利根輪太郎の競輪人間学 やはり出目作戦だ!

2024年04月12日 23時40分37秒 | 未来予測研究会の掲示板
 FⅠ 松坂競輪 丸井食品鶏焼き肉CUP
2日目(4月12日)
 
8レース
 
7-1 3,690円(12)
 
7-1-5 1万1,490円(34)
 
9レース 
 
6-1 4,580円(15)
 
6-1-2 2万1,510円(69)
 
10レース
 
4-7 320円(1)
 
4-7-1 2,380円(6)
 
11レース?
 
並び予想 4-2 7-1 3-5-6
 
レース評

宿口−中田は初日に続いての連係。今日こそワンツーを決める。阿部は磯島次第で浮上。格を信頼するなら稲垣も面白い。

1番人気 7-1(2・2倍)

 

出目の流れから1番が軸となることが、注目された。
そこで、1-7 7-1の3連単勝負とした。
 
3着は人気薄の3番と4番と6である。
各500円とした。
 



選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 中田 健太   12.0 S 捲乗り鋭く
2 7 宿口 陽一 1/4車輪 12.1 B ロング捲り
3 4 磯島 成介 1/2車輪 12.0     捲られ逃粘
4 5 稲垣 裕之 1/2車輪 11.9     目標捲れず
× 5 2 阿部 力也 タイヤ差 12.0     コースなく
  6 6 吉田 健市 3/4車輪 11.8     不発ライン
7 3 脇本 勇希 4車身 12.5     捲り不発で

 

2

未発売
2

1=7
190円(1)
3

1=4=7
1,440円(5)


1=4
850円(12)
1=7
130円(1)
4=7
710円(11)
未発売
1-7
630円(2)
1-7-4
6,270円(14)

 

 

イスラエル国家の矛盾

2024年04月12日 22時00分59秒 | 社会・文化・政治・経済

【10日 詳細】米大統領 イスラエル首相の対応を批判

アメリカのバイデン大統領は9日放送されたメディアのインタビューで、ガザ地区での軍事作戦を続けるイスラエルのネタニヤフ首相の対応について「彼のしていることは間違いだ。彼のやり方には賛成できない」と述べて批判するとともに、直ちに停戦に応じて十分な食料や医薬品などの搬入を行えるよう、対応を強く求めました。

※イスラエルやパレスチナに関する日本時間4月10日の動きを随時更新してお伝えします。

バイデン大統領が批判「彼のしていることは間違い」

ガザ地区ではイスラム教の断食月ラマダンが明け、本来なら「イード」と呼ばれる祝日の期間に入り、祝いの雰囲気に包まれますが、地元のメディアは10日、前日の夜から朝にかけてイスラエル軍による空爆などがあり、中部では14人が死亡したと伝えています。

イスラエルの軍事作戦で人道危機が深まる中、アメリカのバイデン大統領は事前に収録され9日放送されたアメリカのテレビ局、ユニビジョンのインタビューで、イスラエルのネタニヤフ首相の対応について「彼のしていることは間違いだ。彼のやり方には賛成できない」と述べて、批判しました。

そのうえで「イスラエルには、直ちに停戦に応じ、今後6週間から8週間、食料や医薬品をすべて搬入できるようにすることを求める。人々に必要な医薬品や食料を届けないことに弁解の余地はない」と述べて、対応を強く求めました。

バイデン大統領は今月4日のネタニヤフ首相との電話会談で、民間人の保護などでイスラエル側の対応に変化が見られなければアメリカの政策を見直す可能性があると警告するなど、圧力を強めています。

イスラエル首相府 “支援物資をガザ地区に搬入”

一方、イスラエル首相府の報道官は9日、これまでで最多となるトラック400台以上の支援物資がガザ地区に搬入され、物資は足りているなどとしたうえで「国連が分配に失敗し、ハマスが盗んでいる」などと述べ、責任は国連とハマスにあるとの主張を展開しました。

