今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「正宗白鳥は夏目漱石を認めなかった。
『坊ちゃん』『吾輩は猫である』は発表当時(明治三十九年)面白く読んだが、あとはろくに読まなかった。
白鳥が『虞美人草』をはじめて読んだのは昭和三年四月だという。その半年ほど前『三四郎』を、次いで『門』を
ようやく読んだ。
たぶん大正から昭和にかけて改造社から『現代日本文学全集』、春陽堂から『明治大正文学全集』が出て、これがいわゆる
『円本』のはしりで、共に人気随一の漱石集を出したから、当時文芸評論の第一人者としての名があった白鳥は漱石論を
請われて、やむなく読んだものと思われる。白鳥は退屈が予想される小説を何冊も読むのは苦痛だ、それでも職掌がら
渋々読んだというほどの口吻をもらしている。
前に私は田山花袋の『蒲団』の読後感を述べた。白鳥はこの花袋の仲間である。藤村、花袋、秋声は自然主義の代表的な作者
である。白鳥もこの派の一員だから私は白鳥の花袋評を思いだして読んで、白鳥が花袋を全幅の支持はしないまでも認めている
ことは仲間として当然としたが、漱石をほとんど認めていないのには改めてショックを受けた。
同感だったからである。漱石が死んだのは大正五年十二月である。円本時代は昭和二、三年が絶頂で、五年ごろまで続いた。
漱石の人気がながく今日まで続いたのは、岩波書店が漱石全集を独占して再三再四出したからと、漱石の弟子たち小宮豊隆、
安倍能成、森田草平その他無数のいわゆる漱石山脈がそのつど絶讃して漱石を神格化したからである。その時、こうした白鳥
の発言は勇気がいることであった。
昭和三年四月白鳥は初めて『虞美人草』を読んだ。プロットが整然として文章も絢爛(けんらん)と
精緻(せいち)を極めている。漱石が名文家であることはこの一篇だけを見ても分る。それでは『読んで面白かったか』
ときかれると、私(白鳥)は言下に答える『私にはちっとも面白くなかった。退屈の連続を感じた』。
漱石は文才が豊かで警句や洒落が口をついて出るといった風であるが、私にはそれがさして面白くないのだ。
『猫である』は作者に匠気(しょうき)がなく自然の飄逸(ひょういつ)滑稽の味わいが漂っていて面白かったが、
『虞美人草』は才に任せてつまらないお喋りがすぎるように思われた。近代化した馬琴のような物知りぶりと、どのページ
にも頑張っている理屈にはうんざりした。漱石が今日の知識人に喜ばれるのは、こういう理屈が挿入されているのによろう。
『気燄(きえん)を吐(は)くより反吐(へど)でも吐くほうが哲学者らしいね』『哲学者がそんなものを吐くものか』『本当の
哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、丸で達磨(だるま)だね』
哲学者を評した警句として、読者が感心するのかもしれないが、私にはちっとも面白くない。
『そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。嵐の恋、暦にものっていない大嵐の恋、九寸五分
(くすんごぶ)の恋です』『九寸五分の恋が紫なんですか』『九寸五分の恋が紫なんじゃない。紫の恋が九寸五分なんです』
『恋を斬ると紫色の血が出るというのですか』『恋が怒ると九寸五分が紫色に閃(ひか)るというんです』
長篇『虞美人草』の前半はこういう捉えどころのない美文で続くのだからたまらない。
私はさきに漱石を名文家といったが美文家といった方が一層適切である。
藤尾は虚栄に富んだ近代ぶりの女性にすぎぬ。宗近の如きも作者の道徳心から造りあげられた人物で、知識階級の通俗
読者が、漱石の作品を愛読する一半の理由は、この通俗道徳が作品の基調となっているためではあるまいか。
――以上白鳥の漱石評の一端である。
読者は目から鱗が落ちた思いをしやしまいか。漱石はやや年長ではあるが林次郎高山樗牛(ちょぎゅう)と同時代人である。
樗牛は『月の夕べ雨のあした、われハイネを抱(だ)きて共に泣きしこと幾たびか』という類(たぐい)の美文を書いて
満都の子女(しじょ)を泣かした人である。漱石はそれを笑って、あの高山の林公が林公がとばかにしたというが、何ぞ
しらん漱石は美文の影響を受けている。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば
流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい云々という『草枕』の
冒頭は漱石の笑った美文である。白鳥は『三四郎』も読んだが『虞美人草』ほど随筆的美文的でなかったにも
かかわらず一篇の筋立さえ心に残っていない。読者を感激させる魅力のない長篇小説を読過(どつか)
することのいかに困難なるかを、そのとき感じたとも言っている。
同時代人は同時代人につらく当る。石原慎太郎の同時代人は石原が出世することを喜ばない。
まして首相になるなんて許せない。漱石が樗牛をばかにしたのは同時代人だったからだろう。白鳥は漱石より
十二も年下だが、デビューしたのは明治三十七年、漱石とほぼ同じころである。漱石は『坊ちゃん』と『猫』で一躍花形に
なったが、白鳥はまだ無名といっていい存在だった。
だからつらくあたるのかもしれぬという点を割引いても、白鳥の漱石評に私はわが意を得た。こういうときひろい世間は
黙殺して人が忘れるのを待つが、なん十年かたって『風』という評論家が漱石を卒業せよ、研究なんかするに値いしないと
コラムに書いたが、これまた黙殺された。白鳥は(泉)鏡花を全く認めていない。これも紹介したいがどこかの文庫にはい
っているはず、有志はさがして見るがよい。なければどこかの文庫で出すがよい、共に出色の文学である。
以上は漱石の小説評、評論評は打って変って違う、いずれ述べたい。
〔『文藝春秋』平成十二年七月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)