理事長 丸井一郎です。
ある県庁所在地のとある食堂(レストランと名乗っていました)の入り口に、「当店でイタリア料理のスローフードを」というボードが出してありました。いやはや困ったものです。たしかに、スローフード運動は1986年に、多国籍企業のファストフードに対抗して、イタリアで始まり、運動として(!)、世界中に広がったのですが、その精神に照らせば、我々が日本でイタリア料理としてのスローフードを作ることは、ほぼ不可能だし、なによりその努力自体が無意味です。
途中を飛ばして結論だけ言うと、スローフードとは、世界各地の非常に異なる環境に非常に異なるやり方で適応してきた人類の集団が、長いことかけてそれぞれに見つけてきた食材と調理法と食術(=食生態)に基礎を置くものです。スローフード運動は、そういった食生態を尊重し、保護し育成すること、さらにはその基礎である各地域の暮らし方にまでさかのぼって、その意義を再評価・確認・顕彰することを目指します。
つまり重要な点は、その人々がその土地で歴史上絶滅しなかったのは、まさしくそういう食べ方(暮らし方)を見いだし定着させてきたからだということを評価することです。よって高知地方のスローフードとは、“たきな”や“いたどり”や“りゅうきゅう”や“ぶしゅかん”や“うるめ”や“くまびき”や“しほうちく”や“さといも”などなどを使った日々の総菜や「お客」・「祭」の皿鉢などなど、ということになります。そこにカポナータが入るはずはありません。
このおたよりの丸井シェフコラムでは、イタリア風の調理法を(も)紹介しますが、これは今時の食事の日々のアクセントということで、基本はいうまでもなく伝統的な総菜(とご馳走)にあります。ちなみに我が家では、朝ご飯は、分づき米(井上さん長野さんありがとう)と野菜など具だらけの味噌汁(味噌味が濃くても塩の総量が少なくなる)とチリメンジャコ、お浸しや自家製ぬか漬け、配送のご飯の友類などなどです。私は酒が嫌いではないですが、この朝食がいつも通り食べられないほど飲むことを自分に禁止しています(が、それを守ることが凡夫には難しいのがつらい)。
つまるところ、「命の糧、いずこより来るを知らぬは亡国」というではないですか。
「え、聞いたことがない?」そのはずです。私の発明だから。
途中を飛ばして結論だけ言うと、スローフードとは、世界各地の非常に異なる環境に非常に異なるやり方で適応してきた人類の集団が、長いことかけてそれぞれに見つけてきた食材と調理法と食術(=食生態)に基礎を置くものです。スローフード運動は、そういった食生態を尊重し、保護し育成すること、さらにはその基礎である各地域の暮らし方にまでさかのぼって、その意義を再評価・確認・顕彰することを目指します。
つまり重要な点は、その人々がその土地で歴史上絶滅しなかったのは、まさしくそういう食べ方(暮らし方)を見いだし定着させてきたからだということを評価することです。よって高知地方のスローフードとは、“たきな”や“いたどり”や“りゅうきゅう”や“ぶしゅかん”や“うるめ”や“くまびき”や“しほうちく”や“さといも”などなどを使った日々の総菜や「お客」・「祭」の皿鉢などなど、ということになります。そこにカポナータが入るはずはありません。
このおたよりの丸井シェフコラムでは、イタリア風の調理法を(も)紹介しますが、これは今時の食事の日々のアクセントということで、基本はいうまでもなく伝統的な総菜(とご馳走)にあります。ちなみに我が家では、朝ご飯は、分づき米(井上さん長野さんありがとう)と野菜など具だらけの味噌汁(味噌味が濃くても塩の総量が少なくなる)とチリメンジャコ、お浸しや自家製ぬか漬け、配送のご飯の友類などなどです。私は酒が嫌いではないですが、この朝食がいつも通り食べられないほど飲むことを自分に禁止しています(が、それを守ることが凡夫には難しいのがつらい)。
つまるところ、「命の糧、いずこより来るを知らぬは亡国」というではないですか。
「え、聞いたことがない?」そのはずです。私の発明だから。
追記)この話題については、丸井一郎(2006):『スローフードをはぐくむドイツのスローシティ』(南の風社)を、興味のある方に差し上げます。