イスラエル首相 ラファ地上作戦 実行を強調

イスラエルのネタニヤフ首相は、多くの避難者が身を寄せるガザ地区南部のラファへの地上作戦について、あくまでも実行する考えを重ねて強調しました。

イスラム組織ハマスが戦闘の休止などをめぐる交渉で示された提案について検討するとしている中、ハマス側に圧力をかけ揺さぶるねらいもあるとみられます。

ガザ地区 “死者さらに153人増える” 現地の保健当局

ガザ地区では、イスラエル軍が南部ハンユニスからの撤収を明らかにしたあとも空爆などが続き、地元のメディアは9日、南部や中部で複数の死傷者が出たとしています。

現地の保健当局は、これまでの死者はさらに153人増え、3万3360人になったと発表しました。

米国務長官 “来週 イスラエルと協議する場設ける見通し”

イスラエルのネタニヤフ首相は9日、「世界中のいかなる勢力もわれわれを止めることはできない」と述べ、多くの避難者が身を寄せるガザ地区南部のラファへの地上作戦について、あくまでも実行する考えを重ねて強調しました。

これについて、アメリカのブリンケン国務長官は9日、記者会見で「イスラエル側から伝えられた日付けはない」と述べ、来週、作戦をめぐってイスラエルと協議する場を設ける見通しだと明らかにしました。

その上で「協議の前に何らかの行動がとられるとは考えていない」と述べ、すぐに作戦が実行されることはないという見方を示しました。

ハマスは、戦闘の休止と人質の解放などをめぐる交渉で、示された提案について検討するとしていて、イスラエル側としてはハマス側に圧力をかけ揺さぶるねらいもあるとみられます。

トルコ イスラエルへ輸出制限措置 イスラエルは対抗措置の考え

トルコの商務省は9日、イスラエルに対し、主な輸出品となっている鉄鋼材のほか、セメントやジェット燃料など、54品目の輸出を制限する措置をとると発表しました。

発表では「イスラエルがガザ地区での即時停戦を宣言し、十分な量の人道支援物資を途切れることなく届ける許可を出すまで、措置を続ける」としています。

一方、イスラエルのカッツ外相は、自身のSNSへの投稿で「エルドアン大統領はハマスの殺人者たちを支援し、トルコ国民の経済的利益を犠牲にしている」と反発したうえで、「トルコへの輸出を止める製品のリストの作成を命じた」として、対抗措置をとる考えを示しています。

イスラエルの中央統計局によりますと、去年イスラエルはトルコからの輸入額が46億ドルで、中国やアメリカなどに次いで5番目の規模でした。

トルコでは、エルドアン大統領がイスラエルを「テロ国家だ」などと繰り返し非難しながら、貿易を続けていることに対して、「パレスチナへの裏切りだ」とする声もあがっていて、輸出制限はこうした国内世論を意識したものとみられています。

 

シオニスト運動への態度
イエスが聖地に帰還するというキリスト教徒の信仰はシオニズムとイスラエルの支配層に深く根ざしている。

ユダヤ系アメリカ人社会におけるシオニズムに対する支援は小さなものだったが、1912年に結成されたFederation of American Zionists[訳語疑問点]のルイス・ブランダイスが関与を始めると[3]、1914年にはProvisional Executive Committee for General Zionist Affairs[訳語疑問点]が創設され、「シオニスト問題が改善される時が来るまで取り組む」とされるシオニスト機関によって地位の向上が図られた[4]。

1917年のイギリスのバルフォア宣言は当時のシオニスト運動を前進させ、公式な正統性を与えた。

ウッドロウ・ウィルソンは苦境にあったヨーロッパのユダヤ人に同情的であり、彼は1919年にアメリカの政策はバルフォア宣言に従うと繰り返し述べたが、シオニズムを公式に支持することはなかった。[5]

