単なる映画のタイトルかと思っていたら、実際に高知県庁にあるらしい。
とはいっても私はこの課の実情をよくは知らない。
ただ、私がこの映画を見た時に真っ先に思い浮かべたのは、千葉県松戸市の「すぐやる課」だった。
こちらも実在する課。
「すぐやる課」ができた時、メディアではかなり取り上げられていた。
有名ドラッグストアチェーンの社長さんが市長さんだった時にこの市長さんの「鶴の一声」でできた課だったはず(確か)。
さすが民間感覚と思った。
今でも松戸市にこの課はあるらしいが、ある意味、日本全国のどこの役所にも必要な課なのではと思う(実際、現在は日本全体で300ぐらいの自治体に同様な課が普及しているらしいが、役所の機能として「やるかやらないか」は一番大事なポイント)。
先日、私の所属するI市の介護家族会の会合に役所の高齢福祉課の職員が数人、認知症カフェの説明にやってきた。
説明と言っても、こんなカフェをやります、やっていますという説明ではなく、これから認知症カフェを作るので他の自治体に見学に行ってきました。その報告をします。ということ。
「うン?見学…?今頃なにを寝ぼけたことを言っているのか」と、正直思った(というか、ちょっと呆れた)。
私が、3年前彼ら(つまり、この役所の担当窓口)に「音楽を使った認知症カフェをやりたいんですけど協力してもらえませんか」と行った時はほとんどやる気を見せなかったのに、今度は国から「やれ」と言われたのであわてて勉強しています、ということ(だと思う)。
私自身いろいろな場所の「認知症カフェ」をリサーチした結果「こんな風にやった方がもっと効果的ですよ」と私がプレゼンした時役所が私に言ったことばは「役所は、みつとみさんの企画だけでなく、いろんな人たちの広汎な意見を聞かなければなりませんので…」ということだった。
要するに、「やらない」「やりたくない」という本音を取り繕っているだけに過ぎないと思った(だから、私は身銭をきってやった)。
さらに役所が言ったことばは、「役所は認知症ということばをなるべく使いたくないんです。自分を認知症とは自覚していない人たちの予防対策をしなければいけないので」という説明(認知症対策なのに認知症ということばを使えない自己矛盾)。
ここが、日本の民主主義の決定的な欠陥だと私は思っている。
「八方美人」であることが民主主義だという思い違いは一体いつ頃からこの国に定着してしまったのだろう(要するに、全員の言うことを聞くフリをしていれば責任を取らなくて済むからなのかナ?)。
まず国や自治体として「こういう考えでこういうことをします」という「思想」が先になければ人はそこに賛成も反対も示しようがない。
北欧の福祉政策はまず「国をこうしていきます」という「思想」が先にあるからこそ高い税金にも国民は納得しているわけで、ただ税金を高くするだけでは誰もついていかない。
北欧の消費税は8%とか10%とかのレベルではないが(25%とか30%のレベル)、教育費、医療費、介護費無料といったきちんとした見返りがあるからこそ国民は納得して払うのだろう。
先日、昨年私が出演しスピーチしたプレゼンイベント TEDxを今度は聴衆として見るためにある男子高校生と一緒に行った。
彼は、このイベントにとても関心があり自分でも「将来出たい!」と言っていたので「一緒に行こう」と誘った。
途中彼が「日本の会議ってなんであんなに時間がかかるんでしょう?5分で終わらせられないんですかネ?」と言った。
私は、彼が言うように絶対に5分で終わらせられるだろうと思う。
まず議案を「やるの?やらないの?」を決めるところから出発すれば良いだけのことだ。
「やらない」という結論ならそこで会議は終わるし、もし「やる」となったら「どうやって実現させるか」の方法論の意見を出しあえば良いだけのこと(それに1時間かかるのか2時間かかるのか数日かかるのかは内容次第だろうが)。
しかし、日本の会議はそのいずれでもない。
10人出席していれば、10人すべての意見をとりあえず聞こうとする。
これがはなはだメンドくさい。
でも、これが日本の民主主義(だとみんな思っている)。
こんなもの民主主義でも何でもない。
だって、本音はそんなところにはなく、ただ全員の意見を聞かないとそれぞれの人たちの「顔が立たない」からそうしているだけの話しだ(「顔をたてる」というのは日本の組織ではかなり重要なことで、これが日本流の間違った民主主義の元なのかも?)。
そうやって、延々といろんな意見を頂戴しているから、結局、やるのかやらないのかすら決められないで時間だけが無駄に浪費されていく。
誰かが言っていた「もし日本の会議をもっと合理的にすれば、日本のGDPは確実に20%以上は上がるはず」だと。私もそう思う。
5分で終わることを1時間も2時間も、時にはもっと延々と時間をかけていることの途方もない「ロス」は日本の社会全体の無駄だ。
これも、トドのつまりが、はっきりモノを言わない日本人のファジーさのゆえなのだろう。
「やるかやらないかではなく、その間にある微妙なサジ加減が大事」とよく日本人は口にするが(ことばで言うと少しはきれいに聞こえるのだが)、それって「結局どっちなのよ」とツッコミを入れたくなる。
私は、社交辞令が言えない人間なので、ファジーな表現が多過ぎる日本の社会ではちょっと「浮く」(でも、幸い、世の中がもっとおおらかだった時代に生まれ育ったせいか、イジメにもあわず、不登校にもならずに今日まで生きてこれた)。
いつでもどこでも直球でモノを言うクセがあるので、日本の公共放送の仕事をしていた時は何回か始末書を書かされた(単に、言いたいことを自由に言ってきただけなのだがナ…)。
これまで一度も給料をもらう(雇用される)立場になったことがないのも、この「自由にモノを言いたい」がため。
「安定」とは対極の人生を送ってきた。
でも、そのことに対する後悔は微塵もない。
だって、人間にとって「自由」以上に大切なことはないと信じているから。
(自分が正しいと信じることを)言ったりやったりできない人生は絶対に人を幸せには導かないと思うのだけど、人間って(生活のために)どこかでそれを「しょうがない」と諦めてしまうのかもしれない。
だとしたら、とても悲しい。
まわりに流されて生きることだけは、(私には)これまでもこれからもできそうにない。
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