今日の「お気に入り」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 阿修羅 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 旧興福寺の食堂跡に 、収蔵庫ができている 。
そこに 、国宝もしくは国宝級の寺宝が 、現興福寺によ
って保管されているのである 。たれでも入場料さえ払え
ば手軽に入れるということがありがたかった 。
ゆくと 、コンクリート製のその小さな建物は 、まわり
の景観には適 ( あ ) いがたく 、荘厳さも芸術性もない 。しかし
なかに入ると 、せまい部屋に 、ひしめくように彫塑や画
像がならんでいる 。
阿修羅は 、相変らず蠱惑的だった 。
顔も体も贅肉がなく 、性が未分であるための心もとなさが
腰から下のはかなさにただよっている 。眉のひそめかたは 、
自我にくるしみつつも 、聖なるものを感じてしまった心の
とまどいをあらわしている 。すでにかれ ―― あるいは彼
女 ―― は合掌しているのである 。といって 、目は求心的
ではなく 、ひどくこまってしまっている 。元来大きな目が 、
ひそめた眉のために 、上瞼が可愛くゆがんで 、むしろ小さ
く見える 。これを造仏した天平の仏師には 、モデルがいた
にちがいない 。貴人の娘だったか 、未通の采女だったか 。
『 シバさんは 、こういうひと 、好きですか 』
藤谷氏が 、阿修羅がのりうつったようなあどけなさできい
た 。
『 たれでも 好きでしょう 』
凛とした顔でないと 、この未分の聖はあらわせない 。阿修
羅は 、正面のほか 、他に二つの顔をもっている 。いずれも
思いを決した少女の顔である 。
『 こういうひと 、見たことがありますか 』
『 見た瞬間があると 、たれでも 』
と 、ここで たれでも を繰りかえした 。
『 あるんじゃないですか 。すぐれた少女なら 、少女期に 、
瞬間ながら 一度は こういう表情をするのではないでしょう
か 。それを見た記憶を ―― たとえ錯覚であっても ――
自分のなかで聖化してゆくと ―― 少女崇拝の感情を濾過
してゆくと ―― こうなる と思います 』
なんだか演説しているような面映ゆさを感じて 、その場
を離れた 。
阿修羅は 、私にとって代表的奈良人なのである 。 」
引用おわり 。
( ついでながらの
筆者註 : 上の文中に出てくる「 藤谷氏 」は司馬さんに同行された
編集者のお名前 。「 阿修羅 」は 、奈良の「 興福寺 」に
ついて縷々書かれた章で 、次のような記述もある 。
「 『 興福寺について考えましょう 』 と、向いにすわった
編集部の藤谷宏樹氏にいった 。
―― なぜ 、淡雪が融けるように 、 興福寺は消滅したのか 。
ということについてである 。
むろん 、いまも興福寺はある 。しかし
明治以前 、千数百年にわたって 、日本の寺としての
最大の領地をもちつづけた大寺としての興福寺は存在
しない 。 かつての興福寺を 、ここでかりに旧興福寺と
する 。現在の興福寺の僧侶たちの名誉にかかわるから
である 。 」
明治維新成立時の神仏分離( 廃仏毀釈 )の動きについて
宗教を飯の種にしている人たちが 多くを語りたがらない
理由が よくわかるのが 、「 阿修羅 」の章 。)