『ジャパニーズ・スリーピング』のパンフに載っていた
野田秀樹さんと宮沢章夫さんの対談を読んでいたら、
とても共感するやりとりが出てきた。
野田:だから役者を見ていていつも気にしているのは、
その体の動きとかもあるんだけど、
やっぱり声。
宮沢:少しちがうかもしれないけど、ぼくも声には意識的ですね。
野田:声質とか、声の色とかがやっぱりすごく気になる。
でも、声っていうのは、じつは言葉そのものの響きであって、
声が出している言葉そのもの=意味ってわけではない。
(略)
宮沢:書いているときは、自分のなかに声が流れてるでしょ?
言葉っていうのは、やっぱり、声で書いているふうに、
自分も思います。
野田:役者が(台詞を)読んだときに、
そんなつもりで書いたんじゃないけどっていう。
宮沢:あはははは。それはありますよね。
もちろん、このお二人が作っているような作品と、
僕が手がけているようなテレビやラジオの台本はまったく違うものだが、
僕も台詞を書くときは、声で書く。
だから、収録現場に立ち会ったとき、
役者の出す声が思っていたものとまったく違うと、
戸惑いを覚える。
あるいは、以前、ドラマのようなものを書いたとき、
撮影現場で監督が動きの演出はするが、
台詞の演出はさほどしないのを見て、
かなり驚いたこともある。
台詞と「声」。
実は『ジャパニーズ・スリーピング』を観た帰り道、
「声」について考えた。
事前にテキストを読んでいってしまったため、
舞台における「声」の重要性というか存在というか、
そういうものについて考えてしまったのだ。
この件についてはもう少し考えてから改めて書きます。