演じたのが木村多江。清楚で美しい仮面をかぶったしたたかな女。老市長のみならず、我々愚かなる男たちはかくて、手もなくしてやられるのである。
 
歴史小説「ひとりの武将」の佐々成政は厳冬期の北アルプスを往復したことで
知られる武将、豊臣秀吉に敗れたのち一国を与えられたものの死を命ぜられて
しまう。本書では不運の武将、努力が報われなかったことを語っている。
松本清張の歴史小説は生身の人間が蠢いてる、決して歴史解説書でない面白さ
がある。
又不安な心理を描写した「喪失」や「弱み」も推理短編として魅力のある作品
である。
 
松本清張の作品はほとんど読みましたが、今回の短編集も良かったです。耶馬溪は母の故郷でもあり、よく行きますが改めて作品の自然描写にも感動しました。
 
 

表題作の短編「青春の彷徨」は、六章のあらすじは次のようになる。
一、娘二十一歳、男は二十五歳、二人の結婚は親の反対を受けて、阿蘇に行くことになる。
二、「ちょっとお待ちください」の立札がある。写真屋がここでの飛び降り失敗談を話す。
三、救助演習を見た後、金が残っているからということで、耶馬溪見物に行き、宿泊する。
四、二日泊まって三日目に耶馬渓最高の渓に行き、最終バスに遅れてしまう。
五、その晩、宿の亭主に一年ほど前老夫婦が来て、帰って来ず今も行方不明のままだという。
六、帰る間際になって、山中の雑草の中に人骨が二個横たわっていたという。発見者は死場所 を求めて来た二人連れ。死ねなくなったとか。
「青春の彷徨」もひょんなことから、絶望の淵から立ち直れそうだ。 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ルポ路上買春」

2023年11月10日 09時10分27秒 | 沼田利根の言いたい放題

毎日新聞が連載する「ルポ路上買春」を読み複雑な気持ちとなる。

以前は、暴力団員がウロウロしていて、買春婦から金をピンハネしていた。

「みかじめ料」を取る組員の姿は、今はないそうだ。

昔は路上に立っていたのは如何にもプロの売春婦たち、現在はより若い女性がアルバイト感覚で体を売るようになった歌舞伎町へと変貌したのである。

我が国の暗部であり、異常な病理的な地域社会となってしまった。

以前なら客を飲食店へ勧誘する「キャッチ」が路上に居て、「客引きが治安を悪化させていた」がこれも規制された。

23歳の沼田利根が働いていた新宿、売春婦とは全く無縁であさり、飲み歩いたり、ボーリングで行く繁華街だったのだ。

 


創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 4)

2023年11月10日 00時31分34秒 | 創作欄

結局、私は、4度京都地裁へ赴いた。

だが、5度目は無かった。

大津典子が、自ら訴訟を取り下げたのだ。

私は有罪を免れたのであるが、その後の展開に不可解さを覚えるばかりだった。

「会いたいな、とっても南さんに・・・」驚くことに、典子から下北沢の私のアパートに電話がかかってきたのだ。

そして二人は、あの神田駅ガード下のバー「フロリダ」で待ち合わせをしていた。

ママの都さんは、「南さん、お元気で良かったわ」何ごともなかったように私を向かい入れくれた。

私はジンーンと胸を熱くした。

私は、大学の先輩の関係で農業関係の新聞社に勤務していた。

私はママに、勤務先の名刺を渡した。

「私の父は、長野で農家をしているのよ。南さんが農業関係の新聞社に勤務して、嬉しいわ」ママは微笑む。

私は都さんに対して「姉」のような情愛を覚えていた。

女心は不可思議であり複雑でもある。

バー「フロリダ」を出た典子は、神田駅東口でタクシーを自ら止める。

そして、「湯島まで行ってください」と運転手に告げたのだ。

二人は梅の香りが漂う夜の湯島天神へ向かう。

「あなたことを、祈願した、おみくじがあるのよ」典子は梅の木の枝を点検する。

「どこだったかしら」受験シーズンであり、そのおみくじは、みつからない。

典子は「私を今夜、抱いてね」と私の手を握り絞めたのだ。

結局、二人は湯島のラブホテルに泊まった。

一緒に風呂へ向かった。

「本当に、南さんには、私はご迷惑をかけたわ」典子は私から背を向けると声上げて泣いた。

「<南さんが、この手で奥さんを毎日のように抱いているんだ>と思うと嫉妬から、私は抵抗したのよ」典子は両手で目を覆って号泣した。

「私は悪い女、あの時、あなたの家庭をめちゃくちゃにしたくなったのね」

<そうだったのか>と私は納得した。

あの京都の木屋町の宿での2度目の性交で、典子は抵抗せず、むしろ自ら強く求めてきた。

「初めの男は、忘れらないもんなのね」典子は湯島のホテルで喘ぎ続けた。