文は生命の発露であり、頭ではなく心で書くのである

2024年04月20日 10時31分55秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼期待されるのる。どこまでも非暴力による言論である。

言論、対話はどこまでも、相手を人間として遇することの証明なのだ。

▼生命尊厳を基調に、人間主義の思想を社会へ世界へ広げることだ。

▼周囲の大人の温かな眼差しが子どもたちの安心になる。

▼無限の勇気と希望の源泉となる言葉が期待される。

▼健康の原則「よく眠ること」「よく歩くこと」「怒らないこと」「食べ過ぎないこと」

▼高邁な生き方が望まれる。

「高邁」は「その人の精神や考え方が非常に気高く優れていること」や「他の人より抜きん出て高い志を持っていること」を表す褒め言葉。

▼病める人 心の傷ついている人 苦悩している人 使命として「堕落」「絶望」させないことだ

▼5年、10年と黙々と必死の思いで自分の力を磨いていかなければ、本物にはなれない。

▼峻厳な山に登らなければ、一流の登山家にはならないように、幾多の難に耐え抜き、乗り越えてこそ人間革命できるのである。

▼文は生命の発露であり、頭ではなく心で書くのである。

戦いながら書き、書きながら戦うのである。

▼自分という小さな殻にこもり、自身の幸福だけを願っていては、本当の幸福をつかむことはできない。

自分も、周囲の人も、自他ともの幸せなっていってこそ、真実の幸福である。

ゆえに、人のため、友のため励ましを送るのである。


ルワンダ虐殺

2024年04月20日 10時03分46秒 | 社会・文化・政治・経済

ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語: Rwandan Genocide)とは、東アフリカのルワンダで1994年4月から約100日間続いた大量虐殺である[1]。

同年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまで、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された[2]。

正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、80万人以上[1]や約100万人[3]と推計されており、後者であればルワンダ全国民の20%に相当する。

NGO「セボタ」によると、約25万人の女性が強姦被害を受け、その結果産まれた子供が3000人以上いる[1]。

ルワンダ紛争はフツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国[4][5]と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯を持つ。

ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まった。さらにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーが蔓延し、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。

我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない。」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立した。しかし、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

ハビャリマナ大統領の暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織のインテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争と共に終結した。

発生までの歴史的背景

ハム仮説(英語版)の提唱者ジョン・ハニング・スピーク
ルワンダ虐殺は部族・民族対立の観点のみから語られることもあるが、ここに至るまでには多岐にわたる要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー統治下のルアンダ=ウルンディ時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている[6]。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる[7][8]。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗[9]、ルワンダ宗教界による虐殺への関与[10] があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。

ツチとフツの確立と対立


19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワというの3つの「民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった[11]。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた[12]。

この学説の背景の一つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の考え方の一つでは、旧約聖書の『創世記』第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[13] と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系、ハム系、ヤペテ系など旧約聖書の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である[14]。ルワンダにおいて、ネグロイドのバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体型を持つ」農耕民族のフツを、コーカソイドのハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた[15]。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた[16]。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことが挙げられる[17][18]。


アフリカの委任統治領。10がルアンダ・ウルンディ。
19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領ルアンダ・ウルンディとなると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化した[19]。その後、第一次世界大戦でドイツが敗れたことで、1919年、アフリカ各地のドイツ領は国際連盟委任統治領として新たな宗主国へ割り振られ、ルアンダ・ウルンディはベルギーの支配地域となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか[20]、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った[21]。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校入学が許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた[22]。さらに1930年代にはIDカード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てられたものとして固定し[23]、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる2つの民族を確立した。このIDカードはルワンダ虐殺の際に出身民族をチェックする指標の一つとなった。


1962年の独立以降のルワンダの地図
第二次世界大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会[24] もまた、公式にフツの支持を表明した[25]。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフランデレン人がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる[26]。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダやジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治の独占的状態を批判したバフツ宣言(英語版)を1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となりパルメフツが結成された。

そんな中、1959年11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の一人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった[27]。なお、この1959年の万聖節の事件が、民族対立に基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり[28]、この事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力であるという説もある[29]。当時、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動した[30]。さらに、1960年には普通選挙を開催し、フツの政治的影響力を拡大させた[31]。なお、選挙の投票所にはフツが陣取っており、ツチの有権者に対する脅迫が行われていたことが知られている[32]。

1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にグレゴワール・カイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国に逃れたツチによるゲリラ攻撃に悩まされた背景もあり[33]、フツ-ツチ間の対立を政治利用し、暴力的迫害や政治的な弾圧を行った[34]。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている[35]。1973年、無血クーデターによりカイバンダ政権が倒され、ジュベナール・ハビャリマナが新たな政権を発足した。ハビャリマナ政権は前政権党のパルメフツの活動を禁止し、自身の政党にあたる開発国民革命運動による政治運営を行った[36]。さらに、1978年には開発国民革命運動の一党制を憲法で確立した[37]。軍や政権中枢における権力の基盤としてハビャリマナ大統領夫妻の血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織のアカズが構築された。ハビャリマナ政権下ではツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は残った。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していた[38]。


