今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家」より。
「松葉牡丹に霞草、花だけがおなじ色に咲き、おなじように風に揺れるのが、私には不思議でならない。朝の鏡に映った私の顔はは、いつか《胴村》の住人の顔である。それなのに、その顔の蔭に潜んでいる私は、あの日とおなじ五歳の童子のようである。ターナーの夕景に長い溜息をつき、一人の部屋で乱歩を読んで思わず辺りを見回し、いまはどこへ行けば御真影(ごしんえい)が手に入るのだろうかなどと考えている。あの家の庭に父が佇み、西日の差す台所には母が立ち、狭い階段を駈け降りて姉や兄が学校へ急いだ日から、もう半世紀になろうとしている。その年月を想いながら、私は人間というものが、恐ろしいくらいに変わってしまうものなのか、それともちっとも変わらないものなのか、その辺がわからなくなっている。そしてそのうち、何だか可笑しくなって私は笑ってしまう。――あれこれ思い悩んで生きてきたけれど、何のことはない。私も、あの家の花になればいいのだ。日が差せば目を上げ、風が吹けば揺れ、雨にうなだれる花になれば、それでいいのだ。生れたその日から、私はあの庭の一輪の花だったのだ。
春、花屋の店先で、私は鉢植えの小さな花の前にしゃがんでみることがよくある。私も父に似て、いわゆる小花が好きらしい。
(『歴史ピープル』96年3月)」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
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「松葉牡丹に霞草、花だけがおなじ色に咲き、おなじように風に揺れるのが、私には不思議でならない。朝の鏡に映った私の顔はは、いつか《胴村》の住人の顔である。それなのに、その顔の蔭に潜んでいる私は、あの日とおなじ五歳の童子のようである。ターナーの夕景に長い溜息をつき、一人の部屋で乱歩を読んで思わず辺りを見回し、いまはどこへ行けば御真影(ごしんえい)が手に入るのだろうかなどと考えている。あの家の庭に父が佇み、西日の差す台所には母が立ち、狭い階段を駈け降りて姉や兄が学校へ急いだ日から、もう半世紀になろうとしている。その年月を想いながら、私は人間というものが、恐ろしいくらいに変わってしまうものなのか、それともちっとも変わらないものなのか、その辺がわからなくなっている。そしてそのうち、何だか可笑しくなって私は笑ってしまう。――あれこれ思い悩んで生きてきたけれど、何のことはない。私も、あの家の花になればいいのだ。日が差せば目を上げ、風が吹けば揺れ、雨にうなだれる花になれば、それでいいのだ。生れたその日から、私はあの庭の一輪の花だったのだ。
春、花屋の店先で、私は鉢植えの小さな花の前にしゃがんでみることがよくある。私も父に似て、いわゆる小花が好きらしい。
(『歴史ピープル』96年3月)」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
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