さて、久々の程順則(名護親方)記事。
知っている人にとってはなんてことない内容だけど、
思い込みからか、一般的には意外と知られていない
こんな事実その1。
名護親方と言えば程順則、
程順則と言えば名護親方、
というくらい、がっつりイコールのイメージがありますが、
程順則は人生の大半は
「名護親方」じゃなくて
「古波蔵(こはぐら)親雲上(ぺーちん)」だった。
厳密に言うと
古波蔵親雲上→古波蔵親方→名護親方。
程順則は父親が急逝したため、
14歳の時に真和志(まわし)間切の古波蔵地頭職を継ぎます。
26歳の時に黄冠を賜って「親雲上」の位に、
53歳で紫冠を賜って「親方」の位にになります。
程順則が名護間切の総地頭職に任命され
「名護親方」になるのは
彼が死ぬ5年前、66歳の時なので、
きっと「名護親方」よりは
「古波蔵親雲上(古波蔵親方)」っていうほうが、
本人は馴染んでいたはず。
なので、程順則を語る時に必ずセットであげられる、
六諭衍義や指南広義の持ちかえり、
明倫堂の建設、5回にも及ぶ中国への渡航などは
全部彼が「古波蔵」時代の実績
ということになります。
(ってゆーか、名護親方になってからは特に実績記録ないっぽい?)
参/「名護親方程順則資料集Ⅰ」(名護市教育委員会 名護市史編さん室/1991)
*おまけ*
琉球の階位は
里之子(さとぬし)、親雲上(ぺーちん)、親方(うぇーかた)などがあり
聞き覚えがあると思いますが、
久米村は特有の階位を持っていました。
(若秀才とか秀才とか。他にも通事、中議大夫、正議大夫など)
程順則は25歳の時に黄冠を頂戴したというのでそれを親雲上位とすると、
52歳の時に紫金大夫になった時を親方位と同等とし、
この記事を書きました。
琉球の階位と久米村の階位の相対一覧表はウィキペディアにありますよ。
(つづく)