幸恵の後に簡易宿の温泉内湯に浸かった大沢はカラスの行水のようであった。
「カラス(烏)の行水」とは、「入浴時間が短いことのたとえ」。
大沢は、浴衣と帯を手に巻くようしており、その全裸姿は既に、臨戦態勢そのもので、陰茎が大沢の意志を示すように、そそり立っていたのだ。
幸恵は唖然とするとともに「恥ずかしいから、灯かりを消してね」と毛布で顔を覆った。
ベッドにもぐり込み、幸恵の身を引き寄せた大沢は「もう、後には引き返せないですね」と幸恵の乳房をまさぐる。
「大沢さん、決して拘りを残さないでね」幸恵は覚悟を見めて身を開いた。
そして、「これは、愛ではないのね」とすでに胸の内で、逃げ道を用意していた。
大沢は幸恵と一つになるなりがら、妻のことを想い続けていた。
大沢にとって、妻との関係はぎりぎりのところまでにきていた。
愛憎の二字が錐のような鋭利さで大沢の柔らかい心臓を抉っていた。
妻には、結婚後も忘れらない男がいて、しばしば男に会いに行っていたのだ。
その妻の不貞を、大沢に告げたのは、皮肉にも憎悪にかられた相手の男の妻であったのだ。
それは、憎悪の反作用とも言うべきものであったのだろうか。
夫に対して、疑心暗鬼にかられた妻は、私立探偵に依頼して夫の行状を調べるあげる行為に及ぶ。
それにもとどまらず、相手の妻は、大沢にまで接触しに来たのである。
大沢は地獄を見る思いがするばかりであった。
幸恵には、同僚の大沢の夫婦間の背後に、異常な愛憎劇が隠されていたことを知る由もなかった。
男と女の致し方ない人生の絡み合いに対して、幸恵は無知とも言えた。
幸恵にとっては、夫は初めての男だった。
大沢との愛を貪った簡易旅館を後にしたて幸恵は念を押すように言った。
「大沢さん、決して、拘りを残さないようにしてね。二人だけの秘め事を、いいわね」
大沢は幸恵との性行為が、スポーツの後のような疲労感として感じていることに、むしろ不思議な思がした。
二人には多少の後ろめつがあったとしても、それは第三者人に対してであって、互いの伴侶に対しては、別々の感情があった。
二人は簡易旅館を出て、松林の道下ると、見覚えがある道路に出た。
それは桟橋に通じており、まっ直ぐに行き左に折れると繁華街があって、そこに二人が泊る大きなホテルがあった。
向かい側から一台の乗用車が来て眩しいまでのライトを二人を照らす。
二人はそこで、他人の目をはばかなけばならない立場の身であると痛感する。
幸恵は恥じるような思いで目を伏せる。
すれ違った車はライトで二人の不埒な姿を暗夜の中で煌々と照らし出したのだ。
幸恵は、その車のライトに、心の内部まで映し出されたような羞恥心を覚え、顔を背けた。
「ホテルには、一緒にはとても戻れないね。先に行ってもらおうか」大沢は浴衣を整える仕草をする。
「ええ、私が先に行きます」幸恵は小走りになる。
そして、一度も振り返らない。
忘れていた潮の香りを幸恵は鼻腔に感じた。
自然と胸が熱くなり、涙が溢れてきた。
「おとうさん」夜空を仰ぎ見て幸恵は我知らず呼びかけた。
父が亡くなったのは、ちょうど今のようなさわやかな時候のことであった。
「なぜ、こんなさわやかな季節に人が死ぬの」幸恵は父の死に、改めて哀しみを嚙み締めた。
ホテルでは、既に会社の同僚たちは眠りの中にいるはずであった。
すでに午前2時になっていて、ホテルのフロントには誰の姿もなかった。
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