「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

まず妻より始めよ。あとの世間は簡単だ Long Good-bye 2024・08・09

2024-08-09 05:43:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」

  最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 -   ) の随筆「 村上

 朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )

 の中に 「 傷つかなくなることについて 」という

 タイトルの小文がある 。その中から 三 、四節を 、

 備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「  歳をとって 、多少の差こそあれだんだん
  落ちてくるのは性的なポテンシャルばかり
  ではない 。精神的に『 傷つく能力 』だっ
  て落ちてくる 。これは確かだ 。たとえば
  若いうちは 、僕もけっこう頻繁に精神的に
  傷ついていた 。ささやかな挫折で目の前が
  真っ暗になったり 、誰かの一言が胸に刺さ
  って足もとの地面が崩れ落ちるような思い
  をすることもあった
。」

 「  僕が歳をとってそれほど傷つかなくなった
  のは 、人間が厚かましくなったからという
  理由からだけではないと思う 。ある日を境
  に『 歳をとった人間が若者と同じように精
  神的に傷ついたりするのは 、あんまり見栄
  えのいいものではない 』と認識するように
  なって 、僕はそれ以来なるべく傷ついたり
  しないように意識的に訓練を積んできたの
  だ 。」

 「  精神的に傷つきやすいのは 、若い人々に
  よく見られるひとつの傾向であるだけでは
  なくて 、それは彼らに与えられたひとつの
  固有の権利でもあるのだと 。もちろん歳を
  とっても 、心が傷つくことはいくらでもあ
  る 。でもそれを露骨に表に出したり 、あ
  るいはいつまでも引きずっていることは 、
  それなりに年齢を重ねた人間にとっては相
  応(ふさわ)しいことではない 。僕はそう思
  った 。だからたとえ傷ついても頭にきても 、
  それをするりと飲み込んでキュウリみたいに
  涼しい顔をしているように心がけた 。最初
  はなかなかうまくは行かなかったけれど 、
  訓練をかさねるうちにだんだん 、本当に傷
  つかないようになってきた 。」

 「 『 じゃあ 、傷つかないようになるためには 、
  現実的に何をすればいちばんいいのですか? 』
  と訊かれれば 、僕としては『 嫌なことがあ
  っても見ないふりをすること 、聞かないふり
  をすること 』と答えるしかないですね 。
   そこで 、すぐに役立つ村上春樹私家版〈 ピ
  ーターの法則 〉。『 まず妻より始めよ 。あ
  との世間は簡単だ 』。妻のいない人のことま
  では ・・・ 知らない 。」

  引用おわり 。

  うちの奥さんは 、僕に対して「 嫌なことがあっても

 見ないふりをすること 、聞かないふりをすること

 を 、若い頃から実践して 、今日に至っているらしい 。

 「 まず夫より始めよ 。あとの世間は簡単だ

  ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註 :「 ピーターの法則( 英: Peter Principle )とは
        組織構成員の労働に関する社会学の法則 。

        1. 能力主義の階層社会では 、人間は能力の極限
         まで出世する 。したがって 、有能な平( ひら )
         構成員は 、無能な中間管理職になる 。
        2. 時が経つにつれて 、人間はみな出世していく 。
         無能な平構成員は 、そのまま平構成員の地位に
         落ち着く 。また 、有能な平構成員は 無能な中
         間管理職の地位に落ち着く 。その結果 、各階
         層は 、無能な人間で埋め尽くされる 。
        3.その組織の仕事は 、まだ出世の余地のある人
         間によって遂行される 。
        1969年 、南カリフォルニア大学教授の教育学
       者 ローレンス・J・ピーター( Laurence J. Peter )
       によりレイモンド・ハル( Raymond Hull )との
       共著 THE PETER PRINCIPLE の中で提唱された 。」

       以上ウィキ情報 。

 

  

 

 

 

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趣味としての翻訳 Long Good-bye 2024・08・06

2024-08-06 06:08:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」

  最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 -   ) の随筆「 村上

 朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )

