茨城県 龍ヶ崎の由来

2019年04月12日 21時32分10秒 | 社会・文化・政治・経済

茨城県龍ヶ崎の由来
昭和34年(1959)に編纂された『龍ケ崎市史』(和歌森善郎著)によると、古代の龍ケ崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことがしばしばありました。
川の水を巻き上げて天に届く竜巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍が立つ崎」=龍ケ崎となった、という説です。

江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』によると、故城の地(現在は竜ケ崎一高が建つ台地。
竜ケ崎二高が建つ場所との説も)が独立してそそり立ち、北側の稲敷台地に続いているさまに由来していると書かれています。
故城の台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせるから「龍ケ崎」となった、という説です。
この記述により、江戸時代には「龍ケ崎」の地名が使われていたことが分かります。

龍崎氏が治めていたから
龍崎氏(読みが“りゅうざき”なのか“りゅうがさき”なのかは不明)は、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫です。龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395・室町中期)の文献にその名前が記されています。鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に属していました。龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが文献から明らかになっています。この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説です。
一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。

伊達藩は天正19年(1591)、豊臣秀吉の領地替えによって新たに仙台の地を与えられた伊達政宗を初代藩主とする仙台藩の別称です。

政宗は、慶長11年(1606)3月3日に徳川幕府の代官から常陸国河内郡と信太郡26カ村(1万石余り)を与えられて、仙台藩常陸国龍ケ崎領が誕生します。現在の龍ケ崎市域の大半は河内郡に属し、政宗は、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地としたため龍ケ崎は繁栄しました。街道の出入り口には「仙臺領」と刻んだ石柱を建て、治安と防衛のために番屋をおいたといわれています。

シダレザクラで有名な般若院は、寛永5年(1628)に伊達家代々の位牌所の御朱印として3石を受けています。

市役所近くにある愛宕神社は、寛永18年(1641)に時の仙台藩主伊達陸奥守忠宗(政宗の子)の創建と伝えられます。
伊達家は代々愛宕神社を崇拝し、仙台には京都から勧請した愛宕社が祀られています。
幕末に北海道に移住した仙台領民は数多くいますが、いずれの村にも愛宕神社があるそうです。
龍ケ崎に愛宕神社を祀ったのも同じで、龍ケ崎領民を火災から守り、さらに村人の行楽地としたのでしょう。

当館には、「仙臺領」の石柱など、仙台藩をしのばせる物が展示されています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