創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 8)

2023年11月12日 22時43分43秒 | 創作欄

共同農業新聞社の同僚の村岡純子との性の関係に終止符が打たれることなった。
彼女の妻子ある彼が、香港支社から戻って来たきたのだ。
42歳の彼氏は香港での業績が高く評価されて、2年を経て本社の営業次長になり、日本へ戻ってきたのである。
純子と私の間に、恋愛感情があったわけではなく、男と女の体の関係に過ぎなかった。
「南君と腐れ縁にならずにすんだわ」純子はむしろさばけていた。
つまり彼女は、ものわかりのよい、したたかな女なのであった。
一方、大津典子との関係はドロドロしたものとなってゆく。
「南さん、あなたを信用していたのに、私、妊娠したようなの。生理がとまっているわ」深刻な表情となっていた。
私には妻子がいたので、典子が打ち明けた事態に、少なからず動揺してしまう。
男の身勝手であり、私は避妊に配慮をしていなかった。
「寝床で、南のバカ、バカと咽び泣いているのよ」打ち明けた典子とその日も浅草のラブホテルで過ごしていた。
「私、日記を書いているのよ。書くのはあなたのことばかり」彼女は私が無罪になった日を契機に、高校卒後以来の日記を再開させていたそうだ。

その日記を中学校の教師である母親に読まれてしまったのだ。

彼女の父親は、郵便局に勤める温厚な性格の人だった。

戦場カメラマンである典子の兄が、紛争地のイラクから戻ってきていた。

そして、母親は息子に娘の成り行きを明かしたのだ。

兄は、7歳離れた妹の典子を可愛がってきたので、当然、「そんな男は、絶対に許せない!」と憤る。

そして典子の兄は唐突に、電話で社長を呼び出したうえで「社員の不倫を許していいのですか!」と怒りに任せて、共同農業新聞社に抗議の電話をしてきたのだ。

「君は、誰なんだ。まず、名乗りなさい」と社長は詰問するが、電話は直ぐに切られたのである。

典子の母と父と兄の3人が、私が住む下北沢のアパートに押しかけてきたのは、日曜日の午前10時ころであった。

呼び出しのブザーでアパートのドアーを開けたのは私であった「上がらもらうよ」怒りを募らせ目を吊り上げた男が、いきなり肩で勢いよくドアー押し開けたのだ。

「突然、何ですかですか?!」私は刑事たちに踏み込まれた過去の記憶がよみがえる。

背後には中年の男女が立っていたのだ。

それが典子の両親であった。

 

 

 


創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 7)

2023年11月12日 09時35分26秒 | その気になる言葉

共同農業新聞社の加賀太郎社長は疑心暗鬼の強い性格で、社員を信用していなかった。

過去に人に裏切られた経験があったのかどうか、定かではないが、ヒトラーを尊敬していたのだから並の人間ではない。
事務員の村岡純子は、秘書も兼ねていて、社員の電話の確認を命じられていた。
例えば、「南は私用と思われる女からの電話がある」とノートに記していた。
「女好きの社長は、あいつもやるなと言って笑ってたわよ。社長は南君を悪く思っていないのね」と純子は、彼女の神楽坂のアパートで私と寝たあとに明かしたのだ。
東京農業大学の大学院を出て、農林省と国会を担当する春日隼人は、「同業他社の人間からの電話が多い」と社長に報告されていた。
戌年生まれの園田幸之助は農業界担当であるが、仕事以外の電話はほとんどない。
「園田君は犬の様に誠実な人間で信用できる」と社長は気を許す。
全農と地方の農協を担当す浅井治郎は、「相手側からの電話が少ない」と報告される。。

「園田は真面目に取材先を回っているのか?」と疑い「今日は、どこと、どこを回ったのか?」と日々、逐一社長は報告させていた。
実は、加賀太郎社長は20歳余年齢が離れていたのだが、大学の先輩だった。
私は法学部で、社長は政治学部出身であった。
「南、俺の後継者になれよ」と社員旅行の時に、社長と温泉の湯舟に一緒に浸かった時に言われてた。
社長は記者たちよりも、営業担当者を何かと優遇していたのだ。
彼には子どもが居なかったのだ。

だが、2年過ぎたころに、私は共同農業新聞社を退社することとなる。

 


創作 今な亡きナオちゃんと人(女)たち 6)

2023年11月12日 00時09分07秒 | 創作欄

再就職した共同農業新聞社事務員の村岡純子との深い関係は、酒の上の成り行きであった。

「南君を誘ったのは、私の方だから、深く考えないことにして、いいわね」

私は、男の狡さから、安堵する。

一時の成り行きで、すませればとの淡い期待なのだ。

「南君を、特別に好きではないの」

私も純子に心が動されたわけではなかった。

「男と女は、心と心ではなく。時には体と体の関係なのね」純子は性の捌け口として私を3度、彼女のアパートに誘ったのだ。

実は、純子には妻子ある男がいたのであるが、相手の男が香港の子会社の役員となり、それを契機に「分かれよう」と告げられていたのである。

「私に、彼を香港まで追ってゆく、熱情もなかったの。それだけのこと・・・」

私は聞き役に徹する。

「南君は、共同農業新聞社には、長くいるべきではないと思う。あなたは、もともと記者でしょ。営業なんてもったいと思うのうのよ」

だが、私は記者と同様に営業の仕事が面白いとも思えてきていた。

企業側の営業や広報の担当者には、夜の接待を受ける機会も増えていた。

特に、企業の広告担当者は、我が社の記者たちと接するより、私がもらす情報に期待をしている様子であった。

その後、私は加賀太郎社長の代理で、長野県の安曇野の農協の帰りに、安曇野 わさび農園を観て回った。

私は、共同農業新聞社を辞めて、農業に直接携わりたい心持となったのだ。

妻と息子と別れて・・・・

参考

農場を流れる蓼川の川辺に建つ三連の水車小屋は、黒澤明監督作品の映画『夢』のロケ地としても知られていた。

撮影当時のままの景色を残しているのである。

水車近くの川下にある万水川との合流地点は、それぞれ流れる速さが異なる水流が合流することで、水の流れの境界線が現れる不思議な風景を創り出している。