みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

同病相哀れむ

2012-01-30 20:41:20 | Weblog
とはよく言うけれど、同じ病気で同じ時期に同じ病院で療養する人同士というのはたとえことばをあまり交わさなくてもお互いに「気になる」存在。
同じ頃入院してきた脳卒中の若い男性(漫画家さんだという)は、看護士の奥さんといつも明るくリハビリに励んでいる。
多少肥満気味なことを気にしていつもひたすら車椅子、杖で動き回っている姿は本当に健気で一生懸命だ。
そして、いつも夕食をラウンジで隣り合って食べるご夫婦も年格好から見てほとんど同世代だし患者さんが奥さんというのも共通している。
ただ、この方の場合、同じ脳疾患の後遺症でも手足の麻痺というよりも(それももちろんあるのだが)思考や情緒の面で深刻な後遺症が残ってしまっているようだ。
いつも暗い表情をされているのでこちらから話しかけるのをちょっと憚られるのだが、話しかけても普通の受け答えが返ってきた試しがない。
こちらのことばが単に無視されてしまうか、あるいはとてもトンチンカンな応えしか返ってこないのだ。
でも、ご主人とは至極普通に和やかにいつも話をされている。
要するに、他人には(ご主人が持っているようなコミュニケーション手段がないので)唯一のコミュニケーション手段としてのことばが通じない、ということなのだと思う。
脳卒中で言語機能を失ってしまった人も家族とか親しい人たちとはコミュニケーションが取れている例はいくらでもある。
要するに、コミュニケーションというのは必ずしも言語を介さなくてもできるということなのだと思う。
先日も介護施設での演奏をフルムスと一緒にやってきたばかりだが、演奏後に施設の入居者の方たちといつもメンバーたちが話し合う時間を作っている。
私も7、8人の方と話をしたが、ある意味、ほとんどの方と普通の会話にはなっていなかったような気がする。
まず、相手の言うことがよく理解できないのだから会話の大前提がない。
それでも、こちらは理解しようと一生懸命聞き耳をたてるのだが、わからないことがあまりにも多くていつもヒヤ汗ものだ。
介護士の方たちはふだんこれを毎日続けていらっしゃるのだから大変なことだとは思うけど、おそらく彼ら彼女らにはちゃんとコミュニケーションを取る「コツ」というようなものがあるのだろうと思う。
単に、私はそれ知らないだけなのかもしれない。

その点、恵子は最初からことばを失っていなかったのは本当に幸いだったと思っている。
もちろん、仮に恵子からことばが奪われていたとしてもコミュニケーションは取れたと思う。
その自信はある。
でも、ことばがあった方がどれだけ楽か。
ことばというのはコミュニケーションツールとしては本当に便利なもの。
でも、音楽だってことばに匹敵するぐらい、いやある意味、ことば以上に「雄弁」だ。
恵子が今日も「病気してから何か急に音楽が好きになったような気がする」と言ったので、私がすかさず「それって、言語脳の左の方がやられたから音楽脳の右脳が助けようとしているのかもよ」。
それって、何の科学的根拠もなく言ったのだが(「脳の可塑性」という理屈はあることはあるのだが)、あながちハズれていないこともないのでは?

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