しかしアメリカ議会では、パレスチナにユダヤ人の国家を建設することを支持することが述べられた最初の共同決議であるロッジ=フィッシュ決議[6] が1922年9月21日、議会を通過した。[7][8]。

同日、イギリスによるパレスチナの委任統治が国際連盟の理事会によって承認された。戦争中の議会による2つの試みにもかかわらず、追従政策は第二次世界大戦後まで続いた。

戦争のさなかのアメリカの外交政策の意思決定はしばしば日和見的であり、議決は戦時の需要によって左右されていた。

1942年5月のビルトモア会議において、シオニスト運動は伝統的なシオニスト政策から根源的な新たな出発点を迎え、「パレスチナにユダヤ人の共同体を建設すること」を求め[9]、その目標を述べた[10]。

戦争が終わり、「新しい戦後時代は干渉しない態度を取った戦前の特徴とは対照的に、アメリカの中東における政治的、経済的問題に対する徹底的な関与を目の当たりにした。トルーマン政権のアメリカはソビエトの脅威、イスラエルの建国、そして石油という3つの課題に直面し、この地域におけるアメリカの利害について、これら3つの問題すべての根源的原因に対する政策を明確にせざるを得なくなった」。[11]

イスラエルの国家の承認
それまでのアメリカの大統領は、ユダヤ人の祖国建設計画を支持する国内の市民グループや労働組合、政党とともにアメリカと世界のユダヤ人のコミュニティーのメンバーからも活動的な援助を受け、勇気づけられていたが、1917年のイギリスのバルフォア宣言について言及されると、彼らは公式に「追従」を続けた。

ルーズベルト、トルーマン政権を通じて旧陸軍省と国務省はソビエトとアラブ諸国の関係とアラブ諸国によるアメリカへの石油供給の制限の潜在的可能性について認識しており、アメリカがユダヤ人に代わって調停を行うことの危険性について助言した[12]。

この地域における紛争は続き、ヨーロッパにおけるホロコーストの生存者の人道的な状況も悪化したため、1947年11月29日、アメリカの支持を得て、国連総会においてユダヤ人とアラブ人の国家を建設するとする決議181号(パレスチナ分割決議)が採択され、イギリスの撤退に影響を与えた。後にトルーマンがシオニストの支持者による激しいロビー活動が行われていたと述べた[13]。 決議は、アラブ諸国から拒否された。


1951年5月8日、ダヴィド・ベン=グリオン首相(右)とアバ・エバン(中央)と会談するトルーマン大統領
委任統治の終わりが近づいていたが、ユダヤ人の国家を承認するかどうかについての論争は続き、トルーマン大統領とトルーマンの内政および選挙対策アドバイザーであるクラーク・クリフォードと国務省、国防総省との間で大きな意見の相違が認識されるようになった。トルーマンはシオニストに対し同情的であったが、ジョージ・マーシャル国務長官はアメリカがユダヤ人の国家建設の後押しをするのはムスリム世界との関係に悪影響を及ぼし、中東の石油へのアクセスを制限し、地域を不安定化させるのではないかと考えていた。

1948年、トルーマンはオーヴァル・オフィスでマーシャル国務長官、ロバート・A・ラヴェット国務次官、クラーク・クリフォード大統領顧問ら数人と会い、パレスチナの状況について話し合った。クリフォードは新しいユダヤ人国家の建設を国連の分割案に基づいて行うべきだと主張した。マーシャルはクリフォードの主張に反対し、彼らが選挙を行った後の国内的な政治決断に基づくべきだとした。マーシャルはもしトルーマンがクリフォードの助言に従い、ユダヤ人国家を承認するならば、選挙でトルーマンの対立候補に票を投じると語った。

トルーマンは彼の意見を話し合いの場では明確にしなかった[14]。2日後の1948年5月14日、トルーマン政権のアメリカはイスラエルの事実上の承認をする最初の国になり、11分後、イスラエルは単独で独立を宣言した。

