「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

忘れられた日本人 Long Good-bye 2024・01・06

2024-01-06 06:41:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、宮本常一 さん ( 1907 - 1981 ) の著書

 「 忘れられた日本人 」( 岩波書店 刊 )  の中から「 私の祖父 」と題

 した小文の一節 。祖父とは 、宮本常一さんの祖父 宮本市五郎さんの

 ことである 。ドキュメンタリー なんだけど 、純文学 みたいな 、よく

 わからないけど 面白い 電子書籍 の一節 。

  備忘のため 抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 そうした人々の中でやっぱり一ばん印象にのこっ

  ているのは祖父宮本市五郎である 。周囲の人から

  見ればきわめて平凡な人であった 。だからもう大

  方の人に忘れられている 。弘化三( 1846 ) 年 山

  口県大島に生れ 、昭和二 ( 1927 ) 年にそこで死

  んだ 。中農の次男に生れたが 、兄がはやく大工と

  して他出するようになったため 、家で百姓をした 。

  市五郎も初め大工になろうと思ったが 、弟子入り

  して間もなく 、師匠に金槌で頭をたたかれたため 、

  そういう苦労をしてまで大工をすることもあるまい

  と思って家へかえった 。この地方では家の貧富に

  かかわらず 、大工になる風があった 。そして大工

  になればその家督をつぐことはほとんどなく 、大

  てい一ばんおとなしい者が家にのこって百姓する

  ことになった 。したがって家督は末子がとることが

  すくなくなかった 。私の家も代々長男が分家し 、

  その長男分家の家であったが 、祖父のときは祖父

  が百姓になったために家督をつぐことになった 。

  祖父には弟があった 。これも大工になった 。家に

  は田畑合して一町歩ほどの耕地があり 、自作で十分

  生活のたつ程度であったが 、長男がときどきかえっ

  て来ては親や弟に無断で耕地をうったのでだんだん

  減っていった 。耕地の売買には文書の上では大へん

  むずかしい規約があるが 、実際にはきわめてルーズ

  なものであったらしい 。そういう伝承はたくさんあ

  るけれどもここでは省略する 。この兄をかかえてい

  るためにだんだんまずしくなっていったが 、その上 、

  慶応二年に弟が旅で赤痢に感染してもどって来 、そ

  れが父にうつって 、父を失った 。父は善兵衛といっ

  て実によく働く人であった 。まったくの素人だった

  が 、石垣をきずくことが上手で 、いまもその石垣と

  いうのが所々にのこっている 。ノジ ( 山地 ) をひら

  くのに小石が多いからといって 、土を一々トウシ

  ( 篩 ) でふるったという 。それも昼間は田畑の耕

  作をしなければならないので 、夜 松明 ( たいまつ )

  をつけて仕事をしたという 。この働き手の父を失っ

  たことは市五郎にこたえた 。その上 、私の家へもっ

  てかえった赤痢が村にひろがって多くの人を死なせ大

  へんな迷惑をかけた 。慶応二年は長州征伐のおこな

  われた年で 、戦争がおこると人々は皆山地に難をさ

  けた 。私の家でも田のほとりの小屋でしばらくくら

  しをたてた 。その時病人の汚物を川であらった 。川

  下の人たちはその水を使用して感染したのである 。 」

  (* ̄- ̄)

 「  市五郎はいつも朝四時にはおきた 。それから山へいって

  一仕事して かえって来て朝飯をたべる 。朝飯といってもお

  粥である 。それから田畑の仕事に出かける 。昼までは みっ 

  ちり働いて 、昼食がすむと 、夏ならば三時まで昼寝をし 、

  コビルマをたべてまた田畑に出かける 。そしてくらくなる

  まで働く 。雨の日は藁仕事をし 、夜もまたしばらくは夜な

  べをした 。祭の日も午前中は働いた 。その上時間があれば

  日雇稼に出た 。明治の初には一日働いて八銭しかもうからな

  かったという 。

  仕事をおえると神様 、仏様を拝んでねた 。とにかくよくつ

  づくものだと思われるほど働いたのである 。

  しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず 、一日一

  日を無事にすごされることを感謝していた 。市五郎のたのし

  みは仕事をしているときに歌をうたうことであった 。歌はそ

  の祖父にあたる人から幼少の折おしえこまれたのがもとになっ

  ているらしい 。田植 、草刈 、草とり 、臼ひきなどの労働歌

  をはじめ 、盆踊歌やハンヤ節 、ションガエ節のようなものを

  も実によくおぼえていた 。祖父にあたる人は長男であったのが

  伯父の家へ養子に来た 。気らくな人で 、生涯めとらず 、すき

  な歌をうたいのんきに仕事をして一生をおわったらしい 。田植

  時期になると太鼓一つをもって方々の田へ田植歌をうたいにい

  った 。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった 。旅人はまた誰

  でもとめた 。子がないから弟の長男を養子にもらった 。それが

  善兵衛である 。善兵衛は働きものだが旅人の宿はつづけた 。宿

  といってもお金一文もらうわけではない 。家族の者と同じもの

  をたべ 、あくる日は一言お礼を言って出ていくのである 。

   生活はいつまでたってもよくならなかった 。

   子供は四人あって 、男が二人女が二人あった 。

   自分が大工の弟子で苦労したから 、大工にはさせたくなくて 、

  長男には百姓をさせようとしたが 、長男は百姓では一生頭があが

  らぬとて 、綿打をはじめたが 、外綿がはいって来てたちまち仕事

  に行きづまり 、ついで染物屋へ弟子に入ったが 、これも成功せず 、

  二十一歳の年にオーストラリアのフィジー島へ出稼にいくのだが 、

  やがて失敗して一年あまりでかえって来た 。その間市五郎の家内は

  毎朝氏神さまへまいった 。出稼者のある家はどこでもこうして毎朝

  早く神まいりをしたものである 。そして何日かに一度は屋根の棟へ

  お膳に御飯を盛ってそなえた 。これはカラスにささげるものである 。

  カラスは しらせをもって来てくれる鳥と信じられていた 。そなえた

  御飯をよい声でないてやって来てたべていけば無事であると信じられ

  た 。ところが 、どうした事かあるときカラスなきが大へんわるくて

  御飯もろくにたべぬことがあった 。息子はその頃フィジーで病気にか

  かっていたのである 。三百五十人渡航したものが 、一年後に神戸へ

  ついたのは百五人にすぎなかったという 。それでもとにかく生きても

  どって来てくれたのである 。 」

  引用おわり 。

  ( ´_ゝ`)