 の中に 「 趣味としての翻訳 」というタイトルの小

 文がある 。

  引用はじめ 。

 「 最近趣味はなんですかと訊かれると 、『 そう
  だなあ 、翻訳かな ・・・ 』と答えるようにな
  った 。」

 「 はっきり言って 、僕は翻訳という行為自体が
  好きだからこそ 、こうやって飽きもせずえんえ
  んと翻訳を続けているのだ 。これを趣味と言わ
  ずして何と言うべきか ・・・。」

 「 僕は下訳を使ったことは一度もない 。」

 「 僕は個人的に 、もし下訳を使ったりしたら 、
  それは翻訳という作業のいちばんおいしい部分
  を逃していることになるのではないかと考えて
  いる 。翻訳でいちばんわくわくするのはなんと
  いっても 、横になっているものをまず最初に縦
  に起こし直すあの瞬間だからだ 。そのときに頭
  の中の言語システムが 、ぎゅっぎゅっと筋肉の
  ストレッチをする感覚がたまらなく心地よいの
  である 。そして翻訳された文章のリズムの瑞々
  しさは 、このしょっぱなのストレッチの中から
  生まれ出てくる 。この快感は 、おそらく実際
  に味わった人にしかわからないだろう 。
   僕は文章の書き方というものの多くを 、この
  ような作業から結果的に学んだ 。」

 「 自分の味付けをなるべく表に出さないように 、
  ぎりぎりのところまで地道に無色にテキストに
  身を寄せて 、その結果として突き当たりの地点
  で自然に『 ひと味 』が出るのなら 、それはそ
  れで立派なことである 。でも初めから独自の味
  付けを狙ったら 、それは翻訳者としてはやはり
  二流ではあるまいか 。翻訳の本当の面白さは 、
  優れたオーディオ装置がどこまでも自然音を追
  求するのと同じように 、細かな一語一語にいた
  るまでいかに原文に忠実に訳せるかということ
  に尽きる 。」

  引用おわり 。

  米国の女流作家が書いた「 原作 」への偏愛が嵩じて 、

 初めから独自の味付けを狙って 、自分の感想を「 翻訳

 テキスト 」に含めてしまった 日本のマルチタレント作

 家 を知っている 。「 翻訳者として失格 」と言われかね

 ない行為だが 、原作者と知己であったり 、翻訳権を得て

 の翻訳であると 、多少の逸脱 、味付けは 、原作者の

 解が得られると本人も編集者も思い込むらしい 。

  本人に「 暗黙のルール 」逸脱の自覚がない場合 、現代

 なら チェッカーとして AI の出番になるんだろうか

 下訳を使わない場合でも 、AIならぬ生身の人間は 、あり

 とあらゆる記憶にしばられるから 、オリジナリティのある

 翻訳 が出来るかどうかは 、つまるところ「 才能 」の問題

 なんだろうか 。オリジナリティ の境界線は あいまいになり

 つつある 。  

 

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こいつはアホだ、カスだ、タコだ Long Good-bye 2024・08・03

2024-08-03 06:13:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」

  最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 -   ) の随筆「 村上

 朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )

 の中に 「 テネシーウィリアムズはいかにして見捨

 てられたか 」というタイトルの小文がある 。

  備忘のため 、その中の数節を抜き書き 。

  「 僕は大学で『 映画演劇科 』というところに
  行った 。映画を作ることに 、もっと正確に
  言えば映画のシナリオを書くことに興味を持
  っていたのだ 。その当時大学の文学部で映画
  の専攻課程を持っているのは 、早稲田と明治
  大学と日大芸術学部くらいしかなくて 、『 ま
  あ映画関連ならなんでもいいや 』という感じ
  で早稲田に入った 。」