戦闘によってベルギー兵数人を殺害すれば、人数や武装的に平和維持軍の要となっているベルギー軍全体が撤退すると考えている。
ベルギー軍撤退後に、ツチは排撃されるだろう。
インテラハムウェの兵1700人が政府軍キャンプで訓練を受けている。
これまでは、マチェーテ(山刀、マシェット、マチェテ)やマス(多数の釘を打ち付けた棍棒)といった伝統的な武器が主流であったが、AK-47などの銃火器が民兵組織の間で普及しつつある。
密告者自身やその同僚はキガリに住む全てのツチをリスト化するように命じられた。その目的はツチの絶滅である可能性があり、例えば我々の部隊であれば、1000人のツチを20分間で殺害することが可能である。
ハビャリマナ大統領は過激派を統制し切れていないのではないだろうか。
密告者はルワンダ愛国戦線と敵対しているが、罪のない国民を殺害することには反対である。

ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であったコフィー・アナン
ダレール少将は、国際連合ルワンダ支援団部隊による武器貯蔵場所を制圧する緊急の計画を立案し、この計画が平和維持軍の目的に適うものであると考えて、国連に持ちかけた。しかし、翌日に国連平和維持活動局本部から送られた回答では「武器庫制圧の計画は、国連安保理決議第872号にて国際連合ルワンダ支援団に付与された権限を越えるものである」として、ダレール少将の計画は却下された。ダレール少将の計画を却下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に国際連合事務総長となるコフィー・アナンであった[60]。なお、国連はダレールの計画を却下した代わりとして、ハビャリマナ大統領に対してアルーシャ協定違反の可能性を指摘する通知を行い、この問題に関する対策の回答を求めたが、それ以降密告者からの連絡は二度となかったという。後に、この1月11日の電報は、ジェノサイド以前に国連が利用可能であった情報がどのようなものであったかを議論する上で、重要な役割を果たした[61]。翌月の2月21日には、過激派フツにより社会民主党出身のフェリシアン・ガタバジ(英語版)公共建設大臣が暗殺され、さらにその翌日には報復として共和国防衛同盟のマルタン・ブギャナ (Martin Bucyana) が殺害されたが、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から殺人事件を調査する許可を得られず、対応できなかった。

1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする非難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びついた[62]。

国際連合から国際連合ルワンダ支援団へ下されたマンデート(任務)では、ジェノサイドの罪を犯している状態でない限りは、国内政治への介入はいかなる国の場合でも禁じられていた。カナダ、ガーナ、オランダは、ダレール少将の指揮の下、国連からの任務を首尾一貫して提供したが、国連安全保障理事会から事態介入に必要となる適切なマンデートを得られなかった。

宗教界の動向

ントラマ教会 (Ntrama Church) では、5000人もの避難民が手榴弾、マチェーテ(山刀、マシェット、マチェテ)、銃で攻撃されたり、生きたまま焼かれて虐殺された。聖堂には現在も毛布や子供の靴、犠牲者の遺骨の一部が散乱し、祭壇には頭蓋骨が残されている。
ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほどなかったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次世界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を植民地行政官以上に強く主張したが[24]、その一方で1950年代後半以降はフツ側に肩入れし、多くのカトリックの指導者がジェノサイドへの批判を行わず、多くの聖職者が虐殺に協力した。ルワンダ虐殺に協力した一般住民の多くが「ツチの虐殺は神の意思に沿うものである」と考え、カトリック教会も虐殺に加担したと看做されている[63]。虐殺終結後のルワンダ国際戦犯法廷では、ニャルブイェ大虐殺に関与した司祭のアタナゼ・セロンバ(英語版)など複数の宗教指導者らが告発され、有罪判決を受けている[64]。

ヒューマン・ライツ・ウオッチは、ルワンダの宗教的権威者、特にカトリックの聖職者はジェノサイド行為に対する非難を怠ったと報告し[65]、カトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している[64]。1996年にローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世は、カトリック教会としてのジェノサイドへの責任を否定している[66]。

その一方で、1994年以前は1%程度であったイスラム教徒がルワンダ虐殺の終結後から大幅に増加しており、2006年には8.2%となったことが知られている。これはルワンダ虐殺時のカトリック教会の行動により同宗教への信頼性が大きく揺らいだことと、イスラム教は虐殺に参加せず避難民の保護を行ったことにより、イスラム教のイメージが大きく改善した影響であると考えられている。ルワンダでは現在のところイスラム原理主義は確認されていない[67]。

ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで
詳細は「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」および「ルワンダ虐殺における初期の出来事」を参照

1994年4月6日に航空機事故で死亡した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領。ハビャリマナ大統領の死がルワンダ虐殺の始まりのきっかけとなった。
1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。


キガリにて、過激派の襲撃を受けて国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設。
4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレール少将は、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラ大佐はウィリンジイマナ首相の指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレール少将は、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレール少将とバゴソラ大佐の議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に[68] 殺害された[69]。