( ついでながらの

  筆者註:「 宮本 常一( みやもと つねいち 、1907年8月1日 - 1981年1月
   30日 )は 、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家 。

   経 歴
    山口県屋代島( 周防大島 )生まれ 。大阪府立天王寺師範
   学校( 現大阪教育大学 )専攻科卒業 。
    学生時代に 柳田國男の研究に関心を示し 、その後 渋沢敬三
   に見込まれて食客となり 、本格的に民俗学の研究を行うように
   なった 。
    1930年代から1981年に亡くなるまで 、生涯に渡り 日本各地を
   フィールドワークし続け( 1200軒以上の民家に宿泊したと言われ
   る )、 膨大な記録を残した

    宮本の民俗学は 、非常に幅が広く 後年は観光学研究のさき
   がけとしても活躍した 。民俗学 の分野では 特に生活用具や技
   術に関心を寄せ 、民具学 という新たな領域を築いた 。

    宮本が所属したアチックミューゼアムは 、後に日本常民文化
   研究所となり 、神奈川大学に吸収され 網野善彦らの活動の
   場となった

   学 風
    宮本の学問は もとより民俗学の枠に収まるものではないが 、
   民俗学研究者としては 漂泊民や被差別民 、性などの問題
   を重視したため 、柳田國男の学閥からは 無視・冷遇された

    20世紀末になって再評価の機運が高まった 。益田勝実は
   宮本を評し 、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にし
   つつも それらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向
   が強かったのに対 し、宮本は 自身も柳田民俗学から出発し
   つつも 、渋沢から学んだ民具という視点 、文献史学の方法
   論を取り入れることで 、柳田民俗学を乗り越えようとしたと
   位置づけている

     宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め 、長年に
   わたり刊行した 『 宮本常一著作集 』( 未來社 )で把握
   できるが 、未収録の記録も少なくない 。

  「 『 忘れられた日本人 』( わすれられたにほんじん )は 、宮本
   常一の著作で 、1960年7月に未來社で出版された 。1984年
   5月に岩波文庫( 網野善彦解説 )で再刊 。多く重版され 、
   宮本の代表作と見なされる 。

    収録された文章の大部分は 未来社の雑誌 『 民話 』( 1958年
   10月創刊 )に 、1958年12月-1960年6月 、10回の隔月連載
   として 、 「 年よりたち 」 という題で連載されたもの 。

    宮本の回想記 『 民俗学の旅 』( 文藝春秋 、1978年 )によれ
   ば 、1950年代に宮本は 「 項目や語彙を中心にして民俗を採集
   するというような 」 民俗学のありかたに疑問を感じていた 。   

  「 それよりも一人一人の人の体験を聞き 、そして その人の生活を支えた
   ものは何であっただろうか 」 という点を重視する 、宮本なりの回答
   がこの 『 忘れられた日本人 』 だった

   「 私の祖父

   初出は1958年12月『 民話 』3号 。つまり『 民話 』への連載第1話 。

   舞台は筆者の故郷周防大島 。   ( ここで言う筆者とは 宮本常一さんのこと )

   祖父宮本市五郎は平凡な人であった 。よく働いたが財産はできな

   かった 。どんな生きものにも魂はあるのだから大事にしなければ

   ならぬというのが信条であった

   以上ウィキ情報 。)

 

  ( ´_ゝ`)

   因みに 、コビルマ とは 小昼間 、おやつ 、間食 のこと 。小昼飯 とも

  言うそう 。

  ( ´_ゝ`)

   「 忘れられた日本人 」岩波文庫本の 解説 を書いておられる

  歴史学者 網野義彦さん  ( 1928 - 2004 ) は 、筆者が60年ほ

  ど前に通っていた都立高校で「 日本史 」の授業を受け持たれ

  ていた 。「 日本史 」を選択せず 、「 世界史 」を選択した筆

  者は 網野先生の謦咳に接していない 。当時「 日本史 」の授業

  以外にも「 会科学研究会 」や「 部落解放研究会 」などの

  顧問をされてた 網野先生に直接 接する機会がなかったのが 、

  筆者が左翼思想にかぶれることがなかった一番の理由かもしれ

  ないと このごろになって ふと思う 。

   なんせ 網野先生は 高校教諭になる前は 山村工作隊の指揮

  などもされていたという バリバリの共産党員 。 ( 若気の至り )

   網野先生の影響を強く受け 、社研に出入りしていた級友を

  知っている 。雀百まで踊り忘れず 。若き日に受けた洗脳は

  一生続く 。

   それはさておき「 忘れられた日本人 」に収録された「 年よ 

  りたち 」の話は とても 面白い 。

   歴史書 、正史のすき間を埋め 、その時代時代の地域社会に

  生きた人々の 息吹き みたいなものを ヴィヴィッドに 感じ

  させてくれる本 。

   年初から ゆっくり 読み進めている 。

 

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