この予期せぬ決定の後、アメリカのウォーレン・オースティン国連大使は彼の国連におけるオフィスを後にした。マーシャル国務長官はアメリカの代表団がすべて辞職してしまうことを避けるため国務省の職員を国連に送った。[14] 法的な承認は1949年1月31日だった。

アメリカ人のラルフ・バンチによる国連における調停とそれに続く1949年の停戦合意によって、1948年から続いた第一次中東戦争は終結した。停戦の執行に関連して、アメリカはイギリス、フランスとともに三国宣言に署名した。その中で、国境地域での暴力行為や休戦ラインを引くことを国連の内外で回避することが誓約され、この地域において平和と安定をもたらすためにとる関与政策の概要が規定され、暴力の行使や脅迫に対する異議、この地域における軍拡競争に対する異議が繰り返し述べられた。

地政学的状況が急速に変わっていく中、一般的なアメリカの中東政策は、アラブ諸国の独立、産油国の開発を支援し、軍拡競争を防ぎ、アラブとイスラエルの紛争に対して中立を守りながら、ソビエトの影響力がギリシャ、トルコ、イランに及び、足がかりになるのを防ぐことだった。当初、アメリカの政策立案者は海外支援をこれらの目的の支援のために利用した。

アメリカ政府の外交政策
アイゼンハワー政権(1953-1961)
イスラエルが建国当初の困難な時代にあっても、アメリカはイスラエルに対する少なからぬ経済的支援を与えた。そのほとんどは基本的な食料であり、無償ではなかった。西ドイツからイスラエルに国家の歳入の大きな割合を占める程の賠償金が支払われると、それらは国内の開発のために使われた。

フランスはこの頃のイスラエルの主要な武器供与国となり、イスラエルに進んだ軍事的な装備と技術を与えた。この支援は1955年9月、チェコスロバキアと軍備協定を結んだガマール・アブドゥル=ナーセル大統領のエジプトの脅威にイスラエルが対抗するためだと思われた。1956年のスエズ危機の間、フランス、イスラエルとイギリスはナーセルのスエズ運河奪還とその国有化を防ぎ、シナイ半島の西部を一部占領してアカバ湾の自由な航行を保証することなど様々な理由を背景としたセーヴル秘密協定を締結した[15]。これに反応してアメリカはソ連の協力を得て、エジプトの代わりに国連が介入し、イスラエルを撤退させた。その後、ナーセルはアメリカと緊密な関係を作りたいと願望を表明した。この地域への影響力を高めることやナーセルのソ連への接近を防ぎたい願望はあったが、アメリカの政策は中立を保ち、イスラエルとの同盟関係を強めすぎることはなかった。1960年代初頭、アメリカはホーク対空ミサイルを含む先進的ではあるが防衛的な兵器をイスラエル、エジプトとヨルダンに売却し始めた。

ケネディ、ジョンソン政権(1961-1969)

エルサレムの森にあるジョン・F・ケネディを追悼して建設されたヤド・ケネディ。外観は木の切り株のような形をしており、彼の短い生涯を示唆している。
リンドン・B・ジョンソン大統領のアメリカでは、イスラエルに対して全幅の信頼を寄せていたが、その支援に際し、全く疑いがないわけではなかった。1967年の六日戦争の前、アメリカの政権は偏愛主義が現れるのを避けるよう注意を払っていた。ジョージ・レンツォウスキーは著書『アメリカの大統領と中東』の中で、「ジョンソンの不幸な、事実、悲劇的な大統領時代」と述べ、「アメリカの中東における態度」について、米以関係およびアメリカとアラブ諸国の関係が転換期を迎えたと記した。 彼はアメリカの中東認識について1948年以前の「西洋世界の最もありふれたもの」から変化して、「魅力は薄れたものの、スエズ危機におけるアイゼンハワーの忍耐は中東の多くの穏健派を納得させ、もし実際には愛すべきものでなかったとしても、アメリカは少なくともフェアな国として扱われていた。このアメリカの公平と不偏いう視点はケネディが大統領だったときもまだ優勢だった。しかし、リンドン・B・ジョンソンが大統領になると、アメリカの政策は明らかに親イスラエルのほうへ向きを変えていった」と述べた。1967年の6月戦争はこの印象を確信させ、「1967年から(書いていたのは1990年のとき)アメリカは中東において実際には嫌われていた国ではなかったにせよ、最も信頼できない国だということが明らかになった」と書いている。

