山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

ブログ「島のまにまに~インドネシアの小径~」開設

2012-05-05 | なんとなく報告
このたび、別ブログ「島のまにまに~インドネシアの小径~」を始めました。
これまでこのブログに書いていたインドネシアの山里や自然の話は、今後そちらに移行します。
どうぞよろしくお願いします。


RICHO GX200 マクロのピント お仕事検証

2012-03-22 | なんとなく報告
一層寒さ厳しかった今朝です。-3℃だから、それほどびっくりはしないけど。
クロッカス、もう2週間ぐらい咲いている気がします。

さて、このブログを始めて早数年。今日になってやっと、1回の記事の中に複数枚数の写真を入れる方法が分かりましたハハハ。遅すぎます。

で、先日のピントの件。



素直な気持ちでカメラを向け、マクロモードにしてカシャっと1枚。花を中央にすればそこにピントが来るのがデフォルトの設定なのは、どのカメラも同じです。
けれど、後ろで倒れている花の茎がくっきりと写っています。ピントがそっちに行っちゃってるのです。
これは私が下手だから……とずっと思うようにしてきたのだけど、
だとすれば下手な人でも撮れるカメラにしてほしいもの。
いや、やっぱり、私は下手ではありますが、こうなってしまうのは私のせいではないと思います。

一番上のタイトルに入れている写真は多少ましに見えますが、やっぱり倒れている茎にピントが行っています。
何度やっても同じです。
これが、写す前にビューファインダーで確認できればまだいいのだけど、シャッター半押し状態ではこう見えないから困る。


真ん中にあるものより「線」にピントが合わせたいってことなんでしょうか。

春の彼岸に、仏教徒になる?

2012-03-19 | なんとなく報告
私は極めて信仰深くない人間である。

インドネシアに行くと、あんた何教?と聞かれるけど、答えに困ってしまう。
実家にはちゃんと仏壇があって道元さんともう一人なんとかさんと
ご先祖さんが祀ってある。
すなわち曹洞宗のお寺さんの檀家である。
しかし私はこれまで仏教を信仰してきた覚えはない。
もちろん親戚のお葬式は仏式で行ってきたけど。
うちにミニ道元さんがいるなんてついこの前まで知らなかった。
仏教やお寺には全く関心がなかった。

じゃあシントウ?と聞かれると、神道でもない、と言わざるを得ない。
近所には鎮守の社があってお祭りもあって、道端にはいろいろな神様が祀ってあって、それらに手を合わせるのが一番しっくりくる。しかしそれは本来「神道」と呼ぶようなものではなく、「自然教」といったほうが近い。
神道としてヤマトタケル命とか天照大神などを身近な神様として信仰してはいない。

なので、つまり私は「自然教」だと答える。


さて、
昨年から私が家もボチボチ世代交代の時代となり、たびたびお坊さんにお経を上げてもらったり、お寺に赴いたりする機会を得るようになった。

昨日は彼岸の入り。
いっちょお墓参りにでも行きますかと、愛知県の海辺にあるお寺に行ったわけです。
自主的にお墓参りに行こうなどと思ったのはほぼ初めてである。
人間変われば変わるものです。

--しかしわが父は「おとうさんは用事ないもん」などと、考えられないような発言をして、お寺参り~父の妻の墓参りなんだけど~を拒否した。父の親兄弟のお墓参りも「だって寒いがね」と拒否した。お寺やお墓に行かない主義なのはかまわないが、その理由が「用事がない」とか「寒い」だとかいうのは、どうなんだろう??

で、お寺では昨日彼岸法要というのをとりおこなっていた。
まずは、控え室で精進料理をいただいた!
これうれしかったですねぇ。お寺手作りのちょっとしたものなのだけど、
私の好きなものばかりで、ご飯もピカピカでほんとにおいしい!
これだけで、「またお彼岸には来たい!」と思ってしまいました。

見たことのないわらじの形のひりょうずの煮物、ひじきと油揚げと人参の炒め煮、金時豆の甘煮、ほうれんそうの胡麻和え、たくあん、里芋のお味噌汁。要するに、仏様にお供えするものと同じです。
あ、いや、人間が食べるものと同じものを仏様にお供えしているわけですね。


