(昨日の記事の続き)
昨日の写真は現在の首里城「京の内」を古写真風にレタッチしたものでした~。
王国時代は実に鬱蒼とした森だったとか。
首里城が復元されて19年。
何もなかった復元・京の内もこれだけ木々が伸びてきて
なんとなく「森」の雰囲気を味わうことができるほどになりました
(でも台風2号の塩害はどうだったかな~写真は去年の秋に撮ったモノです)
さて、そんな京の内は御嶽が集中する聖域なだけあって、
ミステリーな伝承や話も数々あるのですが、
今日はその中の1つ、
ある御嶽と、「クンダグスク」にまつわるこんな話を、
小説「百十踏揚」から引用してご紹介しましょう。
時は1469年。
7代目琉球国王、尚徳が29歳の若さで急死。
その直後に、事件が起こるのです。
■首里城/京の内・クンダグスク■
世あすたべは王の「急死」に不穏なものを嗅ぎ取り、
急遽、群臣を御広庭に非常召集し、幼い世子の手を取って、
間髪をいれず、その即位を宣しようとした。
その時、一人の鶴髪雪の如き老臣が、
「あいや、しばらくお待ちあれ!」
と手を挙げて、進み出たのである。
群臣が一斉に振り向いた。
老臣は胸を張って、群臣を眺め渡し、
「国家はすなわち、万姓の国家にして、一人の国家に非ず」
朗々とひびき渡る声で大演説をぶったのである。
―――今こそ内間後鎖金丸を王に樹てようではないか。
満潮の臣士は、声を和して、
「オーサーレ!オーサーレ!」
と呼応した。
「その通りだ」という掛け声である。
呼応するとどろきはあたかも雷鳴のようであった。
このようにして、クーデターは成し遂げられたのである。
王家の人々とその近臣は、先を争って逃げた。
王妃と、王母、世子の乳母らは、
幼い世子を連れて、京の内の御嶽深くに隠れたが、
兵たちが追い詰めて殺害、首里城の巌下に葬ったという。
その巌下というのは、
首里城南西部の京の内の南崖で、
俗に“クンダ(脹)城”と呼ばれている。
殺されて投げ捨てられた王妃の脹骨(ふくらはぎ)が崖に引っ掛かっていたからという、
おぞましい伝承にちなんでいる。
「百十踏揚 641-」(与並岳生著/新星出版)
※一部文節調整あり
そうです。
王妃たちが逃げ隠れ、殺されたといわれている場所(御嶽)が、
今でも京の内に見ることができるのです。
ちょっと寄り道するコースにはなりますけどね。
京の内も隅々まで歩いてみると
また違った首里城の姿が見えてきますね。
クンダグスクはこの御嶽の城壁の下辺りになるそうです。
城壁の下には降りられず、草木ボーボーの未整備エリアです。
なので今は「このあたり」という感じで上から眺める程度です。
ちなみに「クンダグスク」の名前の由来ですが、
別説もあります。
(詳しくはたとえばコチラのサイトをどうぞ)
色んな説がある第二尚氏のクーデターですが、
やっぱり武力を使って血も流してるんだよね~
そして、クーデター派は、
そのまま金丸を王として迎えるため、
金丸の隠居する内間村に向かうのです。
(この後の話は過去記事、こちらから)
歴史ブログ 琉球・沖縄史
今日もご訪問ありがとうございます。
ぽちっと応援お願いします♪