戦争に至るまで、アメリカの政権は外国の攻撃から自国を守るというイスラエルの必要性に同情的だったが、アメリカはイスラエルの反応が行き過ぎたものになることや地域が不安定になる可能性を懸念していた。イスラエルとヨルダンの間に起きたサム事件はアメリカにとってとても厄介なものだった。なぜならヨルダンもまた同盟国であり、その後別の事件で破壊された東ゴールメイン運河の建設のために5億ドルを受け取っていたからである。

ジョンソン政権が抱いていた当初の懸念は、この地域で戦争が勃発し、アメリカとソ連がそれに巻き込まれることだった。この地域の国々とソビエトによる、初めはホットラインも使われた外交的な激しい交渉も戦争を回避することはできなかった。イスラエルがエジプト空軍を先制攻撃したとき、外交的な解決方法が可能だと感じていたディーン・ラスク国務長官は失望してしまった。

1966年、ソ連製のMiG-21戦闘機に乗っていたイラクのパイロット、ムニール・レドファはイスラエルに着陸し、乗っていた航空機についてすぐさまアメリカと情報を共有した。

六日戦争でイスラエルのジェット機と水雷艇がエジプト海を航行していたアメリカ海軍の技術調査艦リバティーを攻撃し、34人が死亡、171人が怪我をした。イスラエルはリバティーをエジプトの補給艦エル・クセイルと間違い攻撃したと主張し、同士討ちの実例となった。アメリカ政府は多くの論争はあったもののそれとして受け入れたが、いまだに多くの者が故意であったと信じている。戦争が終わると、ワシントンは多くのアラブ諸国(特にエジプト)が恒久的に親ソビエトに向かったと認識した。1968年、議会の強力な後押しを得て、ジョンソンはファントム戦闘機のイスラエルへの売却を承認し、イスラエルの近隣諸国に対する軍事的優位が確立された。しかし、アメリカはソ連製の武器がこの地域に浸透するのを防ぐため、レバノンやサウジアラビアのようなアラブ諸国に対する武器の供与も継続した。

イスラエルとエジプトが消耗戦争を繰り広げる中、イスラエルのコマンド部隊はロースター53と名付けられた作戦において、ソ連が建設したP-12レーダーの基地を占領した。それ以前には知られていなかった情報がその後アメリカに共有された。

1967年にフランス政府がイスラエルに対する武器の禁輸を課したとき、イスラエルはダッソー・ミラージュ5のデザインをスイス系ユダヤ人の技術者から諜報活動によって入手し、これを基にクフィル (航空機)が製造された。これらのデザインもまたアメリカに共有された。

 


ガザ未曾有の人道危機

2024年04月12日 21時55分46秒 | 社会・文化・政治・経済

ガザ:戦闘開始から半年
命の危機にさらされる子どもたちユニセフの支援報告と今後の優先課題

2024年4月7日ガザ地区

ガザ地区で戦闘が始まった2023年10月7日以降、ガザ地区および東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区一帯で、子どもたちが未曾有の暴力にさらされ、計り知れない苦しみを経験しています。ガザ地区の状況は悲惨で、悪化の一途をたどっています。爆撃が続くこの半年間で、ガザ地区では3万1,923人が命を落とし(そのうち最大70%が女性と子ども)、1万1,874人の子どもを含む7万4,096人以上が負傷したと報告されています。