その後、お経。
7人のお坊さんが、鉦や銅鑼や太鼓を鳴らしながらお経を唱えたり、お香と筆でおまじないをしたり、ぐるぐる回ったり……
一番中心のおっさまは鮮やかなオレンジ色の衣装を着ているし、お堂の飾りつけも金やら朱やらできらびやか。
お坊さんたち、楽団みたいだし。

バリでヒンドゥーのお祭りに遭遇して、その様子がもの珍しく、驚いて、見物させてもらったけど、日本でもやってるじゃないですか! バリほど大掛かりではないけど。
こういうところを外国人が見たら、やっぱり驚いて、大喜びで写真をパチパチ撮ったりするのでしょう。
そして、こういうことは、外国人には多分ほとんど知られていないし、観光客の目に触れることはまずないでしょう。


そして、ほかの檀家の人たちと一緒に本堂に行儀良く坐っていると、なにやら、
「もしかして私は仏教徒なのかもしれない……」という気持ちになったのでした。

いや、いやでも仏教徒の気分にならざるを得なかったといえましょう。
こうやって宗教って家のなかで継承されていくのですね。
その後、初めて知ったけど、檀家の互助会費というものの集金があって、6000円払いました。仏教のシステムに組み込まれる方法が分かったというわけです。



写真は、インドネシア・バリ島 ヒンドゥー教の大祭の日、お供えの入ったかご。



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山里の聞き書きとクローズアップ現代

2012-03-14 | なんとなく報告
今日のNHKクローズアップ現代で、伝統的知恵とこれからのテクノロジーを扱っていた。
私たちが山里の聞き書きでやってきたことと非常に近いところにある話。

仲間に観るように勧めようと思ったら、今、クロ現って再放送やってないんですね……


山里の聞き書きでは、山里の(主に)お年寄りのお話を
すでに5冊の本にしているけど
聞いた話をアウトプットにする方法はいろいろ考えられる。
いろいろなアウトプットとかかわり方を今後もっと考えていきたいと
いい刺激になった。


今日もとてもいい天気。でもやっぱり寒かった。
大嫌いな事務仕事で一日暮れる。
時間がかかるわりにこなした量は微。
ほんとに苦手だと実感。
できればやりたくない。
頭痛もこれが原因で起こることが多い。

リコーGX200 マクロのピント

2012-03-08 | なんとなく報告
ずっと前に、リコーGX200のピントが合いにくいという記事を書いたことがある。

マクロモードでの撮影……合いにくい、というより、合いません。

3日前の記事のクロッカスは、マニュアルフォーカスで撮ったもの。
まあそれも上手に撮れているとはいえないけど、
花の中のどこかには何とかピントが合っているといえる。

これをオートフォーカスで撮ると、全くピントが合いません。ボケボケ。
シャッター半押しにした状態で、ビューファインダーで見ると合っている
ので、シャッターを切ると、思いっきりぼけている。
もちろん、ピントを合わせたい花の部分を真ん中にしている。
手ぶれしたのかしらと思って、何度も撮り直すけど
何度やっても同じで、シャッタースピードは1/200をはるかに超えるぐらい速い。
少しぼけている、ぶれているという程度ではなく、大きくぼやぼやなのである。

カメラがピントを合わせることができないのだと断言できる。

ただ、クロッカスの葉っぱ部分に合わせようとすると、うまく合う。
緑と白のコントラストの強い縦線。
つまり、被写体の模様によって、合わせられるものもあるということだ。

正直に言わせていただくと
合わないことがある、というより、合うことがある、と言ったほうがいい。

これをメーカーに出しても、こういうカメラですと言われるだけだろうから
持って行かない。故障ではなく、こういう能力なのだと思う。


この程度の花の撮影でピントが合わないようでは、困る。

このカメラ、とてもいい面を持っていて、たとえばAEL(露出固定)が使えたり、操作性がとてもよかったりする。
そしてときどきとてつもなくきれいに撮れたりするのだけど、
「時々」である。不意に、と言ってもいい。
一応コンパクトデジカメ(かつてバカチョンとも言われた)なので、バカでもチョンでも9割方上手に撮れることが必要条件のような気がする。

一眼レフはカメラに凝る人や難しい条件でも撮らねばならぬプロのための難しいカメラ、コンデジは簡単に楽しく撮れればいいという人のカメラ、
という方向なのだと思うけど、最近のコンデジは光などが難しい条件でなければとてもきれいに撮れる。
リコーのこのカメラは、そのどちらでもない。
操作が難しくないけど、言うことをきかない。
今まで、とてもいいヤツなんだけど気難しい、機嫌の取れない私が悪い、なんて思っていたけど
ここまで気難しいと、もうわたくしもあきらめの境地。
それでも決してキライではなくて、いまだ手放す気にはなれないのだけど。

