米軍の日本本土無差別爆撃で、およそ50万人が虐殺された。
日本政府は、元軍人や軍属、遺族らには累計60兆円の補償や支援をしてきた。
民間空襲被害者には「政府が雇用していなかった」ことを理由に補償を拒んだ。
「アメリカに請求すべきだ」という主張もあるが、しかしサンフランシスコ講和条約によって、日本政府アメリカへの賠償請求権を放棄してしまった。
空襲被害者の国家賠償請求訴訟
東京大空襲では約10万人が死亡したとされる。
原告らは、旧軍人・軍属には恩給や遺族年金が支給されるのに、民間の被災者に補償がないのは「法の下の平等」を定めた憲法に違反するなどと主張した。
判決理由で鈴木裁判長は「空襲で多大な苦痛を受けた原告らが不公平感を感じることは心情的には理解できる」としつつ、「旧軍人・軍属への補償は、戦闘行為などの職務を命じた国が使用者として行うもので、合理的根拠がある」と述べた。
3・10とは、東京大空襲のことである。1945年(昭和20年)3月10日、大東亜戦争末期の帝都東京に対して行われた、米軍の大規模空爆による大被害のことである。夜間の超低空から実行された、焼夷弾による都市攻撃である。攻撃を行ったのはマリアナ基地から発進したB29であった。
死者はなんと10万人超、負傷者は4万~11万人、被災者全体で100万人超となった。しかも空襲が行われたのは、3月10日の午前0時8分から、空襲警報が解除された午前2時37分までの約2時間たらずのことだった。まったくの深夜のことであった。
空襲が集中したのは東京の下町である。山の手ではない。米軍は、最初から意図的に東京下町の住宅密集地帯を狙って実行したのである。
焼夷弾は破壊を目的としていないので爆発はしないが、充填されているナパームなどの焼夷剤が燃焼して攻撃対象を焼き払うことを目的としている。木造建築が圧倒的であった当時の民家に焼夷弾が被弾すると、一気に火が拡がって投下された地帯が焼け野原になってしまったのである。
日本国との平和条約(英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。
通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。
概要
この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認[注釈 2]。
国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。
なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。
そのソ連に与する東側陣営のチェコスロバキアとポーランドは出席を拒否し、旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。
旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。
その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インドとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。
本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。
1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後[2]、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布・発効された。
正文
この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている[注釈 3]。日本語が加えられているのは当事国であるためである。
日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得た上で条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。
1945年10月24日に発足した国際連合の公用語は英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語[注釈 4]であったが、ソビエト連邦と中国[注釈 5]がこの条約には加わらなかったことから、ロシア語と中国語での条約認証謄本の作成は行われていない。
内容
講和桜之碑(東京都大田区下丸子)
日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
日本国民の主権の回復(第1条(b))
領土の放棄または信託統治への移管[編集]
「カイロ宣言」も参照
台湾(フォルモサ)・澎湖諸島(ペスカドレス)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(b))
朝鮮の独立を承認。
済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
千島列島・南樺太(南サハリン)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(c))
国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島の権利、権限及び請求権の放棄。同諸島を国際連合の信託統治領とする1947年4月2日の国際連合安全保障理事会決議を承認(第2条(d))
南極(大和雪原など)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(e))
新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f))
南西諸島(北緯29度以南。琉球諸島・大東諸島など)・南方諸島(孀婦岩より南。小笠原諸島(ボニン諸島)・西之島(ロサリオ島)・火山列島)・沖ノ鳥島・南鳥島(マーカス島)をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意(第3条)
戦前の国際協定に基づく権利等の放棄
サンジェルマン条約、ローザンヌ条約及びモントルー条約に基づくボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡に関する権利及び利益の放棄(第8条(a))
ヤング案に基づく諸協定や国際決済銀行条約など、第一次世界大戦の連合国として有していた対ドイツ賠償に関わる権利、権原及び利益の放棄(第8条)
北京議定書(付属書、書簡、文書含む)の廃棄。同議定書に由来する利得及び特権を含む中国における全の特殊の権利及び利益を放棄(第10条)
国際協定の受諾[編集]
世界人権宣言の実現に向けた努力(前文)
国際連合憲章第2条に掲げる義務を受諾(第5条(a))
「主権平等」「国際紛争の平和的解決」「領土問題と独立問題の平和的解決」「国連の強制行動への支援、強制行動対象国への支援の自粛」「非加盟国が原則に従って行動することの保証」「憲章が負わせる義務の履行」「加盟国の国内問題への不干渉(但し枢軸国へのそれを除く)」の7大原則に従うことを指す
第二次世界大戦(ポーランド侵攻を受けてイギリスとフランスがドイツ国に宣戦した1939年9月1日を勃発日と本条約では定義する[注釈 6])を終了させるために現に締結されもしくは将来締結される条約、連合国が平和の回復またはこれに関連して行う取極の完全な効力を承認(第8条(a))
国際連盟及び常設国際司法裁判所を廃止するための取極を受諾(第8条(a))
極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、ニュルンベルク裁判)の判決を受諾(第11条)
賠償
日本が行うべき賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
日本の商標・文学的及び美術的著作権は連合国各国の一般的事情が許す限り日本に有利に取り扱う(第14条(a)2-III-v)
連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄(第14条(b))
安全保障
連合国は、日本が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できることを承認(第5条(c))
その他
連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。
ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯する場合はこの限りではない[注釈 7](第6条(a)、#単独講和と全面講和論)
連合国は、本条約効力発生後1年以内に、戦前に日本と結んだ二国間条約・協約を引き続いて有効としまたは復活させることを希望するかを日本に通告。
通告された条約・協約は、通告日の3ヶ月後に、本条約に適合させるための必要な修正を受け、国際連合事務局に登録された上で有効または復活する。通告がなされなかった対日条約・協約は廃棄される(第7条(a))
日本は、占領期間中に、占領当局の指令に基き、もしくはその結果として行われ、または当時の日本の法律によって許可された全ての作為または不作為の効力を承認。前述の作為又は不作為を理由として連合国民を民事責任または刑事責任に問わない(第19条(d))
日本は、連合国による在日ドイツ財産処分のために必要な措置を取り、財産の最終的処分が行われるまでその保存・管理に責任を負う(第20条)
条約解釈と諸問題[編集]
領土[編集]
ポツダム宣言の8項(カイロ宣言は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。
