聞いていて思い浮かんだのが、ある聖書の話。
ヨハネによる福音書8章1~11節にある話で、イエスの前に姦通の罪を犯したとしてある女性がひきだされてくる。その女性をだしに民衆がイエスという人間を試すシーンだ。
人々は、「この女をどう裁くのか?石で打って殺すのか?そうしないのか?」とイエスに問う。
もしイエスが「石で打って殺す」と言えばローマ帝国の権威軽んじる反逆罪に当たるし(当時死刑を宣告できるのはローマ皇帝だけ)、「許す」と言ってもこれまた皇帝に逆らって法律をねじまげたことになるし、イエスにとってはどちらにせよ八方ふさがりの窮地に立たされる状況だったわけだが、この時イエスが言ったのは、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ということば。
朝青龍の問題では、朝青龍が悪いのか、相撲協会が悪いのか、高砂親方が悪いのかといった罪のなすりあいばかりしているように見えるが、根本的に悪いのは、相撲というもので利益を享受していながら、結局国技の定義もスポーツの定義もはっきりさせないまま外国人力士におんぶにだっこをして相撲を観戦してきたた私たち日本人全体なのではないのか?という気がしてならない。
「相撲は品格を重んじるスポーツです」と言うのならば、まずこのイエスのことばを思い出して欲しいと思う。
「一体、今の日本人にどれだけ品格を持っている人がいるのですか?一体、誰が朝青龍に石を投げる資格があるのですか?」と。
これは、何も相撲の問題だけではない。
相撲が「日本の文化」と言いながら外国人の人たちのお世話にならなければ存続できない状態と同じように、日本の食文化と言われる「さしみ」や「寿司」だってほとんど状況は変わらない。
もともと江戸前のネタで作っていた江戸前の寿司のネタが江戸前で捕れたのはとっくの昔。今や近海で取れる魚もあまりなくなりほとんどは遠洋漁業、つまり外国で捕ったり、深海で捕った冷凍の魚でさしみや寿司を作らなければ「日本の食文化」だって維持できない状況だ。
こんな状況でも日本の文化とか日本の食文化といったことばだけをお題目にして自分勝手な文化論を語る日本人って、この聖書の中に出てくるイエスを意地悪く試そうとする民衆とまったく同じなんじゃないかな?と思ってしまう。
きっと、貴乃花は、生来が生真面目な人なのだろうから、本来あるべき相撲道からあまりにもかけ離れてしまった現在の相撲をもっとしっかりと見つめなおしたいという意思で行動しているのだと思う。貴乃花という人の姿勢は本当に評価できる。
一方、朝青龍は「土俵では鬼になる」と語り彼なりの思想と信念を持って相撲をとっていた人だと思う。
相撲は一体「スポーツなのか?文化なのか?」。
ここをはっきりさせない限りいつまでたってもこの罪のなすりあいは永遠に続くだろうし、モンゴルの人たちが言うように「これは日本がモンゴルに対して悪意をもってやっている」という風なとらえかたをされてしまう。モンゴルだってブルガリアだって、アメリカだって、どの国だって「日本人は勝手だ」という意識で見るのだと思う。
曙が今回の問題でいうっていたこと。
「日本の相撲は外国人の力士をたくさん引っ張ってきておきながら、そうした相撲取が引退した後相撲界に残ろうとすると日本人に帰化しないとダメという。こんな勝手な理屈はない」というっていた。
まさしくその通りだと思う。
都合のいい時だけ外国人を利用して使い古したら後はポイでは、曙ならずとも「それはないでしょう?」だ。
こんな人権侵害まがいの行為を支えているのが私たち日本人だということも忘れてはならないと思う。
もしかしたら復活するのは不可能なのかもしれない貴乃花の言う本来の「相撲道」という思想と、私たちが現在娯楽として楽しむことのできるスポーツという矛盾する二種類の思想の間の折り合いをきちんとつけていく役割は、思考の停止した相撲協会のお年寄りたちでもなく、馬鹿なことをあおるだけのメディアでもなく、私たち日本人一人一人の役割だと思うのは私だけではないと思うのだけれども….。
朝青龍がいない土俵に一体何が残っているのかナ?
