乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-3 【巻一 朝覲行幸】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

2020-08-25 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)

 

 

  『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-3 【巻一 朝覲行幸】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

 

 

【巻一 朝覲行幸】一紙

黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)

 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とは、平安時代以降の日本の天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束。

「黄櫨染」色の袍(ほう)のことである。

 黄櫨染(こうろぜん/はじぞめ)は櫨(はぜ)の樹皮と蘇芳(すおう)から染め出される色で、「赤みがかった黄色」や、「黄がかった茶色」等と言われる。

 時代や着用者の年齢等によってかなり幅のある色であったと考えられている

 令和元年(2019)の即位昇段の儀における海外報道の多くでは、その色調はbrown-goldと評され

 

袍(ほう)

 袍(ほう)とは、日本や中国などで用いられる衣服。

 日本においては、朝服の上衣のひとつ。

 武官・幼年用の闕腋袍(けってきのほう。 両わきの袖付けの下を縫い合わせない)と、文官用の縫腋袍(ほうえきのほう。)

櫨(はぜ)

 うるし科

蘇芳(すおう)

 蘇芳(すおう)とは、黒みを帯びた赤色のことで、『蘇方色』『蘇枋色』とも書きます。

 蘇芳とは染料となる植物の名前で、蘇芳の芯にある色素を明礬(みょうばん)や灰汁を使って発色させたものです。

 明礬焙煎では赤に、灰汁で赤紫に、鉄では暗紫になります。

 今昔物語では凝固しかけた血液の表現にも使われています。

 

 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を真っ黄色に置き換えるっと、

 歌舞伎『蜷川十二夜』の翫雀(現鴈治郎)の衣装だわ^^

 この衣装では、翫雀(現鴈治郎)さん、

「ぼっちぃ(僕)、ぼっちぃ(僕)。

と連発されていたなぁ^^

 歌舞伎、見たいなぁ^^

 

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乱鳥徒然  大明神様でございまするわぇのう。

2020-08-25 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 

 此処のところ運動がてらジャズやらロックに合わせて、ステップを踏んだり、激しくドラムを叩くそぶりでストレスを発散させていた。

 挙句、スティックぐらいは買おうかと思っていたさなか、腕が痛くなった(><)

 こりゃダメだわと、昨日夫にリコーダーを貸してと頼んだのだが、渋々、短い方の笛を貸してくれた^^

 にゃはは!と言わんばかりの私^^

 でたらめに、ソニー・ロリンズだの、ニール・ヤングだの(どういう組み合わせやのん?!)のりのりで吹いていたが、木笛の滑らかさは全くなく、ピーピー、ピイィ!

 まるで能楽のカケリの始まりのような音を何度も立てていた。

 あらま!

   能楽見たや、歌舞伎見たや!の、大明神様でございまするわぇのう。

 

 

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『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-2 【年中行事絵巻、朝覲行幸】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

2020-08-25 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)

 

 

  『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-2 【年中行事絵巻、朝覲行幸】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

 

 

『年中行事絵巻』小松茂実

 もとは12ヶ月全て、宮中腫瘍の年中行事を絵画化

 一年の前半が比較的残る。

 7〜9月、12月がほとんど残ってない。

 

『朝覲行幸』 

 対象者が天皇の御所の外に別個に御所を設けて居住している場合には、天皇の行幸を伴うことになり、こうした朝覲を目的とした行幸を特に朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)と称する。

 

『朝覲行幸』(日本第百科全書)

 覲は謁見の意で、天皇が親である太上(だいじょう)天皇・皇太后の居所を訪問し拝謁すること。

 朝覲行幸とはそのために行幸、すなわち外出すること。

 嵯峨(さが)天皇の809年(大同4)8月に始まったとされ、平安時代に盛んになる。

 鎌倉時代まで行われたが、以後は下火になった。

 年始の挨拶(あいさつ)として正月の3、4日ごろに行われるのが朝廷の恒例の儀となったが、ほかに践祚(せんそ)、即位または元服のあとに行われる臨時の儀もあった。[酒井信彦]

 

朝覲

 朝覲(ちょうきん)とは、天皇が父母もしくはそれに準じる太上天皇・女院に拝礼すること。

 対象者が天皇の御所の外に別個に御所を設けて居住している場合には、天皇の行幸を伴うことになり、こうした朝覲を目的とした行幸を特に朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)と称する。

 

朝覲  (大辞林)
 
 ① 天皇が太上天皇や皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと。
  年頭に行われる恒例の儀と、践祚・即位・元服の後に行われる臨時の儀とがある。
 
 ② 諸侯や属国の主が天子に拝謁すること。
 
行幸 ( 名 )
 
 天皇がが出かけること。みゆき。
 
行幸 
 
 《名・ス自》天皇のお出まし。みゆき。
 
 
 
 
 
 

 

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『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-1 【下調べ】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

2020-08-25 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

 祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)

 

 

  『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-1 【下調べ】 中央公論社 小松茂実編 1977年12月20日

