今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 修二会 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 修二会に加わる僧 ( 練行衆 ) は 、十一人にきまっている 。
その人名と役割が前年十二月十六日に発表されると 、結願の三
月十五日朝までのあいだ 、一山は四百年を一昼夜に圧縮するほ
どにいそがしい 。
練行をしたところで 、いっさい金銭で償われることがないの
である 。また寺としても 、他の寺社の行事のように 。参観料
や入堂料などが入ることがない 。ついでながら 、東大寺がひと
から金をとるのは大仏殿や三月堂などに入るときだけであり 、
他は山内を自由に歩いていい 。
『 東大寺は 、ダイブツがあるから 、十分利益があるじゃないか 』
と 、他の社寺でいうひとがいる 。まことにそのとおりかもしれ
ないが 、それらの収入は東大寺学園という中・高校の経営や東大
寺図書館などの出費にもあてられている 。欲に呆けたような社寺
などからくらべると 、当節 、東大寺の僧たちは上代の僧院のにお
いをまずまずのこしているといえるのではないか 。この寺の僧の
顔つきは 、いつも思うのだが 、世間の僧にくらべて数段いい 。
それもダイブツに食わせてもらっているおかげだ 、という人も
いる 。しかし人間の人相というものは食わせてもらえばよくなる
というものではない 。天平以来の伝統がどこか生きているためで
あり 、その伝統のしんというのは 、千数百年も修二会をくり
かえしているというところにあるかと思える 。
人間のくらしには 、『 文明 』と『 文化 』がかさなりあって
いる 。『 文明 』は普遍的で便利でかつ合理的なものだが 、つ
ねにそれに裏打ちされている『 文化 』は 、どの国あるいはど
の集団でも不合理なものであり 、逆にいえば不合理でなければ
『 文化 』ではありえないのではないか 。それに堪えて 、不断
にくりかえすというところに 、他とちがった光が出てくるとも
いえる 。 」
( ´_ゝ`)
「 文化は不合理なものだ 、といったが 、この場合 、文化の定義
は 、仮りに『 その集団を特色づける歴史的神聖慣習 』として
おきたい 。
そういう意味での東大寺における『 文化 』は 、修二会 ( お水
取り ) によって決定的に代表されている 。 」
引用おわり 。