 「 ここで僕は最初に 、テネシー・ウィリアム
  ズの戯曲を英語で読む講座をとった 。それま
  でにテネシー・ウィリアムズの芝居をいくつか
  読んで 、僕としてはけっこう気に入っていた
  からだ 。『 欲望という名の電車 』とか『 地
  獄に向かうオルフェウス 』とか 。でもこの先
  生がいささか変わった人で 、講義をしながら
  ほとんど初めから終わりまでテネシー・ウィリ
  アムズの悪口を並べ立てていた 。」

 「 僕は最初のうちは『 そんなものかな 』とび
  っくりして聞いていたのだが 、一学期そのク
  ラスに通っているうちに 、だんだんテネシー・
  ウィリアムズという人がほんとうに底の浅い下
  品な作家に思えてきた 。それはそうだろうと
  思う 。二十歳そこそこのものをろくすっぽ知
  らない学生が 、偉い大学の先生から『 こい
  つはアホだ 、カスだ 、タコだ 』と一学期ず
  っと繰り返し聞かされていたら 、やっぱりあ
  る程度マインド・コントロールされてしまう
  だろう 。少なくとも僕はされた 。
   どうしてこの先生が 、それほどまで嫌って
  いるテネシー・ウィリアムズの作品をテキス
  トとして選んだのか 、僕には知るべくもな
  い 。」

 「 この年になって振り返ってみれば 、『 そ
  ういうのはその教師の個人的な意見であって 、
  違う考え方も世間にはある 。芸術作品に対
  する評価はひとつだけではない 。それから
  大学の先生にも少し( かなり 、すごく
  変な人もいるんだ 』ということがわかる 。
  でも若い頃はそこまでは冷静に頭がいかな
  い 。テネシー・ウィリアムズを有効に罵倒
  する論理に ―― たしかに今思い出しても
  かなりうまく批判していた ―― 感心さえ
  した 。おかげさまで僕は好きな作家を一人
  減らすことができた 。どうもありがとさん 。」

 「 何かを非難すること 、厳しく批評するこ
  と自体が間違っていると言っているわけで
  はない 。すべてのテキストはあらゆる批
  評に開かれているものだし 、また開かれ
  ていなくてはならない 。ただ僕がここで
  言いたいのは 、何かに対するネガティブ
  な方向の啓蒙は 、場合によってはいろん
  な物事を 、ときとして自分自身をも 、取
  り返しがつかないくらい損なってしまうと
  いうことだ 。そこにはより大きく温かいポ
  ジティブな『 代償 』のようなものが用意
  されていなくてはならないはずだ 。そのよ
  うな裏打ちのないネガティブな連続的言動
  は即効性のある注射漬けと同じで 、一度進
  み始めるとあとに戻れなくなってしまう
  いう事実も肝に銘じておかなくてはならな
  いだろう 。
   もちろん僕にも作家や作品の好き嫌いと
  いうのはある 。人間に対する好き嫌いも
  ある 。でもその遥か昔のテネシー・ウィ
  リアムズの講義のことを思い出すたびに 、
  『 やはり人の悪口だけは書くまい 』と
  つくづく思う 。それよりはむしろ『 こ
  れはいいですよ 、これは面白いですよ 』
  と言って 、それを同じようにいいと思い 、
  面白いと喜んでくれる人をたとえ少しでも
  いいからみつけたいと思っている 。経験
  的に深くそう思う 。これは早稲田大学文
  学部が僕に与えてくれた数少ない生きた
  教訓のひとつである 。」

  引用おわり 。村上春樹さんのご意見に深く賛同

 いたします村上さんが早稲田大学で受講された

 頃と言えば 、大学は学園紛争で荒廃しており 、

 大学教授のおざわついていたのかも知れません

 ね 。当時テネシー・ウィリアムズさんと言えば 、

 60歳一寸前で 、既に 米本国では 劇作家として高

 い評価を受けていた御所だったのではないでしょ

 うか 。先生にも 、学生にも 、「 ネガティブな連続

 的言動 」に走る 、偏見に満ちた 、とんがった 、変

 な 考えかたをなさる方々が 表舞台にしゃしゃり出て

 いらっしゃっても 、ちっともおかしくない時代だっ

 たのではないでしょうか?  なんせ1960年代の

 後半ですもの 。

   。。。( ´_ゝ`) 。。。

 ( ついでながらの

   筆者註 :「  テネシー・ウィリアムズ( Tennessee Williams , 
       1911年3月26日 - 1983年2月25日 )は 、アメリカ
       合衆国のミシシッピ州コロンバス生まれの劇作家 。