避難強いられる子ども約85万人

南部のラファでテント前に座る11歳のムハンマドさん(左)と12歳のハラさん姉弟。水や食料を得るために毎日長時間列に並んでいるので、疲れが見える。(ガザ地区、2024年2月撮影)

© UNICEF/UNI544675/El Baba
南部のラファでテント前に座る11歳のムハンマドさん(左)と12歳のハラさん姉弟。水や食料を得るために毎日長時間列に並んでいるので、疲れが見える。(ガザ地区、2024年2月撮影)

子どもはガザの人口のおよそ半分を占めており、約85万人の子どもが避難を強いられています。彼らは、南へ南へと追いやられ、狭い土地に多くの人が押し込められて過密状態にある場所で、食料も保護も、生きていくために最低限必要な物もなく暮らしています。脱水症状、栄養不良、疾病によって子どもたちの命は脅かされており、支援物資の搬入が制限されていることから子どもたちを取り巻く状況は悪化の一途をたどっています。

ガザ北部の子どもの6人に1人が重度急性栄養不良に苦しんでおり、比較的支援が届きやすい南部のラファでさえ、急性栄養不良の子どもの割合は、1月から2月にかけて5%から10%へと倍増しています。ガザ地区の人口の半数にあたる100万人以上が壊滅的な食料不安に直面し、飢饉が迫っていることがさまざまなデータから示されています。

こうした非常に深刻な状況の中、ユニセフ(国連児童基金)の支援はこれまで以上に必要とされています。この紛争が始まって以降、ユニセフが行った重要な対応には、以下のようなものがあります。

  • 3万6,866人の子どもと5,962人の乳児、および2万1,000人の妊婦に、栄養価の高い食品を提供
  • ガザ地区とヨルダン川西岸地区の60万9,785人に命を守るための医療用品を配布。5歳未満の子ども33万7,057人に対する予防接種の支援を強化し、定期接種の普及を目指す予防接種拡大計画を通じて100万回分以上のワクチンを届ける支援を継続
  • 井戸や淡水化プラントを稼働させるために24万5,035リットル以上の燃料を提供したことで、ガザの160万人以上に安全な水を供給
  • 15万1,082人の子どもと養育者に、心理社会的支援を含む救急サービスと子どもの保護サービスを提供

ユニセフの主な優先課題

ベイトラヒヤの自宅が爆撃で破壊され、南部のラファへ避難した15歳のアブラールさん。「兄弟をふたり亡くしました。私の右目にも爆弾の破片が当たりました。視力が落ち、涙が出続けています」と話す。(ガザ地区、2024年3月22日撮影)

最も重要なことは、子どもと民間人の殺傷に終止符を打つために必要な、即時かつ永続的な停戦であり、ユニセフはこの紛争を終結させる影響力を持つ国々やパートナーと共に、断固として訴え続けていきます。

そしてユニセフは、パレスチナの子どもとその家族のために、水と衛生、保健、栄養、子どもの保護、教育、また必需品購入のための現金給付を含む、広範な人道支援を提供し続けます。現時点でのユニセフの主な優先課題は以下のとおりです。

  1. 急性あるいは重度の栄養不足から生じる子どもの消耗症の予防、早期診断、治療のための、総合的な栄養対策の実施
  2. ガザ地区全域への水の供給拡大と、避難世帯への衛生支援の強化
  3. メンタルヘルスサポートや心理社会的支援、おとなの同伴者がいない、もしくはおとなと離ればなれになった子どもの特定および家族との再会支援など、子どもの保護支援の強化
  4. 学習機会の拡大による教育格差への対応
  5. 妊産婦や授乳中の女性および障がいのある子どもへの追加支援を伴う、脆弱な立場にある世帯への多目的現金給付
  6. コミュニティ内での前向きかつ持続可能な変化を促進するための社会・行動変容戦略

