みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

「愛さえあれば大丈夫」

2012-09-09 17:08:15 | Weblog
と思って頑張ってきた恵子への介護だったが、ことはそれほど単純でもそれほど簡単なものでもないことが日々を重ねるにつれて少しずつわかってきた。
おそらく、全ての介護者にとってこの「愛」というのは基本にあるはずなのだが、これだけで物事がすべて解決するわけではない。
いや、むしろ、これがあるからこそ苦しさも苛々も多くなってくるのでは?と思えることがたくさんある。
子育ても親の愛情が基本にあるわけだし、介護も家族に対する愛情が基本だろうと思うが、介護が子育てと違うのはその長さがまったく見当がつかないことだ。
それが一年で終わるのか、五年なのか十年なのか、あるいはもっともっと長くかかるのか、その長さに基準も法則もないだけに介護される人も介護する人間もこの「果てしない時間との闘い」に時として疲れ果ててしまう。
本当は、この「愛」があれば「疲れ」は軽減されるはず、と思いたいのだが、現実はそのようには行かない。
人の努力や頑張りは、何らかの「見返り」や「結果」があって初めて満たされることが多い。
通常の仕事では、それが「金銭」の報酬として返って来る。
でも、子育てにしても介護にしても、家族は金銭の「見返り」など要求しない。基本が「愛」だからだ。
でも、「愛」だって、「成長」とか「回復」とかいった結果があればそれはそれで充足される。
でも、「成長」とか「回復」ってそう簡単に見えてくるものでもない。
だから、人はこの「疲れ」の代償を金銭に置き換えて介護ビジネスというものを成立させたのだろうし、それはそれで世の中に絶対に必要なものなのだとも思う。
先日の薬による副作用で恵子が一時的にパーキンソン病のような症状を起こしてしまった時、私は「なんでこんなことになるの?」と恨み、せっかくここまでリハビリを二人で頑張ってきたのに、なぜここでまた足踏みをしなければならないのか?と悔しさがこみ上げてきた。
そして、その悔しさと一緒にこれまで二人で頑張ってきた月日とさまざまな事柄が頭の中をかけめぐったのか、私の目から急に涙があふれ出してきた。
病人に心配をかけたなくないという思いから恵子の前では泣かない、そう決めてきた私だが、しかし、あふれる涙をもはや止めることはできなかった。
きっと無性に「悔しくなった」のだと思う。
多くの介護者、介護される人もきっとそんな「悔しさ」を抱えているはずだと思う。
時々恵子が訴える、「もう私がすっかり治ってしまったと思っている人もいるの、なんでわかってくれないんだろう」。
人間にとって、自分が体験していないこと、経験していないことはすべて「未知」の領域だ。
そして、この「未知」の領域に対して人は「想像力」や「知識」でそれを補っていく。
しかし、ことが病気や介護のことになると相手の状況に対する「思いやり」という気持ちもまた必要になってくる。
あまりにも現実とかけ離れた認識を持たれると、これもまた「なんでわかってくれないのだろう?」という気持ちになってしまう。
いじめに悩んで自殺してしまう子供たちの苦悩も、きっとこの「誰もわかってくれない」という悔しさが基本にあるのだと思う。
誰かがわかってあげなければいけないのに「誰もわかってくれない」。こんな悔しいことはないだろう。
子供たちだけでなく、介護に苦しむ人たちにとっても「悔しさ」は十分自殺の引き金にはなり得るし、実際なっているのだと思う。
号泣する私を見て彼女がこんなことを言ってくれた。
「大丈夫だよ。少し後戻りしたように見えたって、大きく見ればちゃんと先に進んでるんだよ、大丈夫だよ」。
やはり、この「愛」があれば生きていかれる。

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