今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 美人を形容する文句に、沈魚落雁閉月羞花というのがある。ちんぎょ、らくがん、へいげつ、しゅうかと読む。
あまりの美しさに魚は沈み、飛ぶかりがねは落ち、月は雲まに隠れ、花もはじらうというほどのことで、少年の
ころ寄席でおぼえた。
講談のなかの美人には必ず持病の癪があって、癪はにわかにさしこむもので、道中で苦しんでいると旅の若侍が
助けてくれたりした。
雨になやめる海棠という紋切型もあった。美人がしおれているのをむかしは海棠が雨にうたれているのにたとえ
た。翠帳紅閨という字もしばしば見た。みどりのとばりとくれないのねや即ち貴婦人の寝室のことで、なかにい
るのは美人にきまっている。
その美人が酔うと、玉山まさにくずれんとする趣になると講釈師は形容したから、膝でもくずしたかと胸とどろ
かした。
――御用さへ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰らうとすると、『兄さん、お願ひだから、もう一度お目
にかゝらせてね。』と寝乱髪に憂(うれひ)のきく淋しい眼元。袖にすがつていきなり泣き落しと来た、云々。
戦前の芸者は客が五十だろうと六十だろうと、お兄さんまたは兄さんと呼んだ。ここでは今夜ひと晩だけでなく、
もう一度会ってくれと、この芸者は言っているのである。
右は永井荷風の『あぢさゐ』という小説の一節で、荷風はまた名高い『雨瀟瀟』のなかで――愛嬌は至って乏しく
愁いもまずきかぬ顔立だと、女の容貌を叙している。『あぢさゐ』は昭和六年、『雨瀟瀟』は大正十年の作である。
憂いがきくまた愁いがきくはそのころは美人を形容する文句の一つだったが、いまは全く見なくなった。私はそれを
ファニー・フェイスが美人のうちに入って以来のことだとみている。あの顔に愁いはきかない。
沈魚落雁や翠帳紅閨は滅びても惜しくはないが、愁いがきくは惜しいと思うがどうか。」
(山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)
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