2024年、ユニセフはガザでの戦闘によって深刻な影響を受け続けている150万人の子どもを含む210万人の緊急および長期的なニーズに対応するための、パレスチナにおける人道支援に必要な資金として、2億6,330万米ドルを求めています。世界中からこれまでに1億227万7,067米ドルの寛大なご寄付が寄せられていることに、深く感謝申し上げます。しかし、パレスチナ全土で子どもたちの支援ニーズが増え続けており、それらに応えるため、ユニセフはさらなる資金を必要としています。

 

ユニセフ「ガザ人道危機 緊急募金」 ご協力のお願い

(公財)日本ユニセフ協会は、ユニセフ「ガザ人道危機 緊急募金」を受付しています。最も支援を必要としている子どもたちとその家族に支援を届けるため、ご協力をお願い申し上げます。

ガザ人道危機 緊急募金

募金するクレジットカード/ネットバンク/Amazon Pay
携帯キャリア決済/コンビニ払い

全国の郵便局(ゆうちょ銀行)窓口からのお振込みも可能です。
振替口座:00190-5-31000 口座名義:公益財団法人 日本ユニセフ協会

*通信欄に「ガザ」と明記ください。
*窓口でのお振込は、送金手数料が免除されます。


: 小泉八雲 日本美と霊性の発見者

2024年04月12日 11時16分13秒 | 社会・文化・政治・経済

小泉八雲は、日本美と霊性の探求者として知られています。彼は教師として日本各地を訪れ、庶民生活の中にある「単純、善良、素朴さ」を愛する一方で、西洋化を推し進める「新日本」に幻滅しました。

彼の足跡と心の軌跡を辿るために、作品、書簡、講義録などから彼の人物像を探求する入門書があります。

この本は、八雲の手紙や講義録、再話文学を通じて、彼が見つめ、追い求めたものに焦点を当てています12

以下は、本書の概要です:

  • タイトル: 小泉八雲 日本美と霊性の発見者
  • 著者: 池田 雅之
  • 出版日: 2021年9月18日
  • ページ数: 288ページ
  • 言語: 日本語
  • 出版社: KADOKAWA

著者について

●池田 雅之:三重県尾鷲市出身。早稲田大学名誉教授。比較文学・比較基層文化論専攻。著書に『ラフカディオ・ハーンの日本』『猫たちの舞踏会‐‐エリオットとミュージカル「キャッツ」』『想像力の比較文学』、編著に『てらこや教育が日本を変える』『古事記と小泉八雲』『共生と循環のコスモロジー』、訳書に『キャッツ』『新編 日本の面影』『新編 日本の怪談』などがある。
 
小泉八雲の生き方に学ぶ
 
異文化や人種に偏見のない<開かれた心>
私の一番の関心は、八雲の54年間にわたる生涯の「オープン・マインド(開かれた心)」を抱いて生き抜いてきた、その生き方にある。
コロナ禍と地震、津波などの天変地変、そしてウクライナ対ロシアをはじめとする世界戦争の予兆に息をひそめながら、暮らしている。
そんな危機の時代のさなかにあって、八雲のマイノリティー文化や人種に対する偏見のない「オープン・マインド」の生き方は、とりわけ注目に値する。
その優しいまなざしは、人間ばかりでなく自然と動植物にも注がれている。
私は八雲の「オープン・マインド」という生き方を学ぶことによって、失われた本来の日本文化をとりもどし、世界平和構築へのメッセージを発信することができるのではないかと、ひそかに考えている。
 
 
 
この本から日本人じゃなくても、日本と海外のバランス感覚を大切にしていくことが重要であることを学びました。
どちらが良いのではなく、両方とも尊重しながら、ときには片方により、ときには少し離れて見てみると言うことによって、より深くのではないかと感じました。
多様な視点を身に付け、歴史的視点から人物像を深めたい方にオススメの一冊です。
 