手放す気になれないのは、高かったからということもあるかも。
当時10万円ぐらいしたのだから。
これ、詐欺にはまっていく人の心理か?
元を取るまで足が洗えないという。


フィルム時代にカメラを始めたけど、当時はカメラがこんなに難しいものだとは思っていなかった。
先生についていたこともあって、最初からいいカメラに出会えたのだと思う。
(今はなきcontaxにタムロンのレンズを着けていた。でもすばらしくきれいに撮れた)
ああそれにあの頃はオートフォーカス使ってなかった……

今、一眼レフもレンズが壊れたり、別のレンズは本体との相性がいまいちだったりして
苦闘中。
新しい一眼と、新しいコンデジ、両方ほしい……。

ぼちぼちと……

2011-12-26 | なんとなく報告
あっという間に10カ月が過ぎ……
長い間ブログを休んでおりまして、ときどきのぞいてくれていた方々、すみません。
私自身が楽しみにしているほかののブログ(ほとんど猫ブログ)が更新されてなかったりすると、やはりちょっとガッカリですから、このブログもたまには書かねばと思っているんですが。
全然書いていないのに、訪れてくれる人が日々たくさんいることには
驚いています。

長期にわたって更新していなかったのは、
東日本の地震でショックを受けたからとか
重い病気にかかっていたからとか、
家族が天国へ旅立ち落ち込んでいたからとか、
ビンボーで電気と通信を断たれていたからとか、
というわけでは全然なくて、
ただ、なんとなく……
つまり、サボっていたわけです。

書きたいネタは日々いろいろあったのですが
全部流れていってしまいました。
写真をほとんど撮っていないせいもあります。

さて、どうでもいい方にはどうでもいい言い訳はこれぐらいにして

とはいっても今日は軽く、ウォーミングアップということで。


今日の夕暮れは、薄く赤く染まった空に、暮れ行く藍色の空、
そして白と灰色に暮れなずむ雪の屋根……
凍りつく冬の、私のかなり好きな光景。
24日の早朝はマイナス6度まで下がり、夜から雪。
クリスマスの頃は、比較的雪が降りやすいようです。
昨日は一日雪で降り積もりました。

ちなみに今年の初積雪は18日の日曜日の朝。


ほぼ一年、ほぼ何もしないでいる間
なんとなくではありますが、自分の中でのたな卸し的なことが徐々に進行したのも事実。
生活の中の「手作り度」がやや上がり、
夏の終わりに電子レンジを捨て
先日ついに冷蔵庫を止めました。さすがに冷蔵庫を捨てに行ってはいないのですが。

電子レンジと冷蔵庫を捨てたのは、日本のために節電しようという高邁な精神のためではなく、
まずは、電子レンジで加熱した食品への不安。
そして、冷蔵庫を使うことによって、食べ物に対する大切な何かを失っていると思うから。
食べ物を買いだめしてとにかく冷蔵庫に入れておけば何とかなるさ、という、神経の粗雑さが発生すること。食べ物一つ一つへの気配りが欠けてくること。

忙しい会社勤め生活では、そんな悠長なことは言っていられないというのもよく分かります。実際バブル時代には本当に忙しく苦しい生活をしていて、ごみの分別すら大きな負担だったことを忘れることはできません。

そしてもちろん今は冬だから、冷蔵庫を使わないことは実に簡単です。
家の中の暖房してない部屋、名づけて「部屋ごと冷蔵庫」に入れておけばいいのですから。暖かい日でなければ、10度以上には上がりません。
真夏に冷蔵庫なしをやろうと思ったら、もっと山間の、清水を屋敷に引き込めるようなところで暮らしたほうがいい。壁と屋根の厚い蔵をつくり、流れる水で食べ物を冷やすのです。

それでも生の肉や魚は何日も保存できないので、買い物に行かない日は干物だの乾物だの(やや同じであるが)を利用し、生野菜も残ったら、鮮度を保つというより、干して保存するようにしています。日本伝統の食品保存の知恵を見直していきたいと思っています。


