「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・10・05

2013-10-05 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「母の聖地」より。

「亡くなった向田邦子さんと、あのころの食卓の話をよくした。あのころというのは、昭和十年代のはじめから太平洋戦争がはじまるまでの数年間のことで、私と向田さんは歳が六つ離れていたが、思い出す食卓の風景はよく似ていた。向田さんの家は目黒の元競馬場の裏、私の家は阿佐ヶ谷の駅から少し北へ入った住宅街にあり、父親が勤め人で家族構成もおなじようなものだったから、暮らし方も似通っていたのだろう。震災のころまでは、いまの渋谷がまだ都下だったくらいだから、目黒も阿佐ヶ谷もそのころは新興住宅街だった。道路に沿って和洋折衷のおなじような家が並び、露地を入ると黒塀の中から三味線の爪弾きが聞こえた。そんな話から朝の食卓の話になり、二人で一つずつ思い出の献立を挙げてみた。私は魚の煮物の煮凝(にこご)りだった。東京の冬の台所は寒く、水道管が凍らないように布が巻いてあったが、それでも母が薬缶(やかん)の熱湯をかけていたことがよくあった。前の晩は煮魚だった。ちょうど一人分余って残った。一晩のうちに煮汁が凍って、ゼラチン状になっている。舌に載せると、それがゆっくり溶けて、甘辛い味が口に広がった。私たちは、それを《ベッコ》と呼んでいた。冬の白々とした朝日の中で、母の鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)の色に見えたからyかもしれない。
 向田さんが忘れられないのは、ゆうべのカレーの残りだという。やはりゆうべの残り物である。ゆうべの食卓でお腹いっぱい食べたくせに、どうして一晩経っただけで、また食べたくなるのだろう。向田家では、ほんの半人前のカレーの残りを、姉妹で取り合って大騒ぎだったらしい。そう言えば、私の家でもそうだった。食物で争うなんてみっともないと父親に叱られたのもおなじだった。叱られて、小さくなって食べるゆうべの残りのカレーは、また一味違って美味(おい)しかったと向田さんが言い、私たちは笑った。大声で笑っている向田さんの顔を見たら、目の縁(ふち)がちょっと濡れていた。
 あのころは、ゆうべの食卓と今朝の食卓が繫(つな)がっていた。ゆうべのカレーの残りで、温かく繫がっていた。そして朝御飯を食べながら、父がわざと不機嫌な顔で、今夜のおかずは何だと母に訊き、さあ何にしましょうと母が小首を傾(かし)げ、朝の食卓はその夜の食卓に繫がっていった。――その母も、半世紀経って九十六歳になった。もう台所へ立つこともない。けれど私の中で、母はいつも白い割烹着を着て台所にいる。湯気に包まれて水を使っている。あの台所は、母の大切な縄張りであり、穏やかな安息所であり、小さな聖地だったような気がする。
                                           (『ミマン』96年11月)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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