山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

また春に そしてウイルスの脅威

2020-04-01 | めぐる季節と自然

この冬は一つの仕事にかかりきりだった。「それが終わってふと顔を上げたら春が来ていることに驚く」んだろうなと思っていた。

まさに、私の中には冬の記憶がない。外は花盛りだ。昨日、うちの近所の家々では、水仙が本当に満開だった。

水仙は品種によって少し咲く時期がずれるものの、よく見る品種のものが、一斉に咲きそろっていた。

桜は早いものは満開、シデコブシは3~5分咲き。

そしてまた、今年は暖かかったせいか、ツバキの花つきも良いようだ。

 

アサツキがもう10センチぐらいになっている。まっすぐにツンツンツンツンと伸びるさまは、本当にかわいい。今の時期、まだしなだれずに、針のように真っ直ぐなまま、伸びている。

 

ずっと文章を書かずにいて、なんだか歌を忘れたカナリアのようになってしまった。

歌の場合は、忘れたと思っていても練習すると戻る、どころか場合によっては前より良くなることが分かったので

文章についてもそうであると信じたい。

実際、この冬の仕事は文章を書く仕事であったものの、書いていたという実感が全くない。すでにある文章を加工していくものだったので、頭よりは手を動かしていた感じである。

もちろん頭もつかっているのだが、自分オリジナルの文章を書く時とは脳の使う場所が全く違うようである。よって、必要な能力もかなり違うだろう。もちろん共通する部分はある。

 

世間がウイルスのせいで大変なことになっている。正直言ってこれからどうなるのか分からないが、想定外のもっとひどいことにならないことを願うだけだ。

つまり、今のコロナウイルスだけで済まずに、それが変異してエボラみたいにもっと感染力が強くもっと致死率の高いものになるとか、違うウイルスも併せて蔓延するとか(中国であやしい噂がある、それはヒトヒト感染はしないやつらしいけど)、あるいは大地震や大噴火などの別の災害があるとか、経済危機でスーパーインフレになったりモノがなくなったりとか。

違う感染症が蔓延することについては、今のコロナで医療崩壊など起これば、違うものが流行ってきたとき防御したり対応したりもできないのだから、それの流行も防げなくなるわけで。

そう思うと、私の住んでいる田舎町の行政初め団体や市民の危機感のなさに危機感を感じるばかりである。昨日も知人が「今日はサークルでバドミントンしてきたの、ダブルスで。子どももいたわ」などと言っており、「口呼吸でゼイゼイスースー息したらかんよ」と言っておいたがさほど気にしていないようである。中津川市は4月4日から苗木城に行く観光客向けバスの運行を始めるそうである。観光で潤うのかもしれないが(どれほど潤うのか不明だ)、今そんなこと言ってる場合ではないと思うのですよ。

ウイルスといってすぐ思い出すのはマイマイガである。10年ぐらいの周期で大発生する蛾(毛虫)で、5、6年前に飛騨地方で大発生した。そのとき私は飛騨に植物の調査に行っていて、その猛威を体感した。とにかく、笹原の笹の1本1本に(体感として)大きな毛虫がついており、もちろん木にも大量にいて車の上に落ちてきて、マイマイガの海みたいなもんである。向こうの山を見ると丸裸になっているのである。一旦丸裸になった山は、7月だというのに新芽が出て来て新緑になりかけていたりした。そのとき、飛騨のホオの葉がなくなって朴葉寿司が作れなくなり、美濃地方の朴葉が引っ張りだこだったようである。

それほどの猛威をふるうマイマイガも、翌年にはほとんどいなくなってしまう。あるウイルスに感染してほとんど死んでしまうらしいのである。その猛威の最中にも、変色して死にかけているマイマイガがいくらかいた。そのようにして、シーズン終わりにはマイマイガの猛威が終息していくのである。

それを知ったとき、生物の長い歴史の中でこの1000年か2000年ほど(?)で爆発的に大発生した人間が、ある種のウイルスによって5%とか1%とかに減らされてしまう日が来るかもしれないと思ったりして、エボラ出血熱が出てきたときには、「来たか」と思ったのであった。

こんなこと人ごとのようにのんきに書いている場合ではないな。