みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

ボランティアは「上から目線」

2014-07-18 12:05:54 | Weblog
という言い方をすると、異論を唱える方もきっといらっしゃるのではないかと思う。
しかしながら、私は、それでもあえて「ボランティアは上から目線である」と言いたいのは、私自身が今やっている仕事も、私が進めているプロジェクトもその問題を抜きには語れないからだ。

ボランティアというのは「自発性」や「善意」がベースにあるので、一見「へりくだった目線」に見えるけれどもけっしてそうではないと私は思っている。
もともとのボランティアということばの意味は、兵役として軍隊に行くのではなく自らの意思で「自発的に志願する」ことを言っていたはずなのだが、現在は、「困っている人」を「困っていない人」が自発的に助けることぐらいの意味あいでよく使われる。
なので、ことば自体に含まれる「上から目線」的な要素に案外気づきにくくなってしまっているのかもしれない。
大事なポイントは、「困っていない人」と「困っている人」という優劣関係、上下関係が前提になっている行為、行動である以上、ボランティアをする人は常に「優位な」立場にたっていることを忘れてはいけないことだ。
同時に、「困っている人を助けたい」と人が思った時、そこに「同情」とか「憐憫」とかいった感情は芽生えていないだろうかとも思う。
ここは、案外大事なポイントだ。
なぜなら、人の感情の中で「同情」ほど「上から目線」の(思い上がった)感情もないからだ。
「同情は軽蔑だ」と明確に言い切ったのは哲学者ニーチェだが、私たちがもし介護される人たちの気持ちと希望というものを真剣に考えるのであれば彼ら彼女ら(お年寄りたち)が何を望んでいるかを真剣に考えなければならない。
そして、それはけっして「同情される」ことではないはずだ。
健常者と身障者との関係も、この「困っている」「困っていない」という関係そのもの。
身障者はけっして「同情」は望んでいないのに、多くの健常者は身障者をそういう目で見がちだ。
私は、妻が身障者になってから、彼女に対して「同情」という気持ちをつとめて持たないようにしている。
彼女が着替える時も私が手伝えばアッと言う間に着替えは済むのだが、私はあえて彼女の衣類の着脱を一切手伝わない。
たとえどんなに時間がかかろうが、彼女が「自立」してできることは絶対に手伝わないし、またそうすべきではないと思っている。
トイレもそうだし、食事も一切手は貸さない(ただし、入浴はかなり危険を伴うのでこれだけは付きっきりで介助する)。
彼女と私の共通した目的は、彼女ができるだけ早く「自立」して生活できるようになること。
その目的のために一番邪魔になるものは、ヘタな同情。
そのことは、私も彼女もよくわかっている。
おそらく、世の中の何らかの障害を持っている人たちは皆そう考えているのではないだろうか。
ヘタな同情なんかして欲しくない。
それこそ「同情するなら金をくれ」ではないが、「同情するなら本当のバリアフリーの社会を作ってくれ」だ。
本当のバリアフリーとは、「健常者と障害者が同じ目線で対等に暮らせる社会」のこと。
そこに同情や憐憫といった「上から目線」の感情があればあるほど本当のバリアフリー社会は遠ざかる。
電車でよく耳にする「お客様をご案内中です」というアナウンス。
あのアナウンスを、人は一体どういう気持ちで聞いているのだろうか。
好意的に聞いているのか、「なんで?」という思いで聞いているのか、あるいは全く関心を持たないかは人によってさまざまだろうが、私は、あのアナウンスで一番不快な思いをするのは、案内されている当の本人なのではないだろうかといつも思っている。
あんなこれ見よがしのアナウンスをされたのでは、電車の中で「いづらく」なるだけなのではないだろうか。
車椅子や身体的障害のある人にとって理想的な公共交通機関の利用の仕方は、健常者とまったく同じように「自立した」形で利用すること。
表通りから段差もなくスイスイとプラットホームまで辿り着き電車にも難なく乗ることができれば理想なのだが、そんな形で利用できる駅が(日本中探しても)一体どこにあるというのだろうか。
階段しかない駅(しかも、都会の駅の階段はどんどん深くどんどん複雑になっていく)、エスカレーターばかりがやたらと多い都会の駅(エスカレーターが身障者にとってどれほど危険な乗り物かを健常者は考えようともしない)、エレベーターがあっても、駅員さんが「お客様をご案内」しなければ乗れない電車。
この現状で「積極的に外出したくなる」身障者がどれだけいるというのだろうか。
この現状を数年後のオリンピックが一体どう解決してくれると言うのだろうか(今のままでは、「福祉後進国」というレッテルを間違いなく貼られる)。

