今日の「お気に入り」。
「その人を知ることは鑑賞のさまたげになる。読者は作者の経歴なんか知らないほうがいいのである。明治のむかし夏目漱石は高山樗牛(ちょぎゅう)をばかにして、いつも高山の林公(りんこう)々々と林公呼ばわりしたという。樗牛は名を林次郎といって漱石と同窓である。すなわちよく知る仲だから、樗牛が学生時代に『瀧口入道』を書いて文名にわかにあがっても、漱石にとっては高山の林公にすぎなかったのである。
西洋の版元は面白かったから本にした、作者の経歴は知らないと読者の問いに答えてそっけないという。わが国では作者のキャリアを詮索しすぎる。ことに文庫本は巻末で、焼跡派だから常に飢えているとか、東京者だからひがんでいるとか片づけて作者の多くは迷惑している。
その一切を拒絶したのはイザヤ・ベンダサンで、彼はついに何者か分らないままでいる。言論だけを世に問おうと試みてまず成功している。
〔Ⅲ『キャリアは知らないほうがいい』昭59・1・19〕」
(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)