国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設の外観、銃弾の跡が数多く残されている。
この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ(英語版)少佐が有罪判決を受けた[70]。首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(英語版)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(英語版)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(英語版)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(英語版)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(英語版)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定を支持した要人が次々と暗殺された[71]。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil』にて以下のように述べている。

私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(英語版)と連絡を取った。アニドホ准将はゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団はフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている[72]。
上記のように、共和民主運動の指導者であったトゥワギラムングだったが国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。トゥワギラムングもウィリンジイマナ首相の死後に首相へ就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダ(英語版)であった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。

大量虐殺

ルワンダ虐殺の犠牲者の頭蓋骨

ルワンダ虐殺の犠牲者の遺体
『大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば無知蒙昧な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテ(山刀、マシェット、マチェテ)や鍬などの身近な道具を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが[73]、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた[74]。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。

虐殺
1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン(英語版)はツチとフツ穏健派に対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、フツ過激派はミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはフツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

4月9日、国連監視団はギコンド(英語版)のポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した(ギコンド虐殺(英語版))。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州各国軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、『ワシントン・ポスト』紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。4月9日から10日にかけて、アメリカ合衆国のローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。


ニャマタ虐殺記念館に展示されている頭蓋骨。
ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチやフツ穏健派殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(英語版)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった[75]。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派のシルヴァン・ンディクマナ(英語版)が知事に就任すると[75]、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された[75]。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって数日後に殺害された[76]。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。

犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』[83] の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという[84]。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃や、強姦、拷問を受けた[2][85]。

川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げられたり、殺害現場に放置された[86]。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラ(英語版)はツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている[87][88]。


ムランビ技術学校で虐殺された犠牲者の頭蓋骨。
ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行ったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ (African Rights) のアレックス・デ・ワール(英語版)とラキヤ・オマー(英語版)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(英語版)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(英語版)の代表であるジェイムズ・スミスは、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている[89]。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、1日あたり1万人が、1時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという[90]。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくは「ルワンダにおける売春」を参照)。

虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK-47や手榴弾といった銃火器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計と調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテの4分の3は1993年に当時のルワンダ政府が中国[91] から安価で大量に輸入したものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された[92]。キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる[93]。


ニャマタ虐殺記念館にて
ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという[94][95]。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた[96]。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、

ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―[97]。

といった報告が数多く詳細に収録されている[98]。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある[99]。

ルワンダ虐殺の最中に虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もいた。映画「ホテル・ルワンダ」で知られるポール・ルセサバギナの他、ピエラントニオ・コスタ(英語版)、アントニア・ロカテッリ(英語版)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(英語版)、カール・ウィルケンス(英語版)、アンドレ・シボマナ(英語版)らによる活動がよく知られている。

ルワンダ虐殺下の強姦
1998年、ルワンダ国際戦犯法廷は裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。つまり、ルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つと見なされたのである[100]。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つからず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したり命令したり、あるいは強姦を黙認したという証言のみが示された[56]。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダの影響が他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている[101]。

ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (René Degni-Ségui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している[102]。2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された[102]。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった[56]。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされて強姦された。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器が群衆の前で晒される事もあった[56]。ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行ったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍 (RAF) の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われた[56]。2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行った」とする声明が出されているが[103]、これについては現在のところ実証されていない。

 

 

1998年3月、アメリカのクリントン大統領はルワンダを訪問し、同国のキガリ国際空港の滑走路へ集まった群衆に対し「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を充分に行わなかった事実も踏まえた上でここへ訪れました。」と述べ[169]、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在では"クリントン大統領の謝罪" (Clinton's apology) として知られる謝罪を行った[170]。

もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが[171]、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた[172]。

日本放送協会(NHK)は当初の100万人以上とされた数値から修正された80万人虐殺説[216]を採用している。

30年前の1994年4月7日、アフリカのルワンダで起きた大虐殺=ジェノサイド。

民族の対立によって100万人もの命が奪われた。

その凄惨な悲劇を生き延びた男性がこのほど沖縄を訪れ、平和について語るイベントが開催された。

65人の親類を亡くす

アフリカ東部の国・ルワンダで平和教育者として活動している、クロード・ムガベさん。

クロード・ムガベさんが8歳の時に、ルワンダで大虐殺=ジェノサイドが起きた。

1994年の4月7日に始まった民族間による大虐殺により、わずか100日間で100万人もの命が奪われた。

ムガベさんは大虐殺で父親、妹、叔父・叔母、いとこを含む65人の親類を失った。

2024年3月23日、那覇市で開かれた平和交流イベントは、大学生たちが企画運営した。

ムガベさんが沖縄を訪れるきっかけとなったのは、読谷村のインターナショナルスクールを卒業し、今は大阪大学に通う山田果凛さんとの出会いであった。

起業家としても活動する山田果凛さん。

4年前の2020年、コーヒーの取引のためにルワンダを訪れた際、ジェノサイドの実相を伝える記念館で、ガイドとして働くムガベさんと出会った。

山田果凛さん:

「Hi,I’m from Japan」とムガベさんに言ったら、「日本の沖縄に行って、平和交流することが夢なんだよ」と答えました。「わたしは沖縄の高校生です」と返答すると、「じゃあ、ぼくの夢は叶うね」と答えてくれました

どのように記憶を継承しているのか平和教育を学びたい

初めてアフリカ大陸を離れ、およそ30時間のフライトを経て沖縄に降り立ったムガベさん。

その足で向かったのは、糸満市にある平和祈念公園と資料館。

沖縄大学(当時)本村杏珠さん:

沖縄戦では、うちなーぐち(沖縄の方言)を使うと、スパイ取り締まりということで、刑が科されました

ムガベさんを案内したのは、果凛さんの呼びかけで集まった沖縄県内の大学や、インターナショナルスクールに通う若者たち。

79年前の沖縄戦で住民を巻き込む激しい戦闘があったことを説明した。

沖縄大学 中塚静樹さん:

ガマはもっと暗くて遮断されている閉鎖空間でして、恐怖が蔓延して、アメリカの捕虜になるくらいならお互いに殺しあうという集団自決も起こっています

ムガベさんは「ジェノサイドでは、多くの人が鉈(なた)で殺された。鉈(なた)で殺されるぐらいなら、教会や学校で、自分たちで死ぬことを決めた人もいます。集団自決と同じような状況かもしれません」と話した。

第一次大戦後、ベルギーの支配下に置かれたルワンダでは、もともと共存していた民族を区別する政策が行われ、対立構造が生まれた。

1994年、宗教や言語などに違いはない民族同士であるにも関わらず、組織的な殺害によって多くの尊い命が奪われた。

戦争にいたるまでの政策、そして住民の間で起きた悲劇。ムガベさんは、かねてから沖縄とルワンダの歴史に共通するものがあると感じていた。

「戦後79年を迎える沖縄がどのように記憶を継承しているのか、平和教育のありかたを学びたい」ムガベさんがこの島を訪れた理由だ。


名桜大学 山下匠さん:

一般の兵や住民の名前も刻まれていて、どんな方々もここに記されているのが平和の礎(いしじ)のひとつの特徴です

ムガベさんは、「私たちは同じように生まれて、同じように死んでいくので、それを知っていたら殺し合いにはならないのではないか」と感想を述べたいっぽうで、「世界は過去から学びきれていない」と述べた。

平和祈念資料館を訪れた2日後、ムガベさんは那覇市で講演に臨んだ。

歴史から学び断固たる行動を

ルワンダ大虐殺の生存者 クロード・ムガベさん:

30年前のルワンダを思い出すのは、私にとって辛いことです。しかし私の証言は、平和の

重要性を強調するでしょう

ムガベさんは大虐殺が起こった背景に、民族を分断する政策が長年続いたことのほか、メディアによる扇動があったと述べた。

また、「ルワンダでは50年以上にわたり憎悪に満ちたメディアによって、燃え広がる虐殺にいたる不和の種が蒔かれた」とも指摘した。

このほか、「紛争中のメディアは巨大な力となるため、メディアの物語を受動的に受けるのではなく、意図を見抜き、真実を求め、信念を貫くことが不可欠だ」と警鐘を鳴らした。

ルワンダ大虐殺の生存者 クロード・ムガベさん:

ルワンダの大虐殺が遠い過去のように感じられるかもしれませんが、同様の悲劇は今日も続いています。歴史から学び、断固たる行動をとらなくてはなりません

ムガベさんは、「平和な世界を構築することは困難なことに思えるが、歴史を学ぶことで必ず実現できる」と訴えた。

来場した男性:

戦争を経験した人が減ってしまっていることが、沖縄ではいま起こっていて、ルワンダではこれから起こることだと思うので、私たちは先をいく世代として、できることはないかなと思いました

来場した高校生:

SNSでいろんな人が発信していることを簡単に信じて、最終的に虐殺とかそういうことにつながってしまうことがあるのかなと思うので、一人ひとりがそういう意識をもつことが大切だと思います

ルワンダ大虐殺の生存者 クロード・ムガベさん:

沖縄の人々が証言を集めて記憶を守り続けること、若い世代がそれを理解し平和について語り続ける取り組みが大切です。皆さんならば、平和で明るい未来を築いていくれると私は確信しています

「沖縄は平和を語る先輩だ」と話すムガベさん。今回の訪問で気づいた事を、ルワンダに戻ってからの活動に活かしていきたいと沖縄を後にした。

(沖縄テレビ)

 

 


女性不況サバイバル

2024年04月20日 09時31分53秒 | 社会・文化・政治・経済

コロナ禍はあらゆる人を直撃したが、とりわけ女性に厳しかった。

元来が非正規雇用の割合が高い女性は店舗の休業などで失業や収入激減の憂き目に遭いやすく、そこに学校の一斉休校で子育てに追われ、働きに出ることが困難になった。

日本社会ではまだ「夫や男性に養ってもらえるはず」とする「夫セーフティーネット」の考えが支配的なことも女性には苦しみの原因になった。

本書はこうした状況を冷静に分析し、今後どう乗り切るかを考察する。

 
 