うちの電子レンジには、オーブントースター機能もついていたので
トースターも一緒になくなってしまった。
でもパンは網でガス火で焼けばいいのです。
それに慣れると、なぜオーブントースターなどというものがあるのか
不思議に思えてくる。
あると無駄だという意味ではなく、パン専用の焼く道具を考えた人はすごいなと。
日本人は食事はお米メインで、炊飯器を持っているのに、トースターまで持っているとは贅沢ではないか??
そういう私、実は、パン焼き器(ホームベーカリー)使ってたりするんですが、ははは。


うちでは夜はなるべく暗くして過ごすようにしているので(そのほうが心地よい)
照明に使う電気はそれほど多くない。
我が家で主に電気をくっているのは、やはり、テレビ(DVDデッキ含む)とパソコンやプリンター、あとは洗濯機だろうと思います。夏はエアコンが入ります。
正直、我が家のテレビ・DVDは、自慢できるほど稼動してます(笑)が、
日本の電気使用量は、全体的に、まだまだ減らせるんではないでしょうか。

ひとまず、今日はこれぐらいで。

頭痛女子のトリセツ

2011-01-14 | なんとなく報告
とてーもとてーも寒い日で、雪が舞っていました。

このブログに頭痛というカテゴリをつくったほうがいいんじゃないかというぐらい
しょっちゅう頭痛を愚痴っているのだけれど
愚痴だけではなく、頭痛にかなり詳しくなってしまったように思う。

医者はいろいろな専門分野を持っているけれど、
その医者がその病気にかかったことがあるかといえば
そうではないことのほうが多いだろう。
がんの研究者は一度がんにかかってみないといけないなんてことが
あるわけがない。
もちろんかかった人のほうがよく分かることは確かだろう。

で、頭痛の専門医ならさすがに頭痛のことはそれなりにわかってくれてるようだけど
そのへんの町医者が頭痛の処方をしようとしても
30年以上前から頭痛とつきあいこの1年半毎日のように頭痛がしている私と比べると、何にもわかっちゃいなくて、
なんだかまったくひとごとの、テキトーな対応をされるだけなのである。
その処方がかえって頭痛をひどくする処方だったり
治りませんからどうしようもありませんといわれたり
あげくのはては「頭痛が治らないのが頭痛のタネなのね、アハハ」
と全然面白くもジョークで嘲笑する医者がいたりして。
まあ、まさにそのとおりなので、一応うなずいておいたのだけど。

ほんとに、毎朝起きると頭痛がしている自分に落ち込んでしまい
さらに、頭痛のために仕事にとりかかれなかったりはかどらなかったりする自分に
ますます落ち込んでしまって
そういったことがまた次の頭痛を引き起こしているような気がする。
頭痛で約束をキャンセルしたりすると
どうせ仮病だと思われてるだろうなと落ち込み
言い訳をするときは後ろめたく
ほんとうにこれは休んでもいい痛みなのだろうか
痛いからといってのらりくらししているから治らないんじゃないかと考えて
また落ち込む。
これは「鬱」と同じ連鎖ですねえ。

まさに私の人生の最重要課題は、頭痛といかにつきあっていくかである。
ほかのもっと大変な病気の人からすると、気楽なもんなのでしょうが。

あまりにしつこく苦しいものだから、
前から気になっていた『頭痛女子のトリセツ』という本をアマゾンで取り寄せて
読んでみた。
どうせ私の知っていることばかり書いてあるに違いないので、まだ読んでいなかったのだけど、わらをもすがる気持ちとはこのことで
読めば少しは解決するかもと、ちょっとだけ期待を持った。
まさに、頭痛な自分の取り扱い方が知りたくて。

本の表紙に、「読む頭痛薬」と書いてある。期待でわくわくする。
しかし、読み終わっても、頭痛は治っていなかった。

8割は、やはり知っていることばかりだった。
しかし、残る2割、いや1割に、恐ろしいことが書いてあった。
それは、頭痛を我慢し続けると、脳が炎症のためダメージを受けて
年をとってから頭がぼんやりしたり、
性格が激変してキレやすい人になる、
というのである。

薬はあまり飲まないほうがいいという固定観念のため
頭痛のときは我慢に我慢を重ねて、
どうしても耐えられなくなったら薬を飲むようにしているのだけど
それではいけないらしい……

けれど私が医者からもらっている薬は月に5回ぐらいしか飲んではいけないのだから
毎日頭痛がしている私はどうしたらいいのだろう……
1錠飲むと6日効くのか?
いや、それどころか、効かないことすらあるのに……
あ、いやいや、その薬を飲んでいるとだんだん頭痛にならなくなるとも
書いてあったわ。

