「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・10・06

2013-10-06 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)の著書「むかし卓袱台があったころ」の「あとがき」。

「卓袱台でご飯を食べると、家族を近く感じる。お互いの呼吸音がすぐそこに聴こえるし、ちょっと手足を伸ばすと、向かいや隣の家族の体に触れることもある。畳を伝わって体温も感じるし、みんなでおなじ物を食べている実感もある。いまと違って、茶の間が狭かったのもよかったのだろう。毎晩、六十ワットの電灯の下に体を寄せ合って、ご飯を食べているうちに、わたしは子供心に、この人たちとは一生付き合っていくに違いないと、いつのまにか思い込むようになった。あのころ、家庭で卓袱台を買い替えるのは、家族が増えて手狭になったときだけだった。減ればその分広くなる。私の家の場合は、私が末っ子だったから、物心つくころから、ずっとおなじ卓袱台だった。だから卓袱台は、家族の歴史であり、血族のシンボルみたいな物だった。
 ここに載せた私の文章は、昔はよかったと、ただ懐かしんでいるわけではない。あのころ確かにあった、家族たちのお互いへの思いや、近隣の人たちとの連帯が、いったいどこへ行ってしまったのか――その行方を、私は探しているのだ。たとえば、私が子供だった昭和十年代には、山の手ではたいてい三尺から四尺幅の縁側というものがあって、そこが主婦たちの小さな社交の場になっていた。町の情報は、みんな隣りの小母さんが運んできてくれた。隣りの小母さんは玄関からは来ない。隣りとの境には垣根があったが、その破れ目から朝の挨拶といっしょにやってくるのだ。小母さんは縁側に腰掛ける。だが、決して下駄を脱いで、廊下に上がり込むことはなかった。母は番茶は出すが、お茶菓子は出さない。世間話のリミットは、だいたいニ十分から、せいぜい三十分までである。――それが暗黙のルールだった。
 母が台所でお茶をいれている間、隣りの小母さんは体を目一杯伸ばして、私の家の奥を窺う。カーテンを付け替えたらしい、この前なかったミシンがある――けれど、それ以上に見たくても、小母さんは母の目を盗んで家へ上がり込んだりはしない。それもルールだった。だが、そのルールの範囲内でも、両家は十分お互いを知り合っていた。いまのマンション暮らしの隣家とは、親密さがまるで違う。いま隣人に向ける目は、警戒心や猜疑心がまず先に立つ。連帯感などには程遠い気持ちである。縁側の付き合いは、日を重ねるうちに信頼を増し、やがて何かのときに、子供を隣りに預けたりすることさえできるようになる。――そうした、あっさりしながらも、温かい隣人関係が、いまはない。大げさにいえば、〈人々〉という言葉がなくなった。〈――家の人々〉とか、〈――丁目の人々〉といった人間関係が、なくなったとも言える。それは、あのころを知っている私たちにとって、とても寂しいことだ。町の写真館で訊くと、家族の集合写真を撮る人の数は、年々減っているという。
 卓袱台はいずれなくなるだろう。けれど、私たちが日本人であるかぎり、卓袱台の〈心〉だけは、なくしたくないものである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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