もうすぐ地デジがどうのこうのとラジオでも盛んに言っているが(私の家にはTVがないので)、この政府のプロパガンダ・キャンペ-ンを聞くたびに腹が立つ(だから、それのお先棒をかついでいるSMAPのあの方にも腹が立つ=まあ、単に坊主にくけりゃ...の話だが)。
大体においてデジタル化にして一体何の得があるのだろうか?
単に家電メーカーに利益をもたらすためにやっている陰謀?とも思ってしまうが、まあ真相はきっと政財界の魑魅魍魎の中にあるのだろうから私ごときが深く詮索しても詮無いことだけれども、このキャンペーンよりももっと腹が立つのは「詳しくはwebで」という捨て台詞が最近のCMには多いことだ。
内容が知りたかったらインターネットで調べろっていうこの高いところからのモノ言いにはかなりムカっとくる(パソコンを持たない人、使えない人も社会にはかなりいるはずだ)。
例の松本大臣と同じレベルの「傲慢さ」だナとつくづく思う。
でも、中にはきちんと0120-+++++とちゃんとトールフリーの電話番号を画面で知らせてくれる企業CMもあるので、こういうのを見るとホッとする(実家にいる時はTVが見れる)。
何でもかんでもオール電化にしていまう便利な生活がけっして「バラ色の生活」ではないことを日本人は今度の震災で学んだはずじゃなかったのだろうか?
便利さのリスクをどれだけ負う覚悟がみんなにはできているのだろうか?
便利さとは離れた効率の悪い生活を送ることをスローライフというのだろうが、そんなスローな生活とハイリスクの便利社会とどちらを皆さんは選択するのだろうか?
地デジ化で年寄りや貧乏人を切り捨てて、「詳しくはwebで」という捨て台詞で「年寄りは知らなくてもいいよ」と言ってしまう全然「優しくない社会」を作る日本が本来あるべき社会の姿なのかナ?と本気で思ってしまう。
つい最近、介護施設の大手メーカーと「音楽と介護」のコラボを始める話がまとまった。
これで、私が長い間考えていた音楽介護プログラムが少しずつ実行に移していくことができるはずだ。
「音楽も音楽家も世の中の役に立つべき」と私は本気で思っている。でも、音楽も音楽家も「独りよがり」で「我が道」を行くことがカッコよくてアーティスティックだとずっと思われてきたけれど(そう思っている人も未だに多いが)、そんな生き方を始めたのはあのベートーベンだ。
そこから数百年で音楽というのは何かとてつもなく「自分勝手な道に」曲がり続けてきたような気がする。
特に二十世紀後半からの「わかるやつだけわければイイ」という態度で音楽を作り続けてきたいわゆる「業界」という人たちの高ビーな態度が今の「音楽離れ」を作ってきたわけだし、本当に一般ピープルの欲するものは何なのかを考えることを停止してしまった今の日本の音楽業界はかなり前から死に体になってしまっている。
まあ、これもあれもすべて「資本主義」のせいになんて簡単にはできないけれど、「人に優しい社会」というのは少なくとも今の政権政党が考えるような浅薄なビジョンではけっしてできないことだけは確かだと思っている。
大体においてデジタル化にして一体何の得があるのだろうか?
単に家電メーカーに利益をもたらすためにやっている陰謀?とも思ってしまうが、まあ真相はきっと政財界の魑魅魍魎の中にあるのだろうから私ごときが深く詮索しても詮無いことだけれども、このキャンペーンよりももっと腹が立つのは「詳しくはwebで」という捨て台詞が最近のCMには多いことだ。
内容が知りたかったらインターネットで調べろっていうこの高いところからのモノ言いにはかなりムカっとくる(パソコンを持たない人、使えない人も社会にはかなりいるはずだ)。
例の松本大臣と同じレベルの「傲慢さ」だナとつくづく思う。
でも、中にはきちんと0120-+++++とちゃんとトールフリーの電話番号を画面で知らせてくれる企業CMもあるので、こういうのを見るとホッとする(実家にいる時はTVが見れる)。
何でもかんでもオール電化にしていまう便利な生活がけっして「バラ色の生活」ではないことを日本人は今度の震災で学んだはずじゃなかったのだろうか?
便利さのリスクをどれだけ負う覚悟がみんなにはできているのだろうか?
便利さとは離れた効率の悪い生活を送ることをスローライフというのだろうが、そんなスローな生活とハイリスクの便利社会とどちらを皆さんは選択するのだろうか?
