「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

○に近い△を生きる 2013・10・09

2013-10-09 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「人は繫がりの中で生きている。しかし、人との繋がりの中で人は疲れる。
 時には傷つく。
 変な人間がいる。自分も変だからよくわかる。
 時々傷つくのはしょうがない。それでも人は一人では生きていけないから、傷つけ合いながら一緒に生きる。どうしたらいいのだろう。
 変であることをおもしろがることだ。
 この20年間でたくさんのヒットを飛ばした映画監督、スティーヴン・スピルバーグは『自分は失読症だった』とカミングアウトしている。字が読めないのである。日本だったらどうだろう。小学校1年生で字が読めないと、レッテルを貼られる。
 スピルバーグは変だったからこそ、画像で勝負をした。字が読めなくても、違う才能があふれていることはよくあることだ。
 この20年間で最も世界の人々に影響を与えたと言われている、アップル社のスティーブ・ジョブスも、人との距離のとり方が下手だったようだ。見方を変えれば、『変な人』だった。
 ヘルマン・ヘッセもおかしい。ノーベル文学賞をとっているけど何度もつまずいている。エリート校の神学校を退学。自殺未遂。さらに知的障害の施設にも入れられている。人との距離をとるのが下手だったのだろう。結局、勉強は中断したまんま、大学へも行けていない。
 大学なんて行かなくてもいいんだと、書店で働きだす。ここで詩を書いたり小説を書きだした。ヘッセは自分がおかしいというのがきっとわかっていたんだと思う。自分の中にある獣が暴れださないように、彼は庭仕事の楽しみを見出す。
 草思社の『庭仕事の愉しみ』という本を読むと、人間音痴のヘッセがどれだけ、庭に救われていたかがわかる。ヘッセはもしかして、今生きていたら、発達障害という診断を受けていたかもしれない。
 ちょっと変わっていることで、人生そのものが自然に『別解』になったのだ。『別解力』のある人の人生は魅力的になる。『車輪の下』とか『郷愁』などシリアスな文学をつくりあげたヘッセの晩年の詩にこんなものがある。
『しかし臨終の前にもう一度、一人乙女を捕まえたい。目の澄んだ、縮れた巻き毛の娘を その娘を大事に手にとって、口に胸に頬(ほほ)にくちづけし、スカートを パンティを脱がせる その後は 神の名において 死を 私を連れて行けアーメン』
 ヘッセは最後までおもしろい男だった。悠然と年をとっている。反対にいつもギラギラしている一面もいい。あるいは、自分の中にある獣が暴走しないように、上手にブレーキシステムをつくっている。そんな人生もおしゃれだな、と思った。
 人間には本能がある。食べたいとか眠りたいとか、セックスをしたいとか、戦って勝ちたい、などという本能が。この本能が見え隠れしているような生き方をしながら、なんとか、本能を手なずけようとしている。暴走したら、暴走したでしょうがない。ここがヘッセのおもしろいところ。自分が壊れないために、小説を書いていた可能性がある。詩や小説が彼にとっての『別解』であった。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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