 

 

小松茂実

1977年12月20日

 

『年中行事絵巻』  (大辞林)

 絵巻物。

 平安後期の成立。

 後白河院の命により常盤光長らが制作。

 当時の宮廷での年中行事や民間風俗が描かれている。

 もと六〇巻と伝えられるが焼失、現在は模本一六巻その他が伝わる。

 

『年中行事絵巻』  (日本大百科全書)
 
 絵巻。
 平安時代における宮中の儀式や、祭事、法会(ほうえ)、民間の宗教上の風俗など、年中の行事を集めて描いたもの。
 平安末期に後白河(ごしらかわ)法皇が六十巻余に及ぶ絵巻を常盤光長(ときわみつなが)を中心に制作させ、藤原基房(もとふさ)に校閲させて蓮華(れんげ)王院(三十三間堂)の宝蔵に収め後世に伝えた。
 この原本はしだいに散逸し、残ったものも江戸時代に幾たびかの内裏(だいり)の炎上で焼失した。
 現在は失う前に模した模本が伝わり、田中家その他に分蔵される。
 これは、1661年(寛文1)ごろ、宮中にあった原本を土佐広通(ひろみち)(住吉如慶(じょけい))が写した白描(はくびょう)模写十六巻をはじめとしたもので、二十四、五巻分の図様を伝えている。
 近世の模写とはいえ、平安時代の風俗資料としてきわめて高い価値を有する。[村重 寧]
『新修日本絵巻物全集24 年中行事絵巻』福山敏男編(1978・角川書店) 
『日本絵巻大成8 年中行事絵巻』小松茂美編(1977・中央公論社)』

 

後白河院

 第七十七代天皇。後鳥羽天皇の第四皇子。

 母は藤原公実の娘。

 戦乱の世にあり、長く院政をすすめた。

 仏教を厚く信仰。

 東大寺の大仏再建。

 今様を愛す。

『梁塵秘抄』を編纂した。

 建久3年(1192)66歳、歿

 

『梁塵秘抄』

 平安末期、後白河法皇(1127-1192)が編んだ歌謡集。

 主として「今様」と呼ばれる平安末期に流行した声楽の歌詞の集大成。

 記譜はなく、その歌い方も伝承されていないので、歌曲の音楽としての面は不明である。

「今様」は、その当時として〈今よう〉、つまり現代ふうという意味で名づけられたもの七五調四句の詞型を特徴とし、独唱者が主として鼓などの単純な打楽器の伴奏とともに謡ったのではないかと推定されている。

 歌詞集及び口伝集、ともに10巻ずつがあったと推定されているが、歌詞集の巻1の断簡と巻2、口伝集の巻1の断簡と巻10のみが現存する。

 成立年代は未詳だが、嘉応元年までに口伝集の大部分が成立していたと思われる。

 現存本では566の今様を長歌(ながうた)、古柳(こやなぎ)、今様、法文(ほうもん)歌、四句神歌(しくのかみうた)、二句神歌などに分類して収載している。口伝集には撰述の事情などが記してある。

 平安末期の庶民感覚が生き生きと表現されており,文学史音楽史のみならず風俗思想史上にも重要な資料である。

 

常盤光長

 12世紀後半,後白河上皇のもとで活躍し,『年中行事絵巻』や『伴大納言絵詞』の筆者に擬せられる宮廷絵師。

 生没年をはじめ経歴の詳細は不明であるが,後世土佐派の系図において,基光,隆能などに続く祖先の一人に列せられて土佐光長などと呼ばれ,当時の能画の第一人者と目された。

 この光長は,後白河上皇の寵妃建春門院が建立した最勝光院の御堂や御所の障子絵制作を命ぜられた常盤源二光長と同一人物と考えられる。

 

藤原基房

 [生]久安1(1145).京都

 [没]寛喜2(1230).12.28. 京都

 平安時代末期の廷臣。

 関白忠通の次男。

 松殿,中山菩提院などと呼ばれた。

 保元1 (1156) 年正五位下となり,権中納言,内大臣,左近衛大将,右大臣を経て長寛2 (64) 年左大臣。

 仁安1 (66) 年後白河院政下で摂政,関白となったが,平氏抑圧を策して平清盛によって治承3 (79) 年解任された。

 のち宮本義仲結んで復活したが,義仲の死後失脚した。

 

土佐広通

 室町初期から幕末にいたるまで,おもに宮廷の絵所を拠点として日本の伝統的な絵画様式を継承・保持した画派。

 1414年(応永21)に描かれた京都清凉寺の《融通念仏縁起絵巻》に,各場面を分担制作した6人の画家名が記されるが,そのなかに〈土佐〉と呼ばれた2人の画家,行広と行秀の名が知られる。

 行広は《教言(のりとき)卿記》応永13年(1406)10月29日条に土佐将監と記され,《足利義満像》を描いたのをはじめ1443年(嘉吉3)まで活躍し,経光と号した