ふむ。

いずれにしても、この人の本は、偏頭痛か緊張性頭痛か(群発性頭痛は別にして)というこれまでどおりの2分類で話をする域を出ていなくて、私のタイプの頭痛の人には、根本的な解決になる本ではなかった。
けなすわけではないし、こういう本が多くの人に読まれることは喜ばしいのだけど。
痛みの種類は、輪で締め付けられるような痛みか、後頭部の痛みか、目の奥の痛みかで分けられていて、やはり頭の前の痛みのことには触れていない。

頭の前が痛いんですよ……
そういう頭痛があることを知らない医者、99%だと思う。
私のタイプの頭痛で悩んでいる人たくさんいると思うんだけど。
早く山梨の「ながせき頭痛クリニック」の先生に、新しい本を書いていただきたいものである。

クリスマスですって?

2010-12-25 | なんとなく報告
朝起きたら、雪化粧していた。
白クリスマス。

毎年のようにクリスマスになじめないとブログに書いているような気がするけれど
考えてみればその傾向は年とともにひどくなっている。
子どもの頃はケーキ食べたさに、クリスマスはそれなりにうれしかった。
当時ケーキなどというものは、誕生日とクリスマスにしか食べられなかったから。

当時のケーキはバタークリームのものが主体で
(冷蔵庫が普及してなかった時代を引きずっていたのだろうか)
そのクリームがとてもまずくて
一口食べてはいやになっていたのだけど
それが分かっていても、華やかなケーキがやっぱりほしくて
父が会社帰りにケーキを買って持って帰ってくるのが待ち遠しくてならなかった。

子どもっていいなぁ
そんなことにときめけて。

まあ、大人になって、ケーキも珍しくないし
そのせいか食べたいとも思わないし
やっぱりこれは
飽食時代、飽物時代ゆえでしょうか。
娯楽もありすぎるほどあるし。

物があふれかえって、最近ではいかにモノを減らすかという本が
やたら売れているようです。
そんな本買ったらまたモノが増えるのに。
でもちょっと読んでみたい(笑)。
物を捨てるってのは、結局「自分さがし」なのよねえ。
自分にとって大事なものをいかに見つけ出し
過去といかに訣別するかってことなんだから。


でも日本にも本当にクリスマスの本来のキリスト教的意味を理解して
大切にしている人たちがいて
そのことは決して否定しはしない。いいことだと思います。


そして今気づいたけれど、私は
「ここは日本だから」「もうすぐお正月だから」といって
プレゼントがもらえなかった思い出こそを
とてもいいこととして大切にし、また誇りにもしているということである。
その中に両親の身の丈に合ったつつましさや堅実さや健気さや
暮らしへのまなざしとやさしい心を感じているのである。
そんな両親の断固とした態度こそが、私へのプレゼントであったように思う。

遭難とガイド その2

2010-11-05 | なんとなく報告
山岳ツアーは、海外旅行ツアーのような感じで、山に登りたい人が、道案内やさまざまな指導をしてもらって山を楽しむサービスのついたツアーとして
20年ぐらい前からできたらしい。

当然この時代、そういうものはできるだろう。
私も森林インストラクターとして、森林をガイドする仕事をしていた。
そのノリはよく分かる。

参加者は、お金を払ってサービスを受けるのだから
命を守る部分までそのサービスに含まれていると
思ってしまうことになるだろう。
おそらくそのあたりに、かなり無理があるのだと思う。
命を守る仕事に、値段なんかつけることは難しいだろう。
つけるとしたら、ものすごく高いものになるのでは。
そうすればツアー自体が成り立たない。
だから本来登山は、「ツアーを買う」のではなく
信頼しあった人と、お金で結ばれない関係で行くべきだろう。

また、ツアーに申し込むということは、チケットの手配、宿の手配、道順を調べ、工程を考える手間が省ける。これには本来相当の時間がかかるはずである。旅の計画ほどしんどいものはない。
大きなメリットがあるのだから、参加者はそれ相応の支払いをするのは当然である。

ガイドは登山を快適にする案内人であって、
最終的に自分の命は自分で守る、責任を持つという気概がなければ
山岳ツアーには参加しない方がいいだろう。
ガイドも人間であって、体調を悪くすれば判断力もなくなる。
さっきまで健康だった人が脳梗塞で倒れるということだってあるのだから。