竹信 三恵子 (著)


出版社より

序 章 「女性発」の見えない脅威

第1章 「夫セーフティネット」という仕掛け

第2章 「ケアの軽視」という仕掛け

第3章 「自由な働き方」という仕掛け

第4章 「労働移動」という仕掛け

第5章 「世帯主主義」という仕掛け

第6章 「強制帰国」という仕掛け

第7章 新しい女性労働運動の静かな高揚

終 章 「沈黙の雇用危機」との闘い方

おわりに

主要引用・参照文献一覧

著者について

竹信三恵子(タケノブ ミエコ)
ジャーナリスト,和光大学名誉教授.朝日新聞社記者,和光大学教授などを経て,現職.NPO法人官製ワーキングプア研究会理事.2009年貧困ジャーナリズム大賞受賞.『ルポ雇用劣化不況』で2009年度日本労働ペンクラブ賞受賞.2022年『賃金破壊』で日隅一雄・情報流通促進賞特別賞.

著書:『ワークシェアリングの実像』『ミボージン日記』(岩波書店),『ルポ雇用劣化不況』『家事労働ハラスメント』(以上,岩波新書),『女性を活用する国,しない国』『災害支援に女性の視点を!』(共編著)『官製ワーキングプアの女性たち』(共編著)(以上,岩波ブックレット),『ルポ賃金差別』(ちくま新書),『正社員消滅』(朝日新書),『10代から考える生き方選び』(岩波ジュニア新書),『賃金破壊』(旬報社)ほか多数.
 
物価高騰に賃金の伸びが追い付かず実質賃金が下がり、生活が苦しくなっている人が増えている。
中でも非正規雇用の比率が5割を超える女性は打撃が大きい。
正規社員でも女性の平均賃金は男性の3~4割という大企業もある。
日本の社会保障制度は「正規社員の男性と妻」の世帯をモデルに作られた。
男性の非正規も増え、単身世帯も増える中で、個人の経済的自立を基本とする仕組みへ脱却すべきだ。
女性の低賃金の背景には、育児や介護、家事などのケアに置いて、女性は無償労働を担うリスクが特に高いことがある。
 
 
「これを無かったことにしてはいけない」
 
本書には著者、竹信三恵子氏のこのメッセージが込められています。
とはいえ、この本は感情で書いた本ではありません。
そこには取材、分析、考察を通じて書くというジャーナリストの姿勢が貫かれています。

私も、コロナ禍のために多くの働き手、特に女性に収入減、失職などの打撃をもたらしたと新聞報道などで目にしてはいました。けれども本書を読むまで、ここまでひどいとは思いませんでした。

筆者は現場に出かけ、困窮に追い込まれた当事者の声を聴き、その一方で統計など関連データを読み解き、それを取材で確認した現実と繋いで行きます。このような下地の上に分析と考察が加えられているからこそ、本書に説得力が生まれるのです。

もう一点、特筆すべきは竹信三恵子氏の真っ直ぐな視線です。一見、問題の解決になりそうに見える助成金などの制度には、制度の前提となる社会、女性労働のあり方に対する思い込みや、多くの「常識」とされていることが暗黙の前提となって埋め込まれています。例えば、「一家の家計を支えるのは男性であり、その妻である女性の労働は家計補助である。」という思い込みです。そのため、その思い込みの型に当てはまらない多くの女性が、制度の狭間にこぼれ落ちていきます。
竹信さんはそれを洗い出し、「社会に埋め込まれた『不可視化と沈黙』を生み出す六つの仕掛け」として問題提起しています。

こうして一つ一つ問題を洗い出していくと、コロナ禍が女性労働者に殊更大きな打撃を与えた根本原因は決してコロナ禍特有では無いことに、読者は気づきます。コロナ禍は、これまでも存在した社会の構造のひずみが露わになったきっかけにすぎないのです。日本社会に根強い女性差別という根本は変わっていません。

本書が外国人労働者を視野に入れている点も特筆したいと思います。
外国人、特に女性は弱い立場に置かれていると筆者は解き明かします。
が不充分、情報が届かない、自分は行政のサービスの恩恵にあずかれないと、今までの経験から諦めているなど、彼女たちが置かれている境遇が、この問題を見つけにくくしています。
困っている人に国籍の区別は無いことを、社会の多数派である日本人はハッキリ意識しなければないと思わされます。

本書は深刻なテーマを扱っていますが、希望もあります。女性の貧困を生み出し、男性をも不幸に追い込んだ日本社会のひずみを解決するために闘う女性たちがいること、新しい女性労働運動が起きているという記述に、わたしは救われる思いでした。

本書を、日本を誰にとっても生きやすい社会にしたいとお考えのどなたにもお勧めします。
 
 
 

