がじゅまるの樹の下で。

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百十踏揚行脚~首里城/京の内・クンダグスク~

2011年07月06日 | ・『百十踏揚』を読ム

昨日の記事の続き)

昨日の写真は現在の首里城「京の内」を古写真風にレタッチしたものでした~。

王国時代は実に鬱蒼とした森だったとか。

首里城が復元されて19年。

何もなかった復元・京の内もこれだけ木々が伸びてきて
なんとなく「森」の雰囲気を味わうことができるほどになりました
(でも台風2号の塩害はどうだったかな~写真は去年の秋に撮ったモノです)

 

 

 

さて、そんな京の内は御嶽が集中する聖域なだけあって、
ミステリーな伝承や話も数々あるのですが、

今日はその中の1つ、

ある御嶽と、「クンダグスク」にまつわるこんな話を、
小説「百十踏揚」から引用してご紹介しましょう。

 

時は1469年。

7代目琉球国王、尚徳が29歳の若さで急死。

その直後に、事件が起こるのです。

 

■首里城/京の内・クンダグスク■

世あすたべは王の「急死」に不穏なものを嗅ぎ取り、
急遽、群臣を御広庭に非常召集し、幼い世子の手を取って、
間髪をいれず、その即位を宣しようとした。

その時、一人の鶴髪雪の如き老臣が、

「あいや、しばらくお待ちあれ!」

と手を挙げて、進み出たのである。

群臣が一斉に振り向いた。

老臣は胸を張って、群臣を眺め渡し、

「国家はすなわち、万姓の国家にして、一人の国家に非ず」

朗々とひびき渡る声で大演説をぶったのである。


―――今こそ内間後鎖金丸を王に樹てようではないか。


満潮の臣士は、声を和して、

「オーサーレ!オーサーレ!」

と呼応した。

「その通りだ」という掛け声である。

呼応するとどろきはあたかも雷鳴のようであった。

 

このようにして、クーデターは成し遂げられたのである。

 

王家の人々とその近臣は、先を争って逃げた。

王妃と、王母、世子の乳母らは、
幼い世子を連れて、京の内の御嶽深くに隠れたが、
兵たちが追い詰めて殺害、首里城の巌下に葬ったという。

 

その巌下というのは、
首里城南西部の京の内の南崖で、
俗に“クンダ(脹)城”と呼ばれている。

殺されて投げ捨てられた王妃の脹骨(ふくらはぎ)が崖に引っ掛かっていたからという、
おぞましい伝承にちなんでいる。

 

「百十踏揚 641-」(与並岳生著/新星出版)
※一部文節調整あり

 


そうです。

王妃たちが逃げ隠れ、殺されたといわれている場所(御嶽)が、
今でも京の内に見ることができるのです。

ちょっと寄り道するコースにはなりますけどね。

京の内も隅々まで歩いてみると
また違った首里城の姿が見えてきますね。

クンダグスクはこの御嶽の城壁の下辺りになるそうです。
城壁の下には降りられず、草木ボーボーの未整備エリアです。
なので今は「このあたり」という感じで上から眺める程度です。

ちなみに「クンダグスク」の名前の由来ですが、
別説もあります。
(詳しくはたとえばコチラのサイトをどうぞ)

 

  

色んな説がある第二尚氏のクーデターですが、
やっぱり武力を使って血も流してるんだよね~

そして、クーデター派は、
そのまま金丸を王として迎えるため、
金丸の隠居する内間村に向かうのです。

(この後の話は過去記事、こちらから)

 

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