トムラウシ山事故の参加者の中には
ガイド並みかそれ以上に良い役割を果たした人がいた。
いざというときには、誰が守る人、誰が守られる人、とか
サービスをする人、受ける人という壁をなくして
みんなで対等に協力しあう気持ちがなければ
みんながだめになってしまうということが
本からは読み取れた。

どこかの公園を歩くぐらいならいいが
登山という危険な場においては
参加者も自分の命を人にお任せで出かけてはいけない
ということを、多くの人が知る必要がある。

遭難とガイド

2010-11-03 | なんとなく報告
ブログを書かない癖がすっかり身についてしまった。
10月の記事はなんと2本。過去最悪ではないか。
決して眠っていたわけではなく、名古屋ではCOP10が駆け抜け、
連日その関連記事やフォーラムを追うのに忙しかったし
島根や岡山の山中に聞き書きを伝道に行ったりなどと
右往左往していた。

トムラウシ山の遭難はなぜ起こったか
という本がやっと図書館からやってきて
遭難の経緯とガイドの証言を読んだ。
誰がどう悪いなどということは一言では言えないが
このツアーを催行したアミューズ社のガイドが、
2004年頃には日当1万5千円で雇われていたことを知り
驚く。
(トムラウシの遭難が起こったのは2008年であり、そのときの日当については書かれていないが、それほど大きく違うとは思わない。このツアーではガイド3人と参加者15人、計18人のうち8人が亡くなった)
一桁違わないか。
人命を守ることが最大の目的であるガイドに、それはないでしょう。
もちろん電車やバスを運転することにも人命はかかっているけれど
山岳ガイドというのは現場でのすばやい総合的判断力が求められる、専門的知識を有する難しい仕事だと思う。現場の状況は毎回違う。
恐らく下見や準備をする業務には謝金は支払われていない。
なぜなら、そのときの主ガイドで責任者だった人(亡くなった)は、
トムラウシ山に行ったことが一度もなかったからだ。
下見の日当と経費が払われていれば、当然ガイドは義務としてそれを行ったであろう。
同行していたもう1人のガイドはさすがに行ったことがあった。

現場に一度も行ったことのない人がなぜガイドができるのか不思議でならない。
というか、ガイドとは現場案内人であると思うのだけど。

さらに、現場に持ち込まれたテント(使われることはなかった)は、同社の別のツアーからぬれたまま現地に直送されていて、
ツアーが始まって山に登った1日目に、山で干して、点検を行ったという。
ありえない。ダメなテントだったらどうするつもりなのか。

お金がすべてではないが、そのような雇われ方なら、仕事を軽く見てしまうこともあるだろう。会社がガイドにそれほど重要度を感じていないということの現われだと思われても仕方ない。


樋口一葉に似て

2010-09-27 | なんとなく報告
樋口一葉の本名は奈津という。
私の名前は奈津子である。

文学好きの父が、樋口一葉にあやかろうと付けたのではないかと思う。
(父は「なんとなく付けた」としか言わないけど)

しかし、私があやかったのは、文才ではなく、頭痛のほう。
樋口一葉の頭痛は有名で、毎日激しい頭痛と闘いながら
名作を数々執筆した。
ちなみにモーツァルトもベートーベンもそうらしい。
一体頭痛の中でどうしたら創作活動などできるのだろう。
驚異的。


そういうわけでここ数日また頭痛ひどくて
横になって頭痛の頭で考えた回文(怪文)

あたま いたい またぁ。

文才も樋口一葉に近づけるよう頑張ろう!

暑い夏にはサルスベリ

2010-08-20 | なんとなく報告
体も精神もへなへなして、どうもブログを書く気力が湧いてこない。
ねたはいくらでもあるのに、体の底から力が湧いてこなくて、困ってしまう。
ちょくちょくこのブログをチェックしてくれている人(ほとんどが知り合いだと思うんだけど)には、ほんと申し訳ないです。

写真は半月ほどまえのサルスベリ。
その記事を書いていたらパソコンが突然OFFになって挫折。
半年ぐらい前から、よくパソコンが突然ストライキを起こす。
まあ何かとお疲れのときもあるでしょうから休んでもいいが、
なるべく予告してから休んでほしい。