日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとイアン・ブラウンリーは解釈している[3]。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している[4]。
竹島問題[編集]
竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている[5]。
1947年3月19日版以降:日本は済州島、巨文島、鬱陵島、竹島の4島を放棄すること。
1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問ウィリアム・ジョセフ・シーボルドによる竹島再考の勧告。
「これらの島についての日本の主張は古く、正当なものと思われる。そして多分ここにアメリカの気象観測所とレーダー基地を設置することもできるようだから安保的に望ましいことだ。」[6]
1949年12月29日版以降:日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。
1951年6月14日版以降:日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる)
1951年7月19日、韓国政府、日本が済州島、巨文島、鬱陵島、竹島(韓国名:独島)、及び、波浪島を放棄することを条約に盛り込むことを求める[注釈 8]。
1951年9月8日版(最終版):日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。
沖ノ鳥島に関する記述[編集]
この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。
北方領土問題[編集]
「北方領土問題」を参照
第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島の範囲について、特に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。
地名表記の英名[編集]
樺太はサハリン(Sakhalin)、千島列島はクリル(Kurile)、台湾はフォルモサ、澎湖諸島はペスカドレス(Pescadores)、新南群島はスプラトリー(Spratly)、西沙群島はパラセル(Paracel)、小笠原諸島をボニン(Bonin)、南鳥島をマーカス(Marcus)と西之島はロサリオ(Rosario)と英文ではなっている。
「外地人」の日本国籍喪失[編集]
詳細は「在日韓国・朝鮮人」および「平和条約国籍離脱者」を参照
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。1961年(昭和36年)の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した[7]。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である[8]。
東京裁判の受諾問題[編集]
「日本国との平和条約第11条の解釈」および「東京裁判」を参照
東京裁判(極東国際軍事裁判)の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている[9]。
著作権保護期間の戦時加算[編集]
戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例(戦時加算)が設けられている。
経緯[編集]
冷戦と朝鮮戦争[編集]
第二次世界大戦終結後、「エルベの誓い」で握手を交わしたはずのソ連とアメリカは対立するようになり、東西の冷戦構造が戦後の国際社会で形成されてゆく。
中国大陸では国民党政権と共産党政権が対立し、内戦に発展した(国共内戦)。
内戦中、ソ連は中国共産党政権を支援した。
1949年9月末の時点で、共産党政権は、中華民国(国民党政権)が主張する領域のうち、チベットと新疆省を除く大陸部を占領した。1949年10月に北平(今の北京)において共産党政権は中華人民共和国の建国を宣言し、12月に国民党政権は台湾に移った。
その後、連合軍軍政期を経て米ソ両国により南北に分断された朝鮮半島において1950年に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国共産党政権は北朝鮮を支援し、アメリカ、イギリスなどは大韓民国を支援した。こうした背景があり、ソ連とアメリカの関係は悪化し、連合国構成国間の講和条約締結にむけた交渉は混迷した。最終的にソ連の代表は講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。中華民国(国民党政権)および共産党政権の代表は招待されなかった。
単独講和と全面講和論[編集]
こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカ・イギリスなど西側諸国との単独講和論と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする全面講和論とが対立した[10]。
単独講和とは自由主義(資本主義)国家陣営に属し、連合軍による占領終了後もまたアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場であった。ただ、実際には52ヶ国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる[11]。この他、片方の陣営とのみ講和を締結するという立場から片面講和という言い方もある[12]。
全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造の中で中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった[13]。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている[13]。
内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。
また日本共産党、労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。
南原は1949年12月にはアメリカのワシントンD.C.での米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した[11]。
1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題談話会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号[10]などで全面講和論の論陣を組んだ[14][15]。『世界』1951年10月号は、山川均「非武装憲法の擁護」などを掲載した「特集 講和問題」を組み、大きな反響をよんだ。
こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田は「永世中立とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世[注釈 9]の徒に他ならない」と批判した[16][11]。
南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ[11]、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した[16]。
当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた[16]。
また小泉信三は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した[10][17]。
他に津田左右吉は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、田中美知太郎は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている[18]。
『世界』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『朝日新聞』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、
単独講和=45.6%
全面講和=21.4%
わからない=33.0%
単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも少数派だった[19]。
アメリカとの事前交渉[編集]
1950年6月21日から27日にかけて国務長官顧問のジョン・フォスター・ダレスが来日し[16]、6月22日吉田首相と会談した。また1951年1月25日、米講和特使ダレスが来日した。1月29日には吉田・ダレス会談が行われている[20]。1月31日、第2次会談、2月7日、第3次会談がおこなわれた。2月11日、ダレスは、日本政府は米軍駐留を歓迎と声明し、フィリピンにむけて離日した。吉田首相は米国との安全保障取決めを歓迎し自衛の責任を認識すると声明した。3月27日、日本政府は、米政府よりダレス特使の構想にもとづいて米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受ける[21]。4月16日、ダレス特使が来日し、4月18日、連合国最高司令官マシュー・リッジウェイ、吉田首相と3者会談し、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認した。
吉田は朝鮮戦争勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで池田勇人を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている[注釈 10]。