本書の細かい解説は他のレビュアーさんに任せます。
 私の読後感は、今の日本は女性にとって住みにくいか?
 やはりというか、男性優先ですか。特に結婚したら、女性は一歩、身を引いて男性を立てるべし!
この観点でコロナ不況による諸々の経済政策、特に社会福祉は男性優先に考えられている。そのことがよく分かる書物です。第1章の「一斉休校」か、これで一番ダメージを受けたのが有職の女性、子供の面倒を全部押し付けられる結果になった。
そのため辞職、或いは仕事の量を減らすかの選択になる。どちらにしても男性はそのような行動をとらないでしょう。普段も育児は女性がやっていたでしょう。その延長戦です。万事、この調子で家庭内の家事、育児における男女間の役割分担が平等でない。これの影響が諸に出ています。
 私が、付け加えると組織の規模というか、中小企業や零細企業は、本書よりも更に状況が悪いと推測します。著者自身も多分考察されているかな。現在進行形で今も性差別は続いているでしょう?
 第1章から第6章までの章名に著者の言う女性の声を封印する六つの仕掛けが書いてあるので、これに並行して本書を読むと理解が進むと思います。第7章他で具体的対応策が記載されているので、これも読んでおくと良いでしょう。女性も男性に我慢しないで、言うべきことは言おうという至極当然なことです。
が、この至極当然なことを上手く主張できる女性は、まだまだ少ない。言いにくいだろうなあというのが私の実感です。収入面でやはり男性の方が優遇されているでしょう。
 少しずつではありますが、女性の地位もかなり改善はされています。
でも対等という関係には、ほど遠いので、根気よく女性も自分の権利を主張しましょう。
 本書は、そのための教科書になりうると思います。是非とも読むべしデス!
 ここまでの拝読、深謝します。ありがとうございました。
 
 
 
女性不況とは、コロナ禍で生じた女性の経済的苦境、経済危機を指すらしい。①雇用喪失または著減と、②家庭または医療・介護現場での女性のケア労働負担増から成る。
第1章から第6章までは、女性不況の事例が、問題点別に提示されている。第7章は女性たちの反撃としての新たな女性労働運動が叙述されている。
事例
第一章・・シフト労働のパート労働者は、コロナ禍で会社が休業になっても、シフト表で明記(確定)されていた労働以外は休業補償の対象にならなかった事例
第二章・・保健師、保育士がコロナ禍で過重労働を強いられた事例など。
第三章・・キャバクラ女性が雇調金からも、休業手当からも、助成金からも除外された事例。フリーランス女性の休業給付申請に要求される書類が現実的に無理なものであった事例など。
第四章・・ハローワークの紹介で、別の仕事に移っても、待遇悪化やパワハラにあってしまう事例。
第五章・・支援金の受給権者は世帯主の夫であったため、離婚前の妻が支援金をもらえなかった事例など。
第六章・・・外国人女性の解雇事例。
私的感想
○事例はいずれも興味深く、おおむね、女性側の主張に理があるように思われた。
○終章の終わりの241頁から244頁に村上薫氏による宝島社『大阪ミナミの貧困女子』出版差し止め、損害賠償請求訴訟の話が出てくる。不勉強な私はこの本のことも訴訟のことも全く知らなかったので、『大阪ミナミの貧困女子』を古本で購入して読んでみた。つまらない本だったが、村上氏が執筆担当された35頁〜50頁だけが、たいへん面白く、輝いているように思えた。

相対的貧困率

2024年04月20日 09時11分11秒 | 社会・文化・政治・経済

生活困窮者を巡っては「自己責任論」が根強くあるが、問題は困窮に至った経緯ではなく、困窮から抜け出せないことだ。

誰もが再起できる社会でなければならない。

ネットカフェに滞在したり、知人の家を転々よしたり「広義のホームレス」は少なくない。

若者が困窮に陥る一番の共通点は、非正規雇用での失業だ。

虐待された経験のある人も多い。

困窮問題の根っこには成育環境や雇用形態、病気や障害など他の社会課題がある。

相対的貧困とは、その国や地域の水準の中で比較して、大多数よりも貧しい状態のことを指しています。所得でみると、世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分(貧困線)に満たない状態のことを言います。。

開発途上国だけではなく先進国でも相対的貧困は問題視されています。日本でも調査が行われており、基準となる貧困線は、総務省の全国消費実態調査では 135 万円(2009 年)、厚生労働省による国民生活基礎調査では 122 万円(2012 年)とされています。(注2)

日本の相対的貧困世帯の特徴は、次のように分析されています。

相対的貧困世帯の特徴

・世帯主年齢別では、高齢者が多い(全国消費実態調査では 60 歳以上、国民生活基礎調査では 70 歳以上)
・世帯類型別では、両調査とも、単身世帯と一人親世帯が多く、夫婦のみ世帯、夫婦と子どものみ世帯が少ない
・国民生活基礎調査において、郡部・町村居住者が多い。