目がさめたら、窓の外にうっそうとピンクの花の群れ。
南国に来ているようで、いい気分。
その勢いも、最近ちょっと落ちてきました。

行方不明の人たちと、インドネシアの国勢調査

2010-08-09 | なんとなく報告
全国各地で、戸籍上はいるはずなのに、実はいない、というお年寄りのことが続々と明るみに出た。

家族と一緒にいるのに隣室で白骨化していたというのは特殊な例としても、はなはだ無責任な言い方をすれば、死期近くなって姿を消し、どこかの山中で静かに息を引き取り土に戻るのだとすれば、それは生き物としてなかなか立派な死に方なのではないかと思う。
家族に介護の世話をかけることもない。

猫はそういう死に方をする。
人と猫と一緒にしてはいけないという人もいるかもしれない。

行方不明の人たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
日本の場合、都会のお年寄りが一人でそのような山中に入り込むということもないだろうから、どこかの街で行き倒れになり、病院なり施設なりに運ばれて、そこで名もない人として生きている(あるいは亡くなった)というのが多いのだろうか。

幸福の黄色いハンカチみたいに、どっかの農家の納屋にすみつきそれなりに仕事をしていたりするならいいけれど。
あるいは寅さんみたいに旅をしている?
昔はそういう素性の分からない流れ者みたいな人が、
山村にやってきて、住み着いたり、まだ若い人であればそこで所帯をもったりすることも
多くあったようである。
そうやって、新しい血を入れていたりしたのである。

どこかの施設に引き取られている場合なら、税金でその人をやしなったり看護したりしているわけで、家族は年金をもらいその義務を免れているのだから、けしからんという言い方もできなくはないが
都会だからそういうことにきちきちせざるを得ないのであって
山里には場所も食料もふんだんにあり、ただ行政のしくみとして困るということであって
健全なコミュニティーというのは本来そういう「ゆとり」「あそび」があるものだろう。

そもそも、人の出生と死について、すべてを国が把握できていることのほうが異常であり奇跡的驚異的であり、むしろ不自然である。


インドネシアでは5年ぶりかなんかで国勢調査を行い、今まで把握されていなかった樹上生活の民族のむらに分け入ったらしい。パプア島のこと。
インドネシアというのは本当に広くて、無数の島があり、それが一つの国になっていること自体、驚異的である。どうやってそれを「国」にしているのか不思議でならない。
ジャングルを奥へ奥へと分け入っていけば、忘れたころに次のむらが現れ、それが他の地域と隔離されていれば、別の民族だったりする。
フローレス島では、ネアンデルタール人とは別の系統の人類の骨が発見されている。
くだんの樹上生活の人たちへの国勢調査の様子をテレビでやっていたが、「インドネシアって何?」って答えていた。
彼らにとっては国なんか関係ない。

把握できない人たちやその地域を、自分の国として括ろうとすることをやめてみてはどうなんだろう。国勢調査の手間も省ける。
把握できる人と地域だけを自分の国とする。それでダメなのか。
インドネシアを批判しているのではない。
地球上のすべての地域をどこかの国として境界を引くようになったのは、いつからなの?
学校で習ったかもしれないが、歴史は苦手だったので、私は無知である。
ただ、その方式の中に、権力者の陣地取り合戦のにおいを感じて
無為に思うのである。
管理しようとしているのは誰なのか。
何のために管理するのか。

国というのは、「よその国」があって初めて意識されるものである。
よその国が認識されなければ、自国を国として括る必要もないし、境界線を引く必要もない。
生活に必要な土地を利用して暮らす、それだけのことである。

どこの「国家」にも属さず、自分たちの暮らしを営々と続け、そのことを外の人には知られずにいる人たちが(知られてもいいけど支配されずにいる人たちが)、地球上に残っていてほしいと思うのは、
私だけだろうか。