とてもサビシイ気持ちでいっぱいだ。
ヨハネによる福音書8章1~11節にある話で、イエスの前に姦通の罪を犯したとしてある女性がひきだされてくる。その女性をだしに民衆がイエスという人間を試すシーンだ。
人々は、「この女をどう裁くのか?石で打って殺すのか?そうしないのか?」とイエスに問う。
もしイエスが「石で打って殺す」と言えばローマ帝国の権威軽んじる反逆罪に当たるし(当時死刑を宣告できるのはローマ皇帝だけ)、「許す」と言ってもこれまた皇帝に逆らって法律をねじまげたことになるし、イエスにとってはどちらにせよ八方ふさがりの窮地に立たされる状況だったわけだが、この時イエスが言ったのは、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ということば。
朝青龍の問題では、朝青龍が悪いのか、相撲協会が悪いのか、高砂親方が悪いのかといった罪のなすりあいばかりしているように見えるが、根本的に悪いのは、相撲というもので利益を享受していながら、結局国技の定義もスポーツの定義もはっきりさせないまま外国人力士におんぶにだっこをして相撲を観戦してきたた私たち日本人全体なのではないのか?という気がしてならない。
「相撲は品格を重んじるスポーツです」と言うのならば、まずこのイエスのことばを思い出して欲しいと思う。
「一体、今の日本人にどれだけ品格を持っている人がいるのですか?一体、誰が朝青龍に石を投げる資格があるのですか?」と。
これは、何も相撲の問題だけではない。
相撲が「日本の文化」と言いながら外国人の人たちのお世話にならなければ存続できない状態と同じように、日本の食文化と言われる「さしみ」や「寿司」だってほとんど状況は変わらない。
もともと江戸前のネタで作っていた江戸前の寿司のネタが江戸前で捕れたのはとっくの昔。今や近海で取れる魚もあまりなくなりほとんどは遠洋漁業、つまり外国で捕ったり、深海で捕った冷凍の魚でさしみや寿司を作らなければ「日本の食文化」だって維持できない状況だ。
こんな状況でも日本の文化とか日本の食文化といったことばだけをお題目にして自分勝手な文化論を語る日本人って、この聖書の中に出てくるイエスを意地悪く試そうとする民衆とまったく同じなんじゃないかな?と思ってしまう。
きっと、貴乃花は、生来が生真面目な人なのだろうから、本来あるべき相撲道からあまりにもかけ離れてしまった現在の相撲をもっとしっかりと見つめなおしたいという意思で行動しているのだと思う。貴乃花という人の姿勢は本当に評価できる。
一方、朝青龍は「土俵では鬼になる」と語り彼なりの思想と信念を持って相撲をとっていた人だと思う。
相撲は一体「スポーツなのか?文化なのか?」。
ここをはっきりさせない限りいつまでたってもこの罪のなすりあいは永遠に続くだろうし、モンゴルの人たちが言うように「これは日本がモンゴルに対して悪意をもってやっている」という風なとらえかたをされてしまう。モンゴルだってブルガリアだって、アメリカだって、どの国だって「日本人は勝手だ」という意識で見るのだと思う。
曙が今回の問題でいうっていたこと。
「日本の相撲は外国人の力士をたくさん引っ張ってきておきながら、そうした相撲取が引退した後相撲界に残ろうとすると日本人に帰化しないとダメという。こんな勝手な理屈はない」というっていた。
まさしくその通りだと思う。
都合のいい時だけ外国人を利用して使い古したら後はポイでは、曙ならずとも「それはないでしょう?」だ。
こんな人権侵害まがいの行為を支えているのが私たち日本人だということも忘れてはならないと思う。
もしかしたら復活するのは不可能なのかもしれない貴乃花の言う本来の「相撲道」という思想と、私たちが現在娯楽として楽しむことのできるスポーツという矛盾する二種類の思想の間の折り合いをきちんとつけていく役割は、思考の停止した相撲協会のお年寄りたちでもなく、馬鹿なことをあおるだけのメディアでもなく、私たち日本人一人一人の役割だと思うのは私だけではないと思うのだけれども….。
朝青龍がいない土俵に一体何が残っているのかナ?
とてもサビシイ気持ちでいっぱいだ。
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