『雪女』『耳なし芳一の話』などの再話文学で知られる小泉八雲とは何者だったのか、を
真:彼の日本の霊的(gohstly)なものとの出会い
善:学生との魂の触れ合いを大切にする教育
美:夢の世界を通しての魂の真理の追究という形で描き出していきます。
二十世紀の人間中心時代には評価しきれなかった小泉八雲は
二十一世紀に再評価されていくのか、新鮮な切り口での紹介と言えるでしょう。

2009年刊行の『ラフカディオ・ハーンの日本』を文庫化し、大幅に加筆や訂正などを行った一冊です。
なので、前著を読んだ方には重複を感じられると思いますが
(呼称は”ハーン”から”八雲”に変えて統一されています)、
文庫化を機会に読み直したり、知人に紹介するのにも良いでしょう。
 
 
 
池田 雅之 (監修)
 
怪談や神話について多数の著書を遺し、日本人のこころを世界に伝えた小泉八雲。
世界を遍歴したのち、憧れの日本にたどりついた八雲の目を通して、日本文化の深層を見つめる。

《目次》
◎巻頭言
世界に広がる小泉八雲のオープン・マインド 小泉凡

◎序章 小泉八雲を知る

◎第1章 小泉八雲が見た日本のこころ──『怪談』と『古事記』
概説=池田雅之・三浦佑之
■『怪談』その背景を探る
・八雲の怪談を読む 耳なし芳一/むじな/雪女/ちんちん小袴
・八雲の怪談文学が語りかけるもの
・Japanese Fairy Tales
・父八雲を偲ぶ 長男一雄の『妖魔詩話』
■『古事記』日本の源郷としての出雲

◎第2章 小泉八雲が歩いた日本
概説=池田雅之
・憧れの日本にやって来た 鎌倉・江ノ島
・日本再発見 松江・美保関・隠岐・琴浦
・日本人になった八雲 熊本―東京
・別天地・焼津

◎第3章 小泉八雲という人
・猫の仲人──セツと八雲 出久根達郎
・熊本時代の小泉八雲 西川盛雄
・文筆家八雲──来日の喜びを語る 池田雅之
・発見──現代日本人作家と小泉八雲 高橋一清

◎第4章 小泉八雲の生涯
概説=藤本友美
・青少年時代 ギリシャ・アイルランド/アメリカ・西インド諸島
・そして日本へ 横浜―松江―熊本―神戸―東京
・八雲の没後

【エッセイ】
スサノオが帰ってきた 町田宗鳳
怪談は声を待っています 原 良枝
耳なし芳一と能 安田 登
再話文学という方法 牧野陽子
出雲大社と八雲 千家和比古
「ケルト」のハロウィンと「送り盆」の夢幻 鶴岡真弓
八雲と漱石 池田雅之
内界の探求者 若松英輔
八雲とTsunami 中上 紀
八雲とケルトと出雲 松本侑子

【コラム】
未来の思想家ラフカディオ・ハーン 池田雅之
海外から見た八雲 牧野陽子
八雲はなぜ人に愛され、慕われたのか 池田雅之
セツへ宛てた八雲のカタカナ手紙 稲垣明男
八雲の江ノ島詣で 富安千鶴子
焼津に今も生きる八雲 坪井れい子
八雲と松江 内田融
 
 

小泉八雲に関するやや大判(A4用紙より幅が 1cm広め)な一冊、扱いと保管に不便な分、写真が大きくて豊富で見やすく、目で楽しめるムックです。
『耳なし芳一』『むじな』『雪女』『ちんちん小袴』も収録され、見るだけでなく、読んでも楽しめる優れものです。
多彩な執筆陣が1ページから見開きの短いコラムを寄せており、”八雲と漱石”,”耳なし芳一と能(住職による嫉妬)”,
”怪談は声を待っています(音読による芸術性の変化)”、など気軽に読めてなおかつ味わい深い文章を
つまみ食い的にも楽しめます。

ひと目がつくところに置いておいて、通りがかった人にぱらぱらっと読んでもらってもいいですね。
幅広い人々に目にして頂きたい一冊です。