最近のいけないこと 続き

2010-05-28 | なんとなく報告
私は何党を特に支持しているということもないし、政治のことは詳しくない。何も見えてないといえるかもしれないし、距離を置いているから見えることというのもあると思う。
自民党が民主党に変わったときも、何の感慨もなかった。確かに与党なるものが交代したかもしれないが、それで日本の政治が、あるいは日本という国が、もっといえば自分の暮らしが大きく変わるなどとは予感できないからである。もちろん、この予感のなさは私の無知によるものかもしれない。
自民党が民主党に変わったとき、どうしてあんなに世の中が大騒ぎをするのか、不思議な気がした。与党が民主党に変わることの意味や、そのもたらす影響をはっきり認識して騒いでいる人が、その中に何割いただろう。マスコミが騒いでいるから、「ここ騒ぐとこ」と思って騒いでいた人が多くはないか。
あの選挙のときとても気になったのは、自民党と民主党の内容よりも、自民党を支持する、などと言い出せない雰囲気が世の中に流れていたことである。少なくとも私の周りではそうだった。マスコミ(特にテレビ)はどう見ても民主党に加勢していた。「政権交代」をあおっていたと思う。
私は周りが民主党だと騒げば騒ぐほど冷ややかな目で見てしまった。
テレビを作っている人たちが、本当に自民党と民主党を正しく比べて民主党がいいと思ってそうしていたのだろうか。政権が交代しないより交代した方が番組は面白くなるだろう。政権交代のムードを作った方が面白いからやっていたのではないか。視聴率も上がるだろう。
選挙(または政治)というものを、イベントとして面白がっているだけのような気がした。
そして、マスコミにそうされても仕方ないような政治がそこにある。
視聴者に媚びる番組を見て喜び、マスコミに誘導される視聴者がいる。
そしてスパイラル的に下らなくなっていく。
みんな共犯である。

いまや政治家もマスコミに誘導されているように見える。

あの選挙で政権交代だとかいって大喜びしている日本人は、やっぱり平和ボケしててヒマなんだと思う。

誰もが衆愚である。それは逃れることができない立場である。
だから、衆愚の一員であることを自覚して、利用されないようにする心がけが大切だと思う。


民主党に変わったとき、あんなにチヤホヤしていたテレビの人たちの、今の鳩山さんの扱い。
言うことが変わった人を変わった通りに報道するのはいいが、人の苦悩を面白がっているように見える。冷静さを欠いた、感情の先走った伝え方が目立つ。
鳩山さんのみならず、沖縄の人や、大臣たちなどの登場人物を、面白がってみている。
劇場ではないのに。

最近のいけないこと

2010-05-23 | なんとなく報告
おお、なんと。
2週間以上もブランクが。
いろいろ気ぜわしくて怠けておりました。
しばらく治っていた頭痛が1週間ほど前からまた続いていたりして。

そんな状況でいきなり山里とは何の関係もない話題で恐縮ですが
最近の民放の堕落ぶりはひどい。
ドラマですら見るべきものがない。
どうしてあんなに型にはまったディテールの表現しかしないのか。
テレビを作っている人はテレビを観すぎなんじゃないか。
テレビ的言語、テレビ的表現、テレビ的テーマ、テレビ的展開。
考えることを怠け、同じことを繰り返す。
そういうものに馴らされて平気でいられる視聴者もいけないし
作り手は視聴者を「そんな程度の人々」としてバカにしているのだと思う。

そんな中で、唯一、NHKの「チェイス」は、観てしまいましたねぇ。
流血シーンは大嫌いだけど、我慢して。
次の週が待ち遠しかった。
昨日録画した最終回をさっき観ましたけれど、
奈落の底に突き落とされる結末でした。
観終わった後、ボーゼン……。
もうちょっとどこかに希望の光の見える最後になるだろうと無意識に期待してたのに。
なぜなら、どんなドラマでも最後はたいてい上向きだから。
見事に裏切られました。
希望が見えない結末が唯一の希望だといいたいのだろうか。
(決して結末のあり方を否定するものではありません。評価してます)

私の子どもの頃は、NHKはある種ダサい局と見なされていた気がするけど
もう今はNHKの一人勝ちだと思います。
  まあ、それなりに受信料もお高いですが。


マスコミの話題で言えば、基地に関しての鳩山さん問題もひどい。
それはマスコミだけでなく、国民全体の雰囲気が、ひどいと思う。
けれども、国民をそういう意識に方向付けしているのがマスコミであることは明らかである。
日本人が問題にすべきなのは鳩山さんではなく基地を作っている国であり、作らせている日本そのものである。
無責任ないじめ的姿勢。
海辺に流れ着いた亀を寄ってたかって棒でたたいている子どもたちみたい。
私は何党でもなく政治にはかなり無関心だけど
鳩山さんに対しては政治以前に、一人の人間に対する態度として、
国民の集まりとしての国が、暴力的で恥ずべき姿勢をとっていると感じる。

マスコミに操作されてはいけません。
マスコミだけでなく、大きなものに操作されないように注意しましょう。