(内閣府・総務省・厚生労働省:「相対的貧困率等に関する調査分析結果について」、P98より)


相対的貧困はそれぞれの国や地域の状況を反映するものなので、日本の調査分析結果を他国にあてはめることはできません。社会経済的環境や生活水準、人口構造などを考慮したうえで、貧困線のもつ意味を分析する必要があります。

絶対的貧困の定義

絶対的貧困とは、国・地域の生活レベルとは無関係に、生きるうえで必要最低限の生活水準が満たされていない状態を示します。私たちが一般に「貧困」と聞いてイメージするのはこちらでしょう。

現在では世界銀行の定めた国際貧困ラインを基準に、衣食住など、最低限必要とされる生活物資を購入できる所得または支出水準に達していない人々のことを絶対的貧困者と呼んでいます。(注1)

世界銀行は2015年に、1日1.90ドルを国際貧困ラインに改定しました。ただしこの貧困ラインの妥当性について、世界銀行では以下のとおり指摘しています。

[貧困ラインの引き上げ]:世界が豊かになり極貧が局地的現象になることに伴って、世界中のすべての国々の貧困層の定義として1日当たり1.9ドルという基準は果たして妥当か、という疑問が出てくる。
世界の半数以上の国において極貧人口の割合は3%かそれ以下の水準であるが、これらの国で極貧との闘いが終わったことを必ずしも意味しない。現在、世界銀行は低から高中所得国の実情を考慮し、従来の1日あたり1.9ドルの貧困ラインを補完する形で、1日あたり3.2ドル及び5.5ドルの貧困ラインとした報告も実施している。
この整理によれば、2015年、世界人口の4分の1が1日あたり3.2ドル、半分近くが1日あたり5.5ドル以下で生活している。

国際農研:世界銀行2018「2018年版 貧困と繁栄の共有:貧困のパズルを解く[Poverty and Shared Prosperity 2018: Piecing Together the Poverty Puzzle]」概要」より(注5)


絶対的貧困は、南アジア地域とサブサハラ・アフリカ地域などの途上国に集中しています。こうした地域では、低い教育水準の低さや高い乳幼児死亡率などが常態化しているため、国際社会として対応すべき課題となっています。(注3,注4)

相対的貧困率について

相対的貧困はあまり表面に表れてこないため、絶対的貧困より可視化されにく状況にあります。

しかしながら日本をはじめ先進国と呼ばれる国にも存在している深刻な問題です。そうした相対的貧困という地域社会内の格差を測る指標として、「相対的貧困率」について解説します。

相対的貧困率の算出方法

相対的貧困率の算出方法について、厚生労働省は次のように述べています。


国民生活基礎調査における相対的貧困率は、一定基準(貧困線)を下回る等価可処分所得しか得ていない者の割合をいいます。

貧困線とは、等価可処分所得(世帯の可処分所得(収入から税金・社会 保険料等を除いたいわゆる手取り収入)を世帯人員の平方根で割って調整 した所得)の中央値の半分の額をいいます。 これらの算出方法は、OECD(経済協力開発機構)の作成基準に基づきます。

厚生労働省:国民生活基礎調査(貧困率)「よくあるご質問」より


つまり相対的貧困率とは、世帯所得が全世帯の中央値の半分未満である人の比率を示しています。

2015年の調査によると日本の相対的貧困率は15.6%、子どもの貧困率は13.9%という結果でした。そして一人親家庭の相対的貧困率は50.8%と、とても深刻な状態であることが明らかになりました。

相対的貧困率の国際比較

2030年までにあらゆる形態の貧困を無くし、全ての人々が豊かで平和に暮らすことができるよう、持続可能な開発目標(SDGs)が設定されました。世界の国々や援助機関などが目標を達成するために努力を重ねていることで、国際貧困ラインを下回る絶対的貧困層の数は年々減少しています。

絶対的貧困層の多くはサブサハラ・アフリカや南アジアに集中しています。

しかし、中進国や先進国などの経済が発展している国々も貧困と無縁ではありません。国内に相対的貧困が存在しているからです。

OECDは先進国の相対的貧困率を算出し、国際比較をしています。

2017年の発表によると、日本の相対的貧困率は先進国35カ国中7番目に高いということが明らかとなりました。

相対的貧困率が一番高いのはイスラエル、次いでアメリカ、トルコ、チリ、メキシコ、エストニア、日本、という順番です。相対的貧困率が一番低いのはアイスランドで、その次にデンマーク、チェコと続きます(注9 P22)。

相対的貧困率が高ければ、国内の格差が大きいことを示しています。日本は2000年代中頃から相対的貧困率のOECD平均値を上回っており、格差が大きい状態が続いているのです。

相対的貧困に対するワールド・ビジョンのアプローチ

相対的貧困にある人々に対して、ワールド・ビジョンはどのような支援を行っているのでしょうか。ワールド・ビジョンの活動について解説します。

チャイルド・スポンサーシップ

子どもは貧困の影響を直に受けてしまい、相対的貧困に陥りやすいというリスクがあります。ワールド・ビジョンは、相対的貧困状態にある子どもを対象にチャイルド・スポンサーシップを通した支援活動を実施しています。