 

絵所

 画(絵所・えどころ)とは、平安時代に成立した天皇の家政機関の1つ。

 本来は宮廷の絵画・意匠を考案・制作する「所」であるが、鎌倉時代には絵画の需要が多い寺社の工房にも置かれるようになり、南北朝時代には独立した絵師の工房に対しても用いられるようになった。

 

『融通念仏縁起絵巻』

 融通念仏宗の開祖良忍の伝記、同宗の功徳などを描いた2巻本の絵巻物。

 念仏勧進のため正和3年(1314)に最初の作品が成立し、以後広く伝写された。

 南北朝時代に良鎮 (りょうちん) の勧進により制作された「知恩院本」、明徳2年(1391)制作の木版による「大念仏寺本」、この木版本の図様を踏襲した紙本著色の「清凉寺本」(応永年間の作)などがある。

 特に清涼寺本は六角寂済 (じゃくさい) 、藤原光国、土佐幸宏、粟田口隆光ら、当時一流の画家たちが制作に参加しており、室町期の大和絵の貴重な作例として国の重要文化財に指定されている。

 

 

 

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東海道中膝栗毛 三巻 7 十丁裏 十一丁表  十返舎一九 通油町(東都) : 栄邑堂, 享和2-文化11

2020-08-25 | 十返舎一九

 

 東海道中膝栗毛 三巻 7 十丁裏 十一丁表  十返舎一九 通油町(東都) : 栄邑堂, 享和2-文化11

 

 

 

 東海道中膝栗毛 三巻

 発端,初,後,3-8編 / 十返舎一九 著

 十返舎一九 1765-1831

 通油町(東都) : 栄邑堂, 享和2-文化11[1802-1814]序

 18冊 ; 19cm

 滑稽本
 書名は発端の巻頭による その他の巻頭書名:浮世道中膝栗毛,東海道中膝栗毛 序題:膝栗毛 題簽書名:浪華見物滑稽膝栗毛 見返し題:東海道中滑稽記膝栗毛,洛中滑稽之記膝栗毛 扉題:中ッ腹五十三次売ッ尻道中之記
 序:芍薬亭主人ほか
 共同刊行:河内屋太助(大阪心斎橋唐物町)ほか

 和装
 印記:拾翠艸堂児戯之記

 読んでいるのは、早稲田大学 ヘ13 03123 3巻目

 

 

十丁裏

斯(かく)て山中といへる建場(たてば)に似たる、爰ハ両側に、茶

屋軒をならべて、「おやすみなさいまァし、くだり

諸白(もろはく)もおざりやァす、もち(餅)よヲ、あがりやァし、いつ

せんめしヲあがりやァし、お休みなさいやァし/\

弥二「きた八、ちつと休んでいかふ、 ト ちゃ屋へ入る、此内のにハにつきたてたる、へつついのまへへ

おもてのかたより、たけのきせるをくはへて、一人のくもすけ、ずつと入り、「おへねへひやうたゝれどもだ、

ある熊や、どぶ八目が、峠まで長持ちでゆつたァな、

 

十一丁表

ひとりのくもすけ「ゑいは、そんざいあびてが、あんどんにげんこ(五十)ハ

ふんだくるべい、この長もちといふハ、六百の事、あびごといふハ、さりての事也、今一人「コレそりやァ

ゑいが、コノやろうが、しやらくを見ろべ、しつかりもん

つきをきァがつた、酒ごもきている雲すけ、「きんによう(昨日)、小田原

の甲州屋で、やらやつと壱まいもらつてきたが、あん

まり裾が長くて、お医者様のよふだとけつかる

丸はだかのくも、「やろうめらァ、工面がゑいから、すきなものをき

やがる、こんぢう(此中)内から、はだかでゐりやァ、がら

 

建場(たてば)

  江戸時代、宿場と宿場の間の街道などで、人足、駕籠かきなどの休息した所。

  明治以後は人力車や馬車などの発着所をいう。

 2 人の多く集まる所。たまり場。

 3 位置。たちば。

  業者がその日に集めた廃品を買い取る問屋。

諸白(もろはく)

 諸白(もろはく) とは日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。

 または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。

 一方、麹米は玄米のままで、掛け米(蒸米)だけに精白米を用いる製法、またはその製法で造られた酒のことを片白(かたはく)という。

 麹米、掛け米ともに精白しなければ並酒(なみざけ)と呼ばれた。

諸白(もろはく)もおざりやァす、

 → 諸白(もろはく)もございます

げんこ(五十)

 ① 固く握った手。

 ② 〔近世、馬子、駕籠(かご)かきなどが用いた隠語〕 五・五〇・五〇〇などの金額。片手

甲州屋

 実家の宿屋か、酒屋。(日本古典文学全集 頭注)

やらやつと

 やっとの事で。(日本古典文学全集 頭注)

裾が長くて

 医者の着る気長い合羽に見立てて(日本古典文学全集 頭注)

 

 

 

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