地デジ化で年寄りや貧乏人を切り捨てて、「詳しくはwebで」という捨て台詞で「年寄りは知らなくてもいいよ」と言ってしまう全然「優しくない社会」を作る日本が本来あるべき社会の姿なのかナ?と本気で思ってしまう。
つい最近、介護施設の大手メーカーと「音楽と介護」のコラボを始める話がまとまった。
これで、私が長い間考えていた音楽介護プログラムが少しずつ実行に移していくことができるはずだ。
「音楽も音楽家も世の中の役に立つべき」と私は本気で思っている。でも、音楽も音楽家も「独りよがり」で「我が道」を行くことがカッコよくてアーティスティックだとずっと思われてきたけれど(そう思っている人も未だに多いが)、そんな生き方を始めたのはあのベートーベンだ。
そこから数百年で音楽というのは何かとてつもなく「自分勝手な道に」曲がり続けてきたような気がする。
特に二十世紀後半からの「わかるやつだけわければイイ」という態度で音楽を作り続けてきたいわゆる「業界」という人たちの高ビーな態度が今の「音楽離れ」を作ってきたわけだし、本当に一般ピープルの欲するものは何なのかを考えることを停止してしまった今の日本の音楽業界はかなり前から死に体になってしまっている。
まあ、これもあれもすべて「資本主義」のせいになんて簡単にはできないけれど、「人に優しい社会」というのは少なくとも今の政権政党が考えるような浅薄なビジョンではけっしてできないことだけは確かだと思っている。
当方、今年34歳の男です。
私は自分が生まれた1970年代が好きです。音楽にしても映像にしても、今聴いても見てもリアルで色褪せていない。しかし最近の絵や音楽はすぐに売れるがすぐに廃れる。
生産する側も消費する側も、思い入れが無いとは言わないが、簡単に創造できたり手に入れられたりするから、とても消費のスピードが速い。そして価格競争にすぐに陥るため、事業の継続が不可能になり株価の変動も早い。
経済が人間の尊厳を超えてしまった気がしてならない。
数字の桁だけを追いだしたら、優しくない社会が良いに決まっている。がしかし、我々は世代は違えど人であり、姿や形に多少の変化はあっても指の本数や血の色が変わるなんて進化はしていない。人間にとって今の社会は住みづらい。なぜ開きっぱなしの蛇口を緩めようとしないのか?溢れた水をすくうことばかり。
資本主義とか共産主義とか経済学というマネーゲームはもうたくさん。愛を持って人に接し、そして接して欲しい。みんな飢えきってます。その寂しさをお金に向けてるのでしょうか?
長文かつ支離滅裂な内容のコメント申し訳ありません。
ご迷惑をお掛けするようであれば削除していただいて構いませんが、何か愛を持って返答いただければ嬉しいです。
書いてくださったこと、ごもっともだと思います。
私は長年、音楽業界に生きてきてメジャーのレコード会社や放送局のほとんどと音源を作ったりする仕事をしてまいりましたが、いわゆる「業界目線」というものにいつも反発を感じながら仕事をしてきました。
自分たちは音楽のプロなんだから素人に聞かせるものなんかこの程度でいいんだよ、的な傲慢な態度に反発を感じながらもそういう業界で仕事をし、何とか本当の意味で世の中の、社会のお役に立つ音楽が作れないものかという試行錯誤を今でも続けております。
「優しくない社会」というのは、つまり「相手の目線に立てない人やモノがあふれている社会」ということだと思います。
音楽でいえば、お客さん目線に立たずに自分たちの傲慢さだけを押し付ける業界目線がまさしくそれだと思います。
私のこのブログは、私の妻が昨年の9月に脳卒中で倒れて以来それまでの音楽家モードではなく、すっかり闘病日記のような書き方のブログになってしまいましたが、リハビリに毎日励む妻の目線を私もできるだけ共有しようと頑張っています。
身体の半分が麻痺し不自由な人間にとって階段や坂がどれだけの負担になるかは身にしみて理解できるようになりました(足の不自由な人間にはエスカレーターに乗ることも恐怖の一つです)。
渡部さんのおっしゃる70年代のモノは現在のモノとは全く作り方が違っていました(私はちょうど69年あたりからプロとして業界で仕事を始めましたので)。
私の専門分野である音楽でも、70年代は、「1枚目2枚目売れなくても3枚目4枚目が売れれば最終的には1枚目も2枚目も売れるんだからそれで良い」的な考えでレコード(その頃はCDではなかったですから)を作っていました。
それがバブル以降は、「1枚目で売れないものは作らない」という考えにすっかり変わってしまいました。
つまり、そんな4枚目まで待つなんていう悠長なことは言っていられない、ということなのです(要するに先立つものはお金なのです)。
これでは良い音楽なんか作れるワケがありません。
音楽でさえこれですから、世の中の他の全てのものが「即お金になるかどうか」だけが価値の基準になってしまったのだと思います。
「人に優しい社会」というのは、つまり「人の目線に立つ社会」だと思います。
ナンダ、当たり前のことジャンと思われる方もいるでしょうが、世の中見回してみてもどれだけのものが「人の目線に立っている」でしょうか。
それが問題なのだと思います。
肯定的な文章から返信いただけると、こんなにも素直に読めるものなのだなと、今更ながら再確認しました(笑)
私は、音楽好きが講じてバンドやったりDJなんぞもやったりと音楽無しでは生きていけない(大げさですが)体です。
どんなジャンルでも古いものから新しいものから何でも聞きます。ただ好きかどうかはその先のお話。右耳から入って、左耳から抜けていく音楽もたくさんあります。特に最近の曲はそれが多いです。判断基準は自分でも分からない部分もありますが、iPODの中に入っている曲を見てみると、なんとなくですがいろんな意味で「闘う」の意思が入っている曲やアーティストが多い気がします。
最近の曲には、この「闘う」というある意味で面倒な部分を排除されている気がしてなりません。軽いメロディに軽い歌詞が、なんの癖も臭いもしない少し見てくれの良い男女から発せられているに過ぎない。その曲でどんなテーマを投げかけているのか、全くその点が見えてこない。歴史も背景も何もないからとても薄っぺらい。そんなものは流行にはなれても文化にはなれないと思っています。
確かに受けての自由になる曲と言われれば聞こえはよいですが、何も感じないです。これはなにも音楽に限ったことではありませんが・・・。
どうせ押し付けるならば、押し付けられる側も前向きに受け入れてしまうようなものを発して欲しい。それがアーティストの仕事だと感じています。
そういう私も最初の投稿からだんだん趣旨が外れてきてしまっている気がしますので、表現能力が低いなぁと痛感させられてしまいますが。
今後も時間があれば、ブログを拝見させていただき、感じたことをコメントさせていただきます。よろしくお願いいたします。