私がこれまで多くの介護企業に「介護現場での音楽は絶対に有料でサービスしなければならない」と主張してきたのは、介護される人たちをけっして同情したくはなかったからだし、「介護される人たち」と同じ目線で音楽を共有したかったからだ。
しかしながら、不幸なことに、これまで介護現場では、「音楽はタダ、ボランティアが当たり前」だと思われてきている(病院は、意外とそうでもないところもある)。
これほど、お年寄りや介護される人たちをバカにした話もないと思う。
「お年寄りなんかにどんな音楽聞かせたって同じ。ましてや認知症の患者なんて何もわからないんだから別にアマチュアのボランティアで十分」みたいな態度がこの国の介護現場には蔓延していたし今でもそれは変わらない(だから、「お前たち年寄りの世話をしてやってるんダ、ありがたく思え」的なスタッフが介護施設には未だに多いのではないだろうか)。
とても一流とは言えない音楽や踊り、演芸を無理矢理押し付けられているお年寄りたちは、きっと「バカにすんじゃないよ」と叫びたいはず(事実そんな声はよく聞くし、私が介護される側だったら本当に「バカにすんじゃないよ!」と叫びたくなるだろう)。
「困っている人たちを助けた(と思い込んでいるだけの)」自己満足に陥っている人があまりにも多いこの国の介護現場を何とか「希望に満ちた」ものにするためには、きちんと責任を持った仕事をするプロを育て雇う体制を作るしかない。
いくら「ウチはお金なんか出せません」とか「ウチはアマチュアのボランティアで十分です」と言われてもそれですぐに諦めて引き下がっていてはいつまでたってもこの国の介護は変わらない(だから、私は諦めない)。
「食事の世話」「排泄の助け」「入浴の世話」「健康管理」だけが介護だと思い込んでいる人たちが多ければ多いほどこの国の認知症患者の数はどんどん増えていく。
ただ食べて、ただ寝て、ただ息をしているだけの生活のどこに「希望」があると言うのだろうか。
医学的な理由はともかく、認知症を作る最も大きな原因はこの「明日への希望のなさ」なのだと私は思っている。
なぜなら、ほとんどの認知症の初期は「うつ」状態から始まるのだから。
ただでさえ「明日への希望の少ない」生活を強いられているお年寄りたちにハンパな芸を押し付けるボランティアの「害」を今こそ深く認識していかなければと思っている。
介護現場にこそ、「介護される人」たちの本当の声を聞き彼ら彼女らと同じ目線で対話のできる本当のプロが必要なのだ。
先日の新宿のコンサートのトークでも引用したアメリカの脳科学者で医師のオリバー・サックス博士のことばを聞けば、いかに介護現場に本物の音楽が必要なのかがわかるはずだ。
サックス博士は、ご自分のある著書でこう説いている。
「音楽への反応は認知症がかなり進んでも失われない。なぜなら、音楽は患者に残っている「自己」に直接働きかけ、認知症の患者をこの世につなぎ止めておくことのできる数少ないものの一つだから。認知症というのは記憶をなくしたり、行動のパターンを忘れたりすることはあるけれども、人間の本来持っている深い感情を妨げたりはしない。そこにはまだ呼びかけを待っている自己がある。そして、この呼びかけを行えるのは音楽だけなのだ」と。

このサックス博士ほど、脳疾患、認知症、パーキンソン病、トゥレット症候群、などさまざまな疾患の患者さんたちと音楽の関係を科学的に捉え治療してきた人を私は知らない(といっても、彼は音楽療法の専門家ではなく、あくまで脳科学者/医師としての立場から音楽と病気との関係を長い間考察し続けてきた人だ)。
彼のさまざまな著書を読んできた私は、彼のことばの意味を一人でも多くの人たちに伝え、そして「責任ある音楽のプロ」としての仕事をするにはどうしたらいいのだろうとアレコレいつも考えてい

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