今日の「 お気に入り 」。
最近読んだ 村上春樹さん ( 1949 - ) の随筆「 村上
朝日堂はいかにして鍛えられたか 」( 新潮文庫 )
の中に 「 趣味としての翻訳 」というタイトルの小
文がある 。
引用はじめ 。
「 最近趣味はなんですかと訊かれると 、『 そう
だなあ 、翻訳かな ・・・ 』と答えるようにな
った 。」
「 はっきり言って 、僕は翻訳という行為自体が
好きだからこそ 、こうやって飽きもせずえんえ
んと翻訳を続けているのだ 。これを趣味と言わ
ずして何と言うべきか ・・・。」
「 僕は下訳を使ったことは一度もない 。」
「 僕は個人的に 、もし下訳を使ったりしたら 、
それは翻訳という作業のいちばんおいしい部分
を逃していることになるのではないかと考えて
いる 。翻訳でいちばんわくわくするのはなんと
いっても 、横になっているものをまず最初に縦
に起こし直すあの瞬間だからだ 。そのときに頭
の中の言語システムが 、ぎゅっぎゅっと筋肉の
ストレッチをする感覚がたまらなく心地よいの
である 。そして翻訳された文章のリズムの瑞々
しさは 、このしょっぱなのストレッチの中から
生まれ出てくる 。この快感は 、おそらく実際
に味わった人にしかわからないだろう 。
僕は文章の書き方というものの多くを 、この
ような作業から結果的に学んだ 。」
「 自分の味付けをなるべく表に出さないように 、
ぎりぎりのところまで地道に無色にテキストに
身を寄せて 、その結果として突き当たりの地点
で自然に『 ひと味 』が出るのなら 、それはそ
れで立派なことである 。でも初めから独自の味
付けを狙ったら 、それは翻訳者としてはやはり
二流ではあるまいか 。翻訳の本当の面白さは 、
優れたオーディオ装置がどこまでも自然音を追
求するのと同じように 、細かな一語一語にいた
るまでいかに原文に忠実に訳せるかということ
に尽きる 。」
引用おわり 。
米国の女流作家が書いた「 原作 」への偏愛が嵩じて 、
初めから独自の味付けを狙って 、自分の感想を「 翻訳
テキスト 」に含めてしまった 日本のマルチタレント作
家 を知っている 。「 翻訳者として失格 」と言われかね
ない行為だが 、原作者と知己であったり 、翻訳権を得て
の翻訳であると 、多少の逸脱 、味付けは 、原作者の理
解が得られると本人も編集者も思い込むらしい 。
本人に「 暗黙のルール 」逸脱の自覚がない場合 、現代
なら チェッカーとして AI の出番になるんだろうか 。
下訳を使わない場合でも 、AIならぬ生身の人間は 、あり
とあらゆる記憶にしばられるから 、オリジナリティのある
翻訳 が出来るかどうかは 、つまるところ「 才能 」の問題
なんだろうか 。オリジナリティ の境界線は あいまいになり
つつある 。