        本名はトマス・レイニア・ウィリアムズ( Thomas 
       Lanier Williams )。愛称の『 テネシー 』はその
       南部訛りからセントルイスでの学友に付けられた 。
       ルイジアナ州ニューオーリンズのフレンチ・クオー
       ターで長年暮らした

       略 歴
        牧師の祖父 、音楽教師の祖母 、両親 、姉弟と
       ともに祖父の牧師館で育つ 。靴のセールスマンを
       していた父親は留守が多く 、粗野で暴力的 、酒
       と賭博が好きで 、病気がちで ひ弱なテネシーに
       失望していた 。両親は 夫婦仲が悪く 、喧嘩が
       絶えなかった 。2歳違いの姉とは大の仲良しで 、
       双子と間違われるほどだった 。母親は神経質で
       ヒステリックな人だったが 、優しい黒人の乳母
       がいて 、毎夜いろいろなおとぎ話を聞かせてく
       れていた 。

        8歳のときに 、父親の仕事の関係でミズーリ州
       セントルイスに引っ越し 、特権階級だった南部
       の穏やかな暮らしから 、工業都市のアパート暮
       らしに一変した 。新しい環境になかなかなじめ
       ず 、友人もなく 、家で過ごす日々が続いた 。
       この異なる環境の変化とそれに苦悶する人々は 、
       テネシーの作品によく現れるモチーフである 。

        ウィリアムズの家庭には問題が多かった 。彼
       の姉ローズは恐らく彼に対する最も大きな影響
       を与えた 。彼女は精神障害で精神病院の中で
       生涯のほとんどを過ごし 、両親は結局彼女に
       対するロボトミー手術を許可した 。ウィリア
       ムズはこのことで両親を許さなかったし 、愛
       する姉を救えなかった自分自身の罪の意識にも
       苦しんだ 。彼の作品の登場人物はしばしば家
       族に対する直接の抗議であると見られる 。
       『 欲望という名の電車 』のブランチ・デュボ
       ワ 、『 ガラスの動物園 』のローラ・ウィング
       フィールドは姉のローズ 、アマンダ・ウィング
       フィールドは 、彼の母親がモデルであるとされ
       る 。また『 去年の夏 突然に 』のセバスチャン 、
       『 ガラスの動物園 』のトム・ウィングフィール
       ドを含めて 、彼のキャラクターの多くは自叙伝
       的である 。

        彼はゲイだったことで知られている 。秘書の
       フランク・マーロ ( Frank Marlo ) との関係 
       は 、出会った1947年から1963年の癌によるマ
       ーロの死まで続いた 。1979年の1月に 、ヘイ  ( 68歳のころ )
       トクライムの犠牲者としてフロリダ州キー・
       ウェストで5人の10代の少年によって殴打され
       た 。
        晩年は 死や孤独に対する恐怖からアルコール
       やドラッグが手放せない生活になり 、1983年 、
       ニューヨークのホテルで目薬か点鼻薬のキャッ
       プを喉に詰まらせ窒息死した 。しかし 、彼の
       弟デーキン・ウィリアムズなど幾人かはそれが
       殺害だと信じている 。

      「  1948年には『 欲望という名の電車 』で 、19  ( 37歳のころ )
       55年には『 熱いトタン屋根の猫 』でピューリ  
( 44歳のころ )
       ツァー賞を受賞している 。」

      「  1956年にニューヨークの路上で三島由紀夫と  ( 45歳のころ )
       出会って以来親交をもち 、数回来日している 。」

       以上ウィキ情報 。) 

 

 

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