今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さん
( 1923年〈 大正12年 〉8月7日 - 1996年〈 平成8年〉2月12日 )
の 「 街道をゆく 」から「 阿修羅 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 私は 、奈良の仏たちのなかでは 、興福寺の阿修羅と 、
東大寺戒壇院の広目天が 、つねに懐しい 。
阿修羅はもとは古代ペルシアの神だったといわれるが 、
インドに入り 、時がたつにつれて次第に悪神 ( 非天 )
になった 。中村元博士の『 仏教語大辞典 』によると 、
闘争してやまぬ者 。争う生存者 、仏教では六道の
一つ 、八部衆の一つとされ 、一種の鬼神とみられ 、
須弥山下の大海底にその住居があるとされる 。
とある 。
しかしながら興福寺の阿修羅には 、むしろ愛がたたえ
られている 。少女とも少年ともみえる清らかな顔に 、
無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情がうかべられている 。
無垢の困惑というのは 、いま勝手におもいついたことば
だが 、多量の愛がなければ困惑は起こらない 。しかし
その愛は 、それを容れている心の器が幼すぎるために 、
慈悲にまでは昇華しない 。かつかれは大きすぎる自我を
もっている 。このために 、自我がのたうちまわっている 。
大きな自我こそ仏への道なのだが 、その道ははるかに遠
い 。法相・唯識は 、人間への絶望から出ているために 、
成仏するための修行は天文学的な時間が要るとされる 。
このために 、私どものような儚い自我ならともかく 、阿
修羅のように多量の自我を持ってうまれた者は 、困惑は
闘争してやまず 、困惑しぬかざるをえない 。
・・・ 」
引用おわり 。