聖徳太子
聖徳太子の没後1400年番組を見る機会に恵まれた。71才の私には聖徳太子が描かれている壱万円札は記憶に深い。なんとか縁を持ちたいと長く願っていたお札だからである。
さて、蘇我馬子が力を持っていた時、辞退していた天皇即位を推古天皇が受け入れる条件だよと聖徳太子の摂政を馬子は受け入れた。朝鮮半島の新羅と戦うため百済応援に行こうと馬子は決定していたが、戦うことによる出費や人の消耗を知って、戦うことを回避しようと聖徳太子は考えた。兵は都から出発はしたが海は渡らず長期に待機する。
換わりに隋に遣いを出し、新羅を挟んで抑えることを要請する。遣いの小野妹子は1度目には「官位も律令もない国だ」と会うこともできない。そこで2度目には冠位十二階と十七条の憲法とを持って、再度渡航する。時間は経過して、この時期には新羅はすでに強力な国になっている。
「和を以て貴としとなせ」
第一条である。豪族の寄り集まりだった当時の日本(倭)、自分の利益を望みぶつかることが日常。「和」こそが大切だという。冠位は広く一般より人財を見つけて、豪族の後ろ盾なくても登用する。自信が持てる憲法であっただろう。また、聖徳太子が摂政であった期間には、他国との戦争はなかったという。
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