今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 修二会 ( しゅにえ ) 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 修二会は 、千年以上ものあいだ 、一年も休むことなく 、しかも
前例と違うこともなく 、平版印刷機のように動作がくりかえされ
てきている 。それも澱みの水のようにとりすました動作でなく 、
この行法には気迫と 、鑽仰 ( さんぎょう ) への熱気が必要なの
である 。それが 、百年一日どころか 、その十倍の歳月のあいだ 、
つづけられている 。 」
( ´_ゝ`)
「 どういう変動期にも 、深夜 、二月堂のせまい床の上を木沓で走り 、
また跳ね板の上に自分の体を投げて五体投地をやり 、あるいは『 達
陀 ( だつたん ) 』という語意不明のはげしい行法では堂内で松明を
旋回させてまわりに火の粉をふらせるのである 。 」
( ´_ゝ`)
「 『 しゅにえ 』
という意味は 、わかりにくい 。修の呉音がシュであることはわかる 。
二は『 二月 』の略に相違ない 、といわれている 。二月を修する 、
ということである 。修は 、宗教的にそれを整え 、それを飾り 、そ
れを直す 、という三つの精神的な動作をあわせたような意味として理
解したい 。となると 、修二会とは『 二月を美しいものにする 』と
いう意味である 。
べつに 、正月を美しいものにする 、という法会は 、平安初期以来 、
多くの寺々でおこなわれてきた 。その法会を『 修正会 』という 。
『 修二会 』は 、その言葉と同意なものであるらしい 。中村元博士の
『 仏教語大辞典 』の『 修二会 』の項では 、
インドの年始はシナ・日本の二月に当たるので 、シナ流に一月に行
なう修正会をインドに模して行なったものと伝えられている 。 」
( ´_ゝ`)
「 様変わることが常の世の中にあって 、千年以上も変ることがないという
ことが一つでもあったほうが ―― むしろそういうものがなければ ――
この世に重心というものがなくなり 、ひとびとはわけもなく不安になる
のではあるまいか 。
『 海とか山とかと おなじようなものだと思うのだけど 』 」
( ´_ゝ`)
「 人間が海や山を見たいと思うのは 、不動なものに接して安心をえたい
からではないか 。自然だけでなく 、人事においても修二会のような不
動の事象が継続していることは 、山河と同様 、この世には移ろわぬもの
があるという安堵感を年ごとにたしかめるに相違ない 。
『 様式 ( スタイル ) の新奇さだけを追うことが 、何になるのだろう 』 」
引用おわり 。
流行物は廃り物 ( はやりものはすたりもの ) 。