チャイルド・スポンサーシップは、子どもたちが健やかに成長できる持続可能な環境を整えることを目指しています。支援地域の人々とともに水衛生保健、栄養教育、生計向上等に取り組み、子どもを含む地域全体が貧困から抜け出せるよう手助けをします。

また、チャイルド・スポンサーシップを通して開発援助活動を実施し、活動の成果を地域の人々自身が将来にわたって維持し、発展させるために人材や住民組織の育成にも力を入れています。


難民支援

難民は絶対的貧困だけではなく、相対的貧困の状態でもあります。ワールド・ビジョンは難民支援を積極的に行い、未来に希望を持てるように支援をしています。

ワールド・ビジョンの活動の大きな柱のひとつに緊急人道支援があります。

紛争により住む場所を追われた人々は、貧困と命の危機に直面しています。緊急援助活動は人々の命を守るために、文字通り時間との戦いとなるのです。緊急人道支援募金を常時受け付けており、いつ起こるとも知れない突発的な紛争に備えています。

難民支援には長期的な支援も必要です。難民キャンプで何年も暮らす人々のために教育・職業訓練の支援や、将来的には紛争地の復興支援や難民再定住などのプログラムも実施していかなくてはなりません。

ワールド・ビジョンは、難民のなかでも特に子どもにフォーカスしたキャンペーンTake Back Future ~難民の子どもの明日を取り戻そう~」 を、2018年から4年間の計画で展開しています。教育を通して、紛争や貧困により移動を強いられる子どもたちに対する暴力を撤廃し、暴力が繰り返されない未来を築くことを目指しています。

難民支援活動は、皆さまからの募金によって成り立っています。「難民支援募金」へのご協力をお待ちしています。

相対的貧困とは?絶対的貧困との違いや相対的貧困率についても学ぼう

「相対的貧困」「絶対的貧困」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。貧困状態を示す代表的なこのふたつの考え方について、どのような違いがあるのか定義を紹介し、なかでも日本で問題となっている相対的貧困率について解説します。

相対的貧困とは?

まずは相対的貧困と絶対的貧困の、それぞれの定義をみてみましょう。

実は日本もランクイン!世界の貧困率の高い国(2021年9月まとめ)

世界の貧困率の高い国についてご紹介します。

貧困には、絶対的貧困と相対的貧困の2つの考え方があり、相対的貧困については、日本は先進国の中でも貧困率が高いという調査結果があります。

*2021年9月22日調査情報です。

「貧困」の2種類の考え方と貧困率

まず、「貧困」には2つの考え方があります。それが、「絶対的貧困」と「相対的貧困」です。

この2種類の貧困について、国際機関であるOECDが調査し、貧困率のランキングなどを発表しています。

OECDの正式名称は「Organisation for Economic Co-operation and Development」、日本語では「経済開発協力機構」と呼ばれています。OECDの目的は、国際経済の発展を協議することで、日本を含む先進国を中心に現在37か国が加盟しています。

貧困率

貧困率とは、所得が低く経済的に貧しい「貧困」の状態にある人が、その国の全人口に占める割合のことです。絶対的貧困率と相対的貧困率がありますので、2種類の貧困率のそれぞれの意味についてご紹介します。

「絶対的貧困」と「絶対的貧困率」

まず「絶対的貧困」とは、衣食住が充実しておらず、最低限の生活がままならない状態のことを意味しています。貧困、と聞いて多くの方が思い浮かべる状態がこの「絶対的貧困」かと思います。

世界銀行の定義では、1日あたり1.90ドル(約200円)以下で生活をすることを、「絶対的貧困」の定義としているようです。

「絶対的貧困率」は、この「絶対的貧困」の状態にある人が、その国の全人口に占める割合を示しています。

「相対的貧困」と「相対的貧困率」

一方で、「相対的貧困」というのは、「世帯所得が全世帯の平均値以下」という意味です。つまり、国の世帯所得の平均値が高い場合、絶対的貧困のような状態でなくても、その国の中では「相対的貧困」となり得ます。

「相対的貧困率」とは、この「相対的貧困」の状態にある人が、その国の全人口に占める割合を示しています。

つまり、「相対的貧困率」が高いということは、国の中で格差が広がっていることを示しています。

絶対的貧困の国は発展途上国が多い

まずは「絶対的貧困」の状態にある人の割合が多い国について、ご紹介します。絶対的貧困の国の上位5カ国は下記の通りです。

 

地域または国別に見た世界の貧困層の割合(2015年)
1位 インド
2位 ナイジェリア
3位 コンゴ民主共和国
4位 エチオピア
5位 バングラデシュ

以上の上位5カ国に、世界の貧困層の約半数が集中しているようです。また、地域別で見ると、南アジア地域とサブサハラ・アフリカ